1837年3月号
天満、火の海——元与力・大塩平八郎、大坂にて挙兵
天保八年二月十九日朝、天満の元与力・大塩平八郎が門弟や近郊農民らとともに挙兵。「救民」の旗を掲げて豪商の家々を焼き討ちし、折からの風にあおられた火は市中に広がって、二十日の夜まで燃え続けた。
去る二月十九日、大坂に未曾有の変事が起こった。大坂から逃れてきた者や行き交う人々の話を聞き集めるに、天満の元東町奉行所与力にして王学の儒者・大塩平八郎殿が、門弟の与力・同心や近郊の農民らを率い、突如として兵を挙げたとのことである。 近年続く冷害と大飢饉により、諸国の米価は高騰を極め、大坂の町でも路上に行き倒れが相次ぐ惨状であった。しかるに大坂町奉行所は窮民の救済に動かぬばかりか、御公儀の命とて大坂の米を江戸へ回送し続け、豪商らは米を買い占めて値をつり上げていたと聞く。かつて奉行所で数々の不正を暴き、清廉を謳われた大塩殿は、私財の蔵書を売り払って飢民に施すなど手を尽くされたが、役人の無策に憤激し、ついに兵を挙げるに至られた由である。 大塩殿らは自らの屋敷に火を放ち、「救民」と大書した旗を押し立てて進発。天満を南へ進んだものの、天神橋は奉行所の命で橋板が落とされていたため、大川沿いを西へ回って難波橋を渡り、北浜・今橋・高麗橋筋に至って、鴻池屋や三井呉服店をはじめとする豪商の家々に大砲や火矢を放って焼き討ちし、米や金品を群がり集まった貧民に分け与えたという。しかし折悪しく強い丑寅の風が吹き荒れ、放たれた火は瞬く間に市中に延焼した。 火は翌日に至るまで燃え続け、聞くところでは天満から船場にかけて市中の五分の一ほどが焼け、焼けた竈の数は一万二千を超えるという。大坂城代・土井利位様の命で東町奉行跡部良弼様、西町奉行堀利堅様の手勢が出動し、日暮れを待たずに蜂起勢を蹴散らしたものの、主謀の大塩父子の行方は杳として知れず、市中には今なお厳重な探索が敷かれている。大義を掲げた義挙とはいえ、多くの町人が住まいを失い路頭に迷っていると聞くにつけ、胸塞がる思いを禁じ得ない。この災禍の次第を、伝え聞いたままに急ぎ筆を執って書き留めておく。
天満、火の海——元与力・大塩平八郎、大坂にて挙兵
天保八年二月十九日朝、天満の元与力・大塩平八郎が門弟や近郊農民らとともに挙兵。「救民」の旗を掲げて豪商の家々を焼き討ちし、折からの風にあおられた火は市中に広がって、二十日の夜まで燃え続けた。
去る二月十九日、大坂に未曾有の変事が起こった。大坂から逃れてきた者や行き交う人々の話を聞き集めるに、天満の元東町奉行所与力にして王学の儒者・大塩平八郎殿が、門弟の与力・同心や近郊の農民らを率い、突如として兵を挙げたとのことである。 近年続く冷害と大飢饉により、諸国の米価は高騰を極め、大坂の町でも路上に行き倒れが相次ぐ惨状であった。しかるに大坂町奉行所は窮民の救済に動かぬばかりか、御公儀の命とて大坂の米を江戸へ回送し続け、豪商らは米を買い占めて値をつり上げていたと聞く。かつて奉行所で数々の不正を暴き、清廉を謳われた大塩殿は、私財の蔵書を売り払って飢民に施すなど手を尽くされたが、役人の無策に憤激し、ついに兵を挙げるに至られた由である。 大塩殿らは自らの屋敷に火を放ち、「救民」と大書した旗を押し立てて進発。天満を南へ進んだものの、天神橋は奉行所の命で橋板が落とされていたため、大川沿いを西へ回って難波橋を渡り、北浜・今橋・高麗橋筋に至って、鴻池屋や三井呉服店をはじめとする豪商の家々に大砲や火矢を放って焼き討ちし、米や金品を群がり集まった貧民に分け与えたという。しかし折悪しく強い丑寅の風が吹き荒れ、放たれた火は瞬く間に市中に延焼した。 火は翌日に至るまで燃え続け、聞くところでは天満から船場にかけて市中の五分の一ほどが焼け、焼けた竈の数は一万二千を超えるという。大坂城代・土井利位様の命で東町奉行跡部良弼様、西町奉行堀利堅様の手勢が出動し、日暮れを待たずに蜂起勢を蹴散らしたものの、主謀の大塩父子の行方は杳として知れず、市中には今なお厳重な探索が敷かれている。大義を掲げた義挙とはいえ、多くの町人が住まいを失い路頭に迷っていると聞くにつけ、胸塞がる思いを禁じ得ない。この災禍の次第を、伝え聞いたままに急ぎ筆を執って書き留めておく。
救民と 掲げし旗は 勇ましく 焼け出されたる 民ぞ惑へる
─ 船場の番頭 ─
救民と 掲げし旗は 勇ましく 焼け出されたる 民ぞ惑へる
─ 船場の番頭 ─
棚の奥から、天保八年二月の大坂の瓦版と記録が出てきた。あの大塩平八郎の乱の直後、大坂から届く報せを一つひとつ書き留めとった広瀬旭荘先生の日記と手控えである。 大坂はわしらの本拠地や。船場や天満の町が火の海になって、蔵も店も灰燼に帰したと知ったときの町衆の嘆きは、どれほどのもんやったろう。大塩先生の「民を救いたい」という純粋すぎる正義感が、結果として愛する町を焼き尽くしてしもうた皮肉には、胸が締め付けられる。 旭荘先生は儒者らしく、いたずらに騒ぎ立てず、見聞きした事実を淡々と、せやけど深い憂悶を込めて書き留めてくれとる。こういう生の記録が残っとるからこそ、後世のわしらも歴史の痛みを我が事として受け止められるんやなあ。焼け出された人々のその後を思いつつ、改めてこの手控えを大事にしまっておくことにする。
棚の奥から、天保八年二月の大坂の瓦版と記録が出てきた。あの大塩平八郎の乱の直後、大坂から届く報せを一つひとつ書き留めとった広瀬旭荘先生の日記と手控えである。 大坂はわしらの本拠地や。船場や天満の町が火の海になって、蔵も店も灰燼に帰したと知ったときの町衆の嘆きは、どれほどのもんやったろう。大塩先生の「民を救いたい」という純粋すぎる正義感が、結果として愛する町を焼き尽くしてしもうた皮肉には、胸が締め付けられる。 旭荘先生は儒者らしく、いたずらに騒ぎ立てず、見聞きした事実を淡々と、せやけど深い憂悶を込めて書き留めてくれとる。こういう生の記録が残っとるからこそ、後世のわしらも歴史の痛みを我が事として受け止められるんやなあ。焼け出された人々のその後を思いつつ、改めてこの手控えを大事にしまっておくことにする。
