1582年6月号
本能寺、炎上——織田信長、明智光秀に討たれる
天正十年六月二日未明、京の本能寺を明智光秀の軍勢が包囲。信長様、御自刃との報せが早馬で次々に飛び込み、上方は上を下への大騒ぎとなっている。
今号最大の一報はこれに尽きる。六月二日未明、京・本能寺に宿していた織田信長様が、明智光秀の軍勢に包囲され、御自刃なされたとの報せが上方から次々に飛び込んできている。お供の森蘭丸殿ら小姓衆数十人ばかりという、ごく手薄な守りであったという。嫡男の信忠様も、事変を知って二条の新御所に立て籠もったものの、多勢に無勢、こちらも自刃なされたとのこと。あまりに急な話で、右筆としてもまだ手が震えている。 思えば予兆はあった。光秀殿は中国方面への後詰めを命じられ、備中で毛利方の高松城を水攻めにしている羽柴秀吉殿のもとへ向かう手はずだったはず。ところがその道中、軍勢を京へ引き返し、本能寺を囲んだという。主君討伐という前代未聞の挙に、光秀殿の胸の内がどうであったかは、今はまだ誰にも分からぬ。かねて中国出陣への不満があったという噂も聞くが、真偽のほどは定かでない。 安土城では城代の蒲生賢秀殿が、いち早く城内の婦人たちを日野へ退去させたという。堺に滞在していた徳川家康様も、信長様討死の報を受けてただちに退去の途についたとのこと。畿内一円、寺も町屋も浮足立ち、誰もが京の方角ばかり気にしている有様である。 信長様が「天下布武」の印を用いられてよりおよそ十五年、積み上げてこられた天下の構想が、たった一夜でどうなるか——正直、先のことは何も見通せない。備中の秀吉殿の陣にもこの報が届けば、どう動くか計り知れぬ。ただ、この報だけは急ぎ書き留めておかねばと、筆を執った次第である。続報が入り次第、追ってお伝えする。
本能寺、炎上——織田信長、明智光秀に討たれる
天正十年六月二日未明、京の本能寺を明智光秀の軍勢が包囲。信長様、御自刃との報せが早馬で次々に飛び込み、上方は上を下への大騒ぎとなっている。
今号最大の一報はこれに尽きる。六月二日未明、京・本能寺に宿していた織田信長様が、明智光秀の軍勢に包囲され、御自刃なされたとの報せが上方から次々に飛び込んできている。お供の森蘭丸殿ら小姓衆数十人ばかりという、ごく手薄な守りであったという。嫡男の信忠様も、事変を知って二条の新御所に立て籠もったものの、多勢に無勢、こちらも自刃なされたとのこと。あまりに急な話で、右筆としてもまだ手が震えている。 思えば予兆はあった。光秀殿は中国方面への後詰めを命じられ、備中で毛利方の高松城を水攻めにしている羽柴秀吉殿のもとへ向かう手はずだったはず。ところがその道中、軍勢を京へ引き返し、本能寺を囲んだという。主君討伐という前代未聞の挙に、光秀殿の胸の内がどうであったかは、今はまだ誰にも分からぬ。かねて中国出陣への不満があったという噂も聞くが、真偽のほどは定かでない。 安土城では城代の蒲生賢秀殿が、いち早く城内の婦人たちを日野へ退去させたという。堺に滞在していた徳川家康様も、信長様討死の報を受けてただちに退去の途についたとのこと。畿内一円、寺も町屋も浮足立ち、誰もが京の方角ばかり気にしている有様である。 信長様が「天下布武」の印を用いられてよりおよそ十五年、積み上げてこられた天下の構想が、たった一夜でどうなるか——正直、先のことは何も見通せない。備中の秀吉殿の陣にもこの報が届けば、どう動くか計り知れぬ。ただ、この報だけは急ぎ書き留めておかねばと、筆を執った次第である。続報が入り次第、追ってお伝えする。
上様御動静(六月一日)
六月二日の凶変が世に知れ渡るいま、その前日――六月一日に上様が本能寺で如何に過ごしておられたか、見聞きしたところから辿ってみる。
上様、御生涯最後の一日となった六月一日の御動静を、見聞きしたところにより左に記しておく。中国表への御出陣を目前に控え、五月二十九日に安土より御上洛、本能寺に御逗留中であった。御供は森蘭丸殿ら小姓衆ばかりで、本隊はまだ下向していなかった。 この日、近衛前久様をはじめ公家衆四十人ばかりが、御上洛の御礼として本能寺へ参上なされた。上様は一同と御雑談に及ばれ、茶子・茶を振る舞われたという。参上した山科言経様も、大いに喜んでおられた由である。 安土よりは名物の茶道具の数々を運ばせておられたとも聞く。博多の商人衆も招かれていたとの噂があるが、その顔ぶれまでは確かめ得ていない。上様は近日中に御自ら中国表へ御出馬なさる御意向であったという。 同じ夜、明智光秀殿の軍勢が丹波亀山を発ったことは、後になって知れた。上様はその夜も本能寺にて御就寝なされ、翌二日未明、あの凶変を迎えられることとなる。
上様御動静(六月一日)
六月二日の凶変が世に知れ渡るいま、その前日――六月一日に上様が本能寺で如何に過ごしておられたか、見聞きしたところから辿ってみる。
上様、御生涯最後の一日となった六月一日の御動静を、見聞きしたところにより左に記しておく。中国表への御出陣を目前に控え、五月二十九日に安土より御上洛、本能寺に御逗留中であった。御供は森蘭丸殿ら小姓衆ばかりで、本隊はまだ下向していなかった。 この日、近衛前久様をはじめ公家衆四十人ばかりが、御上洛の御礼として本能寺へ参上なされた。上様は一同と御雑談に及ばれ、茶子・茶を振る舞われたという。参上した山科言経様も、大いに喜んでおられた由である。 安土よりは名物の茶道具の数々を運ばせておられたとも聞く。博多の商人衆も招かれていたとの噂があるが、その顔ぶれまでは確かめ得ていない。上様は近日中に御自ら中国表へ御出馬なさる御意向であったという。 同じ夜、明智光秀殿の軍勢が丹波亀山を発ったことは、後になって知れた。上様はその夜も本能寺にて御就寝なされ、翌二日未明、あの凶変を迎えられることとなる。
京の夏 早馬走る 本能寺 天下布武も ひと夜の夢か
─ 洛中のとんち者 ─
京の夏 早馬走る 本能寺 天下布武も ひと夜の夢か
─ 洛中のとんち者 ─
押し入れの奥から、えらい古い号が出てきた。天正十年六月、本能寺の変その日の号外である。よう今まで残っとったもんやと、開いた瞬間しばし手が止まった。 信長公の天下布武がたった一夜で崩れた、そのただならぬ空気が、右筆・太田牛一殿の筆致からひしひし伝わってくる。かわら版の方も、高松城の水攻めから伊賀越えまで、わずか一月余りの出来事とは思えん激動ぶりや。 普段は最新のニュースを追いかける当編集部やが、たまにはこうして大昔の号を引っ張り出して読み返すのも悪ないもんやなあ。歴史はいつだって、誰かにとっての「今」やったんやと、しみじみ思う号やった。
押し入れの奥から、えらい古い号が出てきた。天正十年六月、本能寺の変その日の号外である。よう今まで残っとったもんやと、開いた瞬間しばし手が止まった。 信長公の天下布武がたった一夜で崩れた、そのただならぬ空気が、右筆・太田牛一殿の筆致からひしひし伝わってくる。かわら版の方も、高松城の水攻めから伊賀越えまで、わずか一月余りの出来事とは思えん激動ぶりや。 普段は最新のニュースを追いかける当編集部やが、たまにはこうして大昔の号を引っ張り出して読み返すのも悪ないもんやなあ。歴史はいつだって、誰かにとっての「今」やったんやと、しみじみ思う号やった。

