663年10月号
白村江の海戦、水軍壊滅す——唐船に挟撃され、百済復興の望み潰ゆ
称制二年八月二十七日・二十八日、白村江河口にて我が船師と唐の水軍が激突した。二十七日の不利に焦り、翌二十八日に突撃を試みるも左右より挟撃され、多くの船師が炎上して海水は朱に染まった。後将軍として出陣した私、阿倍比羅夫が、かの凄惨なる敗績の顛末を書き留める。
越国の守として北方の海を巡り、幾度となく異族と刃を交えてきた私にとっても、此度の白村江(白江口)の海戦ほど恐るべき戦はなかった。百済の王子・豊璋を助け、唐・新羅の連合軍によって滅ぼされた友邦を復興せんと、朝廷は再三にわたり大軍を百済の地へと送り込んだ。筑紫を出航した我が軍は、兵二万を超える大軍勢であった。我らは周留城を救援すべく、白村江の河口へと進路を取ったのである。 八月二十七日、白村江にて我が船師は唐の水軍百七十艘と遭遇した。先鋒が合戦に及んだものの利あらず、我が軍はいったん退くを余儀なくされた。この敗色に焦った諸将は『我ら先を争わば、敵自ずから退かん』と申し合わせ、翌二十八日、中軍を率いて唐の陣へと突撃を試みたのである。 しかし唐軍の戦船は堅牢にして統制が取れ、整然と左右より展開して我が船団を包囲した。前後をめぐらす術を失った我が船師は乱戦となり、唐軍の猛攻に遭って船から船へと火が燃え広がった。黒煙は天を覆い、海水は朱に染まり、多くの兵が波間に沈んだ。勇士として知られた朴市秦田来津は天を仰いで誓い、敵兵数十人を斬り倒して討ち死にした。頼みとする百済王豊璋は数人の従者とともに船で高麗(高句麗)へと逃亡し、全軍の指揮は完全に崩壊した。 辛うじて包囲を脱した我らは、残存の船をまとめて退却の途に就いた。百済復興の望みはここに潰え、我が国の西の守りは根底から覆された。強大な唐・新羅の軍勢が、いつ筑紫の海を越えて押し寄せてくるか知れぬ。今こそ朝廷を挙げ、全土の守りを固め直さねばならぬ。
白村江の海戦、水軍壊滅す——唐船に挟撃され、百済復興の望み潰ゆ
称制二年八月二十七日・二十八日、白村江河口にて我が船師と唐の水軍が激突した。二十七日の不利に焦り、翌二十八日に突撃を試みるも左右より挟撃され、多くの船師が炎上して海水は朱に染まった。後将軍として出陣した私、阿倍比羅夫が、かの凄惨なる敗績の顛末を書き留める。
越国の守として北方の海を巡り、幾度となく異族と刃を交えてきた私にとっても、此度の白村江(白江口)の海戦ほど恐るべき戦はなかった。百済の王子・豊璋を助け、唐・新羅の連合軍によって滅ぼされた友邦を復興せんと、朝廷は再三にわたり大軍を百済の地へと送り込んだ。筑紫を出航した我が軍は、兵二万を超える大軍勢であった。我らは周留城を救援すべく、白村江の河口へと進路を取ったのである。 八月二十七日、白村江にて我が船師は唐の水軍百七十艘と遭遇した。先鋒が合戦に及んだものの利あらず、我が軍はいったん退くを余儀なくされた。この敗色に焦った諸将は『我ら先を争わば、敵自ずから退かん』と申し合わせ、翌二十八日、中軍を率いて唐の陣へと突撃を試みたのである。 しかし唐軍の戦船は堅牢にして統制が取れ、整然と左右より展開して我が船団を包囲した。前後をめぐらす術を失った我が船師は乱戦となり、唐軍の猛攻に遭って船から船へと火が燃え広がった。黒煙は天を覆い、海水は朱に染まり、多くの兵が波間に沈んだ。勇士として知られた朴市秦田来津は天を仰いで誓い、敵兵数十人を斬り倒して討ち死にした。頼みとする百済王豊璋は数人の従者とともに船で高麗(高句麗)へと逃亡し、全軍の指揮は完全に崩壊した。 辛うじて包囲を脱した我らは、残存の船をまとめて退却の途に就いた。百済復興の望みはここに潰え、我が国の西の守りは根底から覆された。強大な唐・新羅の軍勢が、いつ筑紫の海を越えて押し寄せてくるか知れぬ。今こそ朝廷を挙げ、全土の守りを固め直さねばならぬ。
遠つ国 白村の江に 煙立ち 筑紫の海に 波風ぞ立つ
─ 筑紫津の宮人 ─
遠つ国 白村の江に 煙立ち 筑紫の海に 波風ぞ立つ
─ 筑紫津の宮人 ─
乙巳の変の号(0645-07)に続いて、今度は白村江の敗戦の記録が見つかりましたわ。阿倍比羅夫はんの筆による生々しい海戦の有様、火に呑まれ海を朱に染めたという修羅場そのものですなあ。当時の船の構造や唐船の船図の写しでも残ってへんもんか、手元に置いてじっくり検分してみたいもんです。 大敗の報に震え上がった中大兄皇子(のちの天智天皇)は、ここから憑りつかれたように西日本中に水城や山城を築きまくり、ついには都まで琵琶湖の奥・近江大津宮へと移してしまうことになります。筑紫の古跡を巡ったという知り合いの学者から聞いた話では、水城の土塁は今も見上げるほどの高さやそうで、当時の本気と怯えが土の塊になって残っとるんやなあとしみじみ感じますわ。四コマ漫画ではその慌てぶりを少しからかい気味に描いておりますが、当時の朝廷にとっては国が滅びるかどうかの瀬戸際やったわけです。 しかし皮肉なことに、この東アジアの巨頭・唐との激突と敗北という未曾有の危機があったからこそ、日本はそれまでの豪族連合から脱皮し、強固な律令体制と『日本』という確固たる国号を持つ統一国家へと生まれ変わっていったとも言えます。歴史の大きな転換点となったこの戦い、じっくりと味わっていただければ幸いです。
乙巳の変の号(0645-07)に続いて、今度は白村江の敗戦の記録が見つかりましたわ。阿倍比羅夫はんの筆による生々しい海戦の有様、火に呑まれ海を朱に染めたという修羅場そのものですなあ。当時の船の構造や唐船の船図の写しでも残ってへんもんか、手元に置いてじっくり検分してみたいもんです。 大敗の報に震え上がった中大兄皇子(のちの天智天皇)は、ここから憑りつかれたように西日本中に水城や山城を築きまくり、ついには都まで琵琶湖の奥・近江大津宮へと移してしまうことになります。筑紫の古跡を巡ったという知り合いの学者から聞いた話では、水城の土塁は今も見上げるほどの高さやそうで、当時の本気と怯えが土の塊になって残っとるんやなあとしみじみ感じますわ。四コマ漫画ではその慌てぶりを少しからかい気味に描いておりますが、当時の朝廷にとっては国が滅びるかどうかの瀬戸際やったわけです。 しかし皮肉なことに、この東アジアの巨頭・唐との激突と敗北という未曾有の危機があったからこそ、日本はそれまでの豪族連合から脱皮し、強固な律令体制と『日本』という確固たる国号を持つ統一国家へと生まれ変わっていったとも言えます。歴史の大きな転換点となったこの戦い、じっくりと味わっていただければ幸いです。

