『鎌倉殿の13人』壇ノ浦から衣川へ。義経の「伝説」はどこまで史料で確かめられるか
5月の『鎌倉殿の13人』は、壇ノ浦での平家滅亡から義経の最期までを一気に描いた。潮の流れ、水夫への矢、腰越状。名場面のもとになった話を、史料からたどり直してみる。
「潮の流れが変わったから源氏が勝った」。学校でそう習った覚えのある人は多いだろう。5月8日放送の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第18回「壇ノ浦で舞った男」で、菅田将暉さん演じる源義経がついに平家を滅ぼした。デイリースポーツの記事によれば、二位尼が宝剣を抱いて海に身を投げ、女官が安徳天皇を抱えて静かに波間へ消える場面は、源氏の側から淡々と描かれたぶん、かえって恐ろしかったという。 では、勝敗を分けたのは本当に潮だったのか。渡邊大門氏はYahoo!ニュースの連載「深読み『鎌倉殿の13人』」で、この点を掘り下げている。潮流説は、後世の研究者が当日の潮の流れを推算して唱えたものだ。『平家物語』は合戦の初めに潮が源氏に不利だったことを記すが、潮が変わって形勢が逆転したとまでは書いていない。近年はこの説を疑う見方もある。筋の通った説明ほど、一度は疑ってかかりたい。 義経が平家方の水夫を射させた、という「掟破り」の逸話も同じである。Japaaanの記事は、これを濡れ衣ではないかと論じている。天才ゆえの非情、という人物像に都合のよい話ほど、出どころを確かめないまま広まりやすい。 壇ノ浦のあと、義経は兄の頼朝と決裂する。nippon.comが取り上げる「腰越状」は、鎌倉に入ることを許されなかった義経が、兄に無実を訴えた書状として名高い。ただしその文面は『吾妻鏡』などに引かれて伝わるもので、原本は残っていない。後世に作られたのではないか、という議論があることも覚えておきたい。 そして5月22日の第20回「帰ってきた義経」で、義経は奥州・衣川に散った。ドラマでは、届いた首桶を前に頼朝が弟に語りかける場面が描かれ、渡邊氏も首を見た頼朝の胸の内に踏み込んでいる。だが『吾妻鏡』によれば、首実検をしたのは腰越に遣わされた和田義盛と梶原景時だ。しかもその『吾妻鏡』自体、鎌倉幕府の側が後にまとめた記録である。そこに描かれる頼朝も義経も、勝った側の筆を通っていることを忘れてはならない。 負けた者に肩入れする心の動きを、判官びいきという。その心がどれだけの伝説を生んだのか。一つずつ数えながら観るのも、この大河の楽しみ方だろう。
『鎌倉殿の13人』壇ノ浦から衣川へ。義経の「伝説」はどこまで史料で確かめられるか
5月の『鎌倉殿の13人』は、壇ノ浦での平家滅亡から義経の最期までを一気に描いた。潮の流れ、水夫への矢、腰越状。名場面のもとになった話を、史料からたどり直してみる。
「潮の流れが変わったから源氏が勝った」。学校でそう習った覚えのある人は多いだろう。5月8日放送の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第18回「壇ノ浦で舞った男」で、菅田将暉さん演じる源義経がついに平家を滅ぼした。デイリースポーツの記事によれば、二位尼が宝剣を抱いて海に身を投げ、女官が安徳天皇を抱えて静かに波間へ消える場面は、源氏の側から淡々と描かれたぶん、かえって恐ろしかったという。 では、勝敗を分けたのは本当に潮だったのか。渡邊大門氏はYahoo!ニュースの連載「深読み『鎌倉殿の13人』」で、この点を掘り下げている。潮流説は、後世の研究者が当日の潮の流れを推算して唱えたものだ。『平家物語』は合戦の初めに潮が源氏に不利だったことを記すが、潮が変わって形勢が逆転したとまでは書いていない。近年はこの説を疑う見方もある。筋の通った説明ほど、一度は疑ってかかりたい。 義経が平家方の水夫を射させた、という「掟破り」の逸話も同じである。Japaaanの記事は、これを濡れ衣ではないかと論じている。天才ゆえの非情、という人物像に都合のよい話ほど、出どころを確かめないまま広まりやすい。 壇ノ浦のあと、義経は兄の頼朝と決裂する。nippon.comが取り上げる「腰越状」は、鎌倉に入ることを許されなかった義経が、兄に無実を訴えた書状として名高い。ただしその文面は『吾妻鏡』などに引かれて伝わるもので、原本は残っていない。後世に作られたのではないか、という議論があることも覚えておきたい。 そして5月22日の第20回「帰ってきた義経」で、義経は奥州・衣川に散った。ドラマでは、届いた首桶を前に頼朝が弟に語りかける場面が描かれ、渡邊氏も首を見た頼朝の胸の内に踏み込んでいる。だが『吾妻鏡』によれば、首実検をしたのは腰越に遣わされた和田義盛と梶原景時だ。しかもその『吾妻鏡』自体、鎌倉幕府の側が後にまとめた記録である。そこに描かれる頼朝も義経も、勝った側の筆を通っていることを忘れてはならない。 負けた者に肩入れする心の動きを、判官びいきという。その心がどれだけの伝説を生んだのか。一つずつ数えながら観るのも、この大河の楽しみ方だろう。
芭蕉『野ざらし紀行』の挿絵入り自筆稿が再発見。京都・福田美術館が発表
松尾芭蕉の最初の紀行文『野ざらし紀行』の、挿絵入りの自筆稿が見つかった。長く行方の分からなかった一冊を手に入れたと、京都の福田美術館が発表した。
野ざらしを心に風のしむ身かな。旅の途中で行き倒れ、骨を野にさらす覚悟で出かける、という物騒な句で始まる紀行文がある。松尾芭蕉の『野ざらし紀行』だ。その挿絵入りの自筆稿が見つかったと、京都市の福田美術館が5月24日に発表した。 NHKや中日新聞の記事によれば、『野ざらし紀行』の芭蕉自筆の稿本は2冊あるとされてきた。1冊は天理大学附属天理図書館が所蔵する、挿絵のない「天理本」。もう1冊が今回の挿絵入りの本で、写真が残っていたため存在は知られていたものの、長く所在が分からなかった。読売新聞によれば、昭和17年(1942年)に大阪で展示されたのを最後に行方知れずになっていたという。専門家の鑑定で本物と確かめられ、福田美術館が買い入れた。 面白いのは、挿絵まで芭蕉自身の筆だという点だ。芭蕉のほかの紀行文には見られない挿絵で、読売新聞は「俳聖の絵心を知る上でも貴重」と伝えている。句と文と絵を一つの帖に収めて、俳諧の師匠が自分の旅をどう見せたかったのか。そこが透けて見えるようで、ほんまに興味が尽きない。 『野ざらし紀行』は、貞享元年(1684年)に江戸を発ち、故郷の伊賀をはじめ大和、美濃、尾張などを巡った旅の記録である。芭蕉の俳風が固まるきっかけになった作品とされ、のちの『おくのほそ道』へ続く道の、いわば第一歩にあたる。 中日新聞によれば、同館などが10月から開く企画展で公開される予定だという。書画を集めるのを道楽にしてきた身としては、手に取って紙の風合いまで確かめたいところだが、それはかなわぬ夢。せめてガラス越しに、筆の運びをじっくり拝ませてもらうつもりでいる。ちなみに当編集部の芭蕉翁にこの話をしたところ、「絵のほうはあまり見んといてほしい」と、珍しく照れていた。
芭蕉『野ざらし紀行』の挿絵入り自筆稿が再発見。京都・福田美術館が発表
松尾芭蕉の最初の紀行文『野ざらし紀行』の、挿絵入りの自筆稿が見つかった。長く行方の分からなかった一冊を手に入れたと、京都の福田美術館が発表した。
野ざらしを心に風のしむ身かな。旅の途中で行き倒れ、骨を野にさらす覚悟で出かける、という物騒な句で始まる紀行文がある。松尾芭蕉の『野ざらし紀行』だ。その挿絵入りの自筆稿が見つかったと、京都市の福田美術館が5月24日に発表した。 NHKや中日新聞の記事によれば、『野ざらし紀行』の芭蕉自筆の稿本は2冊あるとされてきた。1冊は天理大学附属天理図書館が所蔵する、挿絵のない「天理本」。もう1冊が今回の挿絵入りの本で、写真が残っていたため存在は知られていたものの、長く所在が分からなかった。読売新聞によれば、昭和17年(1942年)に大阪で展示されたのを最後に行方知れずになっていたという。専門家の鑑定で本物と確かめられ、福田美術館が買い入れた。 面白いのは、挿絵まで芭蕉自身の筆だという点だ。芭蕉のほかの紀行文には見られない挿絵で、読売新聞は「俳聖の絵心を知る上でも貴重」と伝えている。句と文と絵を一つの帖に収めて、俳諧の師匠が自分の旅をどう見せたかったのか。そこが透けて見えるようで、ほんまに興味が尽きない。 『野ざらし紀行』は、貞享元年(1684年)に江戸を発ち、故郷の伊賀をはじめ大和、美濃、尾張などを巡った旅の記録である。芭蕉の俳風が固まるきっかけになった作品とされ、のちの『おくのほそ道』へ続く道の、いわば第一歩にあたる。 中日新聞によれば、同館などが10月から開く企画展で公開される予定だという。書画を集めるのを道楽にしてきた身としては、手に取って紙の風合いまで確かめたいところだが、それはかなわぬ夢。せめてガラス越しに、筆の運びをじっくり拝ませてもらうつもりでいる。ちなみに当編集部の芭蕉翁にこの話をしたところ、「絵のほうはあまり見んといてほしい」と、珍しく照れていた。
高松塚古墳の壁画発見から50年。「飛鳥美人」の一般公開と、キトラ古墳の天文図の新説
極彩色の壁画が見つかって50年になる高松塚古墳で、壁画の一般公開が始まった。すぐ南のキトラ古墳でも、天文図の「間違い」をめぐる新しい説が出ている。
5月の明日香の丘は、草いきれが立ちのぼり、棚田の水面に若葉の色が映る。その緑の下で千三百年眠っていた色が、ふたたび人の目に触れている。 朝日新聞の記事によれば、今年3月で発見から50年を迎えた高松塚古墳(奈良県明日香村)の極彩色壁画(国宝)の一般公開が、5月21日に村内の仮設修理施設で始まった。NHKの記事によれば、事前に申し込んだ見学者が5人ほどのグループに分かれて施設に入り、窓ガラス越しに「飛鳥美人」の名で親しまれる女子群像や、東の守り神「青龍」に見入ったという。読売新聞によると、オペラグラスを手に西壁の女子群像を眺める人もいたそうだ。 壁画が見つかったのは昭和47年(1972年)。日本経済新聞の記事は、当時の研究者たちが石室に開いた盗掘穴から狭い室内をのぞき込み、保存の方法を探っていた様子を振り返っている。古代史ブームに沸いた発見の裏で、壁画はその後カビに侵され、ついには石室を解体して修理する道が選ばれた。産経新聞の記事は、壁画の今後について「密閉するしかない」という声を伝えている。見せることと守ることは、いつも綱引きである。 一方、キトラ古墳からも話題が届いた。壁画の天文図(7〜8世紀、国宝)では、太陽の通り道を示す「黄道」などの位置がずれている。沖縄タイムスなどが報じた京都大学の斉藤昭則准教授の研究によれば、これは天文図の私有を禁じた当時の法を意識し、わざと正確に描かなかった可能性が高いという。間違いが実は配慮だったとすれば、千年越しの謎解きとしてなかなか洒落ている。 「月日は百代の過客」と書いた身としては、石室の天井に描かれた星々もまた、長い旅の途中にいるように思えてならない。
高松塚古墳の壁画発見から50年。「飛鳥美人」の一般公開と、キトラ古墳の天文図の新説
極彩色の壁画が見つかって50年になる高松塚古墳で、壁画の一般公開が始まった。すぐ南のキトラ古墳でも、天文図の「間違い」をめぐる新しい説が出ている。
5月の明日香の丘は、草いきれが立ちのぼり、棚田の水面に若葉の色が映る。その緑の下で千三百年眠っていた色が、ふたたび人の目に触れている。 朝日新聞の記事によれば、今年3月で発見から50年を迎えた高松塚古墳(奈良県明日香村)の極彩色壁画(国宝)の一般公開が、5月21日に村内の仮設修理施設で始まった。NHKの記事によれば、事前に申し込んだ見学者が5人ほどのグループに分かれて施設に入り、窓ガラス越しに「飛鳥美人」の名で親しまれる女子群像や、東の守り神「青龍」に見入ったという。読売新聞によると、オペラグラスを手に西壁の女子群像を眺める人もいたそうだ。 壁画が見つかったのは昭和47年(1972年)。日本経済新聞の記事は、当時の研究者たちが石室に開いた盗掘穴から狭い室内をのぞき込み、保存の方法を探っていた様子を振り返っている。古代史ブームに沸いた発見の裏で、壁画はその後カビに侵され、ついには石室を解体して修理する道が選ばれた。産経新聞の記事は、壁画の今後について「密閉するしかない」という声を伝えている。見せることと守ることは、いつも綱引きである。 一方、キトラ古墳からも話題が届いた。壁画の天文図(7〜8世紀、国宝)では、太陽の通り道を示す「黄道」などの位置がずれている。沖縄タイムスなどが報じた京都大学の斉藤昭則准教授の研究によれば、これは天文図の私有を禁じた当時の法を意識し、わざと正確に描かなかった可能性が高いという。間違いが実は配慮だったとすれば、千年越しの謎解きとしてなかなか洒落ている。 「月日は百代の過客」と書いた身としては、石室の天井に描かれた星々もまた、長い旅の途中にいるように思えてならない。
新シリーズ「建物探訪」第1回 ― 大谷石と幾何学模様の異人館、ヨドコウ迎賓館(旧山邑家住宅)を訪ねて
道すがら石碑や社ばかりを訪ねてきたが、今号からは建物そのものを巡る新シリーズを始めたい。第一回は芦屋の丘、大谷石と幾何学模様が織りなすフランク・ロイド・ライトの異人館。








道すがら石碑や社ばかりを訪ねてきたが、今号より建物そのものを巡る新シリーズ「建物探訪」を始めたい。杖を止めた先の第一回は、令和4年(2022年)5月、新緑の頃に訪ねた芦屋の丘に立つヨドコウ迎賓館、旧名を山邑家住宅という。 灘五郷の造り酒屋・山邑太左衛門の別邸として大正7年(1918年)、帝国ホテル建設で来日していたフランク・ロイド・ライトが原設計を手がけ、帰国後は弟子の遠藤新と南信が実施設計・監理を引き継いで大正13年(1924年)に竣工したという。鉄筋コンクリート4階建の邸は斜面に沿って階段状に組み上げられ、大谷石の幾何学彫刻とマホガニーの木組み、植物をかたどった銅板の意匠が随所に息づく。居間の巨大な暖炉の前に立てば、石の量塊と光の陰影だけでこれほど心が静まるものかと驚かされる。 昭和22年(1947年)に淀川製鋼所が買い取って社長邸とし、平成元年(1989年)より「ヨドコウ迎賓館」として一般に開かれた。大正の建物として、また鉄筋コンクリート造の住宅としても初めて国の重要文化財に指定されたのは昭和49年(1974年)のこと。屋上のテラスに出れば、六甲の緑と大阪湾までが一望に開ける。異国の匠が遺した意匠が、百年余りを経てなお街を見下ろしている。
新シリーズ「建物探訪」第1回 ― 大谷石と幾何学模様の異人館、ヨドコウ迎賓館(旧山邑家住宅)を訪ねて
道すがら石碑や社ばかりを訪ねてきたが、今号からは建物そのものを巡る新シリーズを始めたい。第一回は芦屋の丘、大谷石と幾何学模様が織りなすフランク・ロイド・ライトの異人館。








道すがら石碑や社ばかりを訪ねてきたが、今号より建物そのものを巡る新シリーズ「建物探訪」を始めたい。杖を止めた先の第一回は、令和4年(2022年)5月、新緑の頃に訪ねた芦屋の丘に立つヨドコウ迎賓館、旧名を山邑家住宅という。 灘五郷の造り酒屋・山邑太左衛門の別邸として大正7年(1918年)、帝国ホテル建設で来日していたフランク・ロイド・ライトが原設計を手がけ、帰国後は弟子の遠藤新と南信が実施設計・監理を引き継いで大正13年(1924年)に竣工したという。鉄筋コンクリート4階建の邸は斜面に沿って階段状に組み上げられ、大谷石の幾何学彫刻とマホガニーの木組み、植物をかたどった銅板の意匠が随所に息づく。居間の巨大な暖炉の前に立てば、石の量塊と光の陰影だけでこれほど心が静まるものかと驚かされる。 昭和22年(1947年)に淀川製鋼所が買い取って社長邸とし、平成元年(1989年)より「ヨドコウ迎賓館」として一般に開かれた。大正の建物として、また鉄筋コンクリート造の住宅としても初めて国の重要文化財に指定されたのは昭和49年(1974年)のこと。屋上のテラスに出れば、六甲の緑と大阪湾までが一望に開ける。異国の匠が遺した意匠が、百年余りを経てなお街を見下ろしている。
局長の 鎧はるばる 越中へ 着たのは一度 あとは蔵住まい
─ 壬生の古道具屋 ─
局長の 鎧はるばる 越中へ 着たのは一度 あとは蔵住まい
─ 壬生の古道具屋 ─
2022年5月号をお届けします。芭蕉翁の新シリーズ「建物探訪」が、芦屋のヨドコウ迎賓館から始まった号でもあります。 大河『鎌倉殿の13人』は、壇ノ浦から衣川まで、ひと月で義経の後半生を駆け抜けました。秋成はんは潮の流れも腰越状も、いちいち史料に当たり直さんと気が済まん様子。わたしは芭蕉翁の『野ざらし紀行』の自筆稿が京都で見つかった話を書きましたが、当の本人の顔をちらちら見ながらでは、どうにも落ち着きませんでした。その翁は、発見50年の高松塚とキトラの星空を、旅人らしい目で書いてくれています。 かわら版には、富山で見つかった近藤勇の甲冑、3年ぶりの薪御能、没後1400年の聖徳太子などを並べました。あちこちで祭りや公開が戻ってきた月やったなあと、新茶をすすりながら振り返っております。
2022年5月号をお届けします。芭蕉翁の新シリーズ「建物探訪」が、芦屋のヨドコウ迎賓館から始まった号でもあります。 大河『鎌倉殿の13人』は、壇ノ浦から衣川まで、ひと月で義経の後半生を駆け抜けました。秋成はんは潮の流れも腰越状も、いちいち史料に当たり直さんと気が済まん様子。わたしは芭蕉翁の『野ざらし紀行』の自筆稿が京都で見つかった話を書きましたが、当の本人の顔をちらちら見ながらでは、どうにも落ち着きませんでした。その翁は、発見50年の高松塚とキトラの星空を、旅人らしい目で書いてくれています。 かわら版には、富山で見つかった近藤勇の甲冑、3年ぶりの薪御能、没後1400年の聖徳太子などを並べました。あちこちで祭りや公開が戻ってきた月やったなあと、新茶をすすりながら振り返っております。