英雄の顔に落書きしてよいか——チンギス・ハン漫画にモンゴル政府が抗議
子ども向け月刊漫画誌に、チンギス・ハンの肖像に落書きをする場面が載り、モンゴル政府が抗議、版元の小学館が謝罪した。白鵬や朝青龍も怒りをあらわにした一件から、歴史上の人物と国の誇りの関係を考える。
他人の祖先の顔に落書きをしてはいけない。子どもでも分かりそうな話が、この2月、国と国のあいだの問題になった。 小学館の子ども向け月刊漫画誌に、チンギス・ハンの肖像画に落書きをする場面が載った。これに対してモンゴル政府が抗議し、小学館は謝罪した。元横綱の朝青龍も怒りを表し、横綱白鵬は「子供が見るものでしょう」と苦言を呈したという。26日には、東京の小学館本社ビルの前で、在日モンゴル人による抗議のデモまで行われた。 モンゴルの人々にとって、チンギス・ハンは十三世紀に遊牧の諸部族をまとめ上げ、国を興した建国の英雄である。紙幣にも肖像が刷られ、首都の空港にもその名が冠されている。いわば国の顔だ。その顔に落書きをされれば、怒るのは当然だろう。 ところで、ここで一つ意地の悪い問いを立てておきたい。日本人はこれまで、チンギス・ハンをそれほど丁重に扱ってきただろうか。かつては源義経が大陸に渡ってチンギス・ハンになった、などという説が大まじめに唱えられ、本まで出て評判を取ったことがある。史料の裏付けなど何もない、ただの願望の産物だ。英雄を自分の都合のよい物語に取り込むという点では、あれも一種の落書きだったのではないか。 漫画の作者に悪意があったとは思わない。おそらく、遠い国の昔の偉い人、くらいの感覚だったのだろう。だが、歴史上の人物には、今もその人を誇りとして生きる人々がいる。徳川家康の肖像に同じことをされれば、岡崎の人は黙っていまい。 歴史の人物を笑いの種にしてはいけない、とまでは言わない。笑いは歴史を身近にする力も持っている。ただ、笑う前に、その人物が誰にとってどれほど大切かを一度調べておく。それくらいの手間は、描く側が引き受けるべきものだろう。
英雄の顔に落書きしてよいか——チンギス・ハン漫画にモンゴル政府が抗議
子ども向け月刊漫画誌に、チンギス・ハンの肖像に落書きをする場面が載り、モンゴル政府が抗議、版元の小学館が謝罪した。白鵬や朝青龍も怒りをあらわにした一件から、歴史上の人物と国の誇りの関係を考える。
他人の祖先の顔に落書きをしてはいけない。子どもでも分かりそうな話が、この2月、国と国のあいだの問題になった。 小学館の子ども向け月刊漫画誌に、チンギス・ハンの肖像画に落書きをする場面が載った。これに対してモンゴル政府が抗議し、小学館は謝罪した。元横綱の朝青龍も怒りを表し、横綱白鵬は「子供が見るものでしょう」と苦言を呈したという。26日には、東京の小学館本社ビルの前で、在日モンゴル人による抗議のデモまで行われた。 モンゴルの人々にとって、チンギス・ハンは十三世紀に遊牧の諸部族をまとめ上げ、国を興した建国の英雄である。紙幣にも肖像が刷られ、首都の空港にもその名が冠されている。いわば国の顔だ。その顔に落書きをされれば、怒るのは当然だろう。 ところで、ここで一つ意地の悪い問いを立てておきたい。日本人はこれまで、チンギス・ハンをそれほど丁重に扱ってきただろうか。かつては源義経が大陸に渡ってチンギス・ハンになった、などという説が大まじめに唱えられ、本まで出て評判を取ったことがある。史料の裏付けなど何もない、ただの願望の産物だ。英雄を自分の都合のよい物語に取り込むという点では、あれも一種の落書きだったのではないか。 漫画の作者に悪意があったとは思わない。おそらく、遠い国の昔の偉い人、くらいの感覚だったのだろう。だが、歴史上の人物には、今もその人を誇りとして生きる人々がいる。徳川家康の肖像に同じことをされれば、岡崎の人は黙っていまい。 歴史の人物を笑いの種にしてはいけない、とまでは言わない。笑いは歴史を身近にする力も持っている。ただ、笑う前に、その人物が誰にとってどれほど大切かを一度調べておく。それくらいの手間は、描く側が引き受けるべきものだろう。
年貢を軽くするから移って来い——島原の乱の後、無人の半島に人を呼んだ「移住特区」
島原の乱で領民の多くを失った島原半島には、年貢を軽くして各地から人を呼び込む異例の移住策がとられた。その人模様を伝える特別展が南島原市で開かれている。乱の犠牲者の供養祭、籠城を支えたと伝わる郷土料理の話題とあわせて紹介する。
戦が終わったあとの土地は、誰が耕すのか。軍記物はたいてい城が落ちたところで幕を引くが、わしが気になるのは、いつもその先の算盤勘定のほうや。 島原の乱(1637〜38)は、国史跡「原城跡」で終わった。島原と天草の領民あわせて3万7千人が犠牲になり、島原半島の南部はほとんど人のいない土地になったという。そこで取られたのが、年貢を軽くして各地から人を呼び込む大がかりな移住策だった。 この移住策を題材にした初めての特別展が、南島原市口之津町の口之津図書館で3月4日まで開かれている。初公開の3点を含む史料26点が並ぶそうだ。西日本新聞によれば、当時の半島は年貢が軽くなる、いわば「移住特区」で、その優遇策を目当てに無断で移り住む者まで増え、混乱も起きたらしい。 これは実に分かりやすい話である。人は得のあるほうへ動く。幕府が法度で縛ろうが、年貢が軽いと聞けば、国元を抜け出してでも来る者は来る。国策で人を集めたはずが、集まりすぎて困る。今も昔も、補助金の話には似たような騒ぎがつきものや。 一方、天草の側では、上天草市大矢野町の「藍のあまくさ村」で、乱の犠牲者を弔う供養祭が今年も営まれた。高さ15メートルの天草四郎像の前に、住民などおよそ100人が参列したという。像の前に観光客が置いていったお賽銭は、地元の社会福祉協議会などに寄付されたそうで、ここにも銭の行き先をきちんと考える人がいる。 原城のある旧南有馬町には、籠城した一揆勢が餅にさまざまな具を入れて炊き、栄養を取って3か月も持ちこたえた、と伝わる郷土料理「具雑煮」がある。原城温泉の宿「真砂」では、これを土鍋で出しているという。 戦の記録は勝ち負けで終わるが、人の暮らしは、そこからまた始まる。三百八十年前の人々が、どんな勘定をして海を渡ってきたのか。史料の一枚一枚から、その声を拾ってみたい。
年貢を軽くするから移って来い——島原の乱の後、無人の半島に人を呼んだ「移住特区」
島原の乱で領民の多くを失った島原半島には、年貢を軽くして各地から人を呼び込む異例の移住策がとられた。その人模様を伝える特別展が南島原市で開かれている。乱の犠牲者の供養祭、籠城を支えたと伝わる郷土料理の話題とあわせて紹介する。
戦が終わったあとの土地は、誰が耕すのか。軍記物はたいてい城が落ちたところで幕を引くが、わしが気になるのは、いつもその先の算盤勘定のほうや。 島原の乱(1637〜38)は、国史跡「原城跡」で終わった。島原と天草の領民あわせて3万7千人が犠牲になり、島原半島の南部はほとんど人のいない土地になったという。そこで取られたのが、年貢を軽くして各地から人を呼び込む大がかりな移住策だった。 この移住策を題材にした初めての特別展が、南島原市口之津町の口之津図書館で3月4日まで開かれている。初公開の3点を含む史料26点が並ぶそうだ。西日本新聞によれば、当時の半島は年貢が軽くなる、いわば「移住特区」で、その優遇策を目当てに無断で移り住む者まで増え、混乱も起きたらしい。 これは実に分かりやすい話である。人は得のあるほうへ動く。幕府が法度で縛ろうが、年貢が軽いと聞けば、国元を抜け出してでも来る者は来る。国策で人を集めたはずが、集まりすぎて困る。今も昔も、補助金の話には似たような騒ぎがつきものや。 一方、天草の側では、上天草市大矢野町の「藍のあまくさ村」で、乱の犠牲者を弔う供養祭が今年も営まれた。高さ15メートルの天草四郎像の前に、住民などおよそ100人が参列したという。像の前に観光客が置いていったお賽銭は、地元の社会福祉協議会などに寄付されたそうで、ここにも銭の行き先をきちんと考える人がいる。 原城のある旧南有馬町には、籠城した一揆勢が餅にさまざまな具を入れて炊き、栄養を取って3か月も持ちこたえた、と伝わる郷土料理「具雑煮」がある。原城温泉の宿「真砂」では、これを土鍋で出しているという。 戦の記録は勝ち負けで終わるが、人の暮らしは、そこからまた始まる。三百八十年前の人々が、どんな勘定をして海を渡ってきたのか。史料の一枚一枚から、その声を拾ってみたい。
大友宗麟の豊後に五千人の信者——キリシタン文化の百十年と『バテレンの世紀』
ザビエルと大友宗麟の出会いから「豊後崩れ」まで、豊後にキリシタン文化が栄えた約110年をふりかえる記事と、イエズス会と九州の大名たちの関係を描いた渡辺京二さんの『バテレンの世紀』の書評が、同じ2月に紙面に並んだ。
書物を集める身として、こういう偶然はうれしい。同じ月に、九州のキリシタンをめぐる話題が、別々の新聞に並んで載ったのである。 ひとつは大分合同新聞の「豊後国とキリシタン文化」。記事によれば、玉永さんは大分でキリシタン・南蛮文化が栄えた時代を、フランシスコ・ザビエルが大友宗麟(1530〜87)と出会った天文20年(1551)から、領内でキリシタンの存在が露見して江戸幕府の弾圧を受けた「豊後崩れ」の万治2年(1659)までの、約110年と見る考えを示したという。 宗麟が西洋の文化を積極的に取り入れた結果、長崎が開港して間もない元亀2年(1571)には、豊後に約5千人の信者がいたとの記録があるそうだ。14もの教会があったとされる平戸と並んで、キリシタンがもっとも多い土地だったらしい。府内(いまの大分市)には、のちにコレジオと呼ばれる宣教師の学校も置かれた。 もうひとつは、毎日新聞に載った渡辺京二さんの『バテレンの世紀』の書評である。評者の井波律子さんによれば、ザビエル以後、イエズス会の宣教師と、彼らと連動したポルトガルの貿易船が、キリシタンに好意的な宗麟の豊後や、平戸、長崎へと次々にやって来た。イエズス会はまず権力者と結びつき、そこから家臣や庶民へ布教を広げる戦略をとったが、当時の九州は大小の勢力が入り乱れ、貿易の利を狙って宣教師に近づく者も多かった。そのため宣教師の側も貿易船との結びつきを強め、信仰と商売の両立を図るようになったという。 信仰だけでも、交易だけでもない。その両方がからみ合っていたからこそ、豊後の南蛮文化はあれほど華やかに咲き、そして乱と禁教の時代に散っていったのだろう。ほんまに、一冊の本と一本の記事で、戦国の九州の地図がぐっと立体的に見えてくる。 書評を読んで、これは是非とも手元に置いておきたいと思った。島原の乱の話題が続いた今月、その前史を知るうえでも格好の一冊になりそうや。
大友宗麟の豊後に五千人の信者——キリシタン文化の百十年と『バテレンの世紀』
ザビエルと大友宗麟の出会いから「豊後崩れ」まで、豊後にキリシタン文化が栄えた約110年をふりかえる記事と、イエズス会と九州の大名たちの関係を描いた渡辺京二さんの『バテレンの世紀』の書評が、同じ2月に紙面に並んだ。
書物を集める身として、こういう偶然はうれしい。同じ月に、九州のキリシタンをめぐる話題が、別々の新聞に並んで載ったのである。 ひとつは大分合同新聞の「豊後国とキリシタン文化」。記事によれば、玉永さんは大分でキリシタン・南蛮文化が栄えた時代を、フランシスコ・ザビエルが大友宗麟(1530〜87)と出会った天文20年(1551)から、領内でキリシタンの存在が露見して江戸幕府の弾圧を受けた「豊後崩れ」の万治2年(1659)までの、約110年と見る考えを示したという。 宗麟が西洋の文化を積極的に取り入れた結果、長崎が開港して間もない元亀2年(1571)には、豊後に約5千人の信者がいたとの記録があるそうだ。14もの教会があったとされる平戸と並んで、キリシタンがもっとも多い土地だったらしい。府内(いまの大分市)には、のちにコレジオと呼ばれる宣教師の学校も置かれた。 もうひとつは、毎日新聞に載った渡辺京二さんの『バテレンの世紀』の書評である。評者の井波律子さんによれば、ザビエル以後、イエズス会の宣教師と、彼らと連動したポルトガルの貿易船が、キリシタンに好意的な宗麟の豊後や、平戸、長崎へと次々にやって来た。イエズス会はまず権力者と結びつき、そこから家臣や庶民へ布教を広げる戦略をとったが、当時の九州は大小の勢力が入り乱れ、貿易の利を狙って宣教師に近づく者も多かった。そのため宣教師の側も貿易船との結びつきを強め、信仰と商売の両立を図るようになったという。 信仰だけでも、交易だけでもない。その両方がからみ合っていたからこそ、豊後の南蛮文化はあれほど華やかに咲き、そして乱と禁教の時代に散っていったのだろう。ほんまに、一冊の本と一本の記事で、戦国の九州の地図がぐっと立体的に見えてくる。 書評を読んで、これは是非とも手元に置いておきたいと思った。島原の乱の話題が続いた今月、その前史を知るうえでも格好の一冊になりそうや。
籠城の 腹を支えし 具雑煮を 温泉あがりに おかわり二杯
─ 湯あがりの一揆好き ─
籠城の 腹を支えし 具雑煮を 温泉あがりに おかわり二杯
─ 湯あがりの一揆好き ─
2018年2月号をお届けします。今月は、秋成はんにチンギス・ハンの漫画をめぐる騒ぎを、西鶴はんに島原の乱のあとの移住策を、うちは豊後のキリシタン文化と『バテレンの世紀』を受け持ちました。英雄の肖像、無人になった半島、南蛮の信仰。どれも、歴史が「終わったあと」に人がどう向き合うかという話になった気がします。かわら版には、九年ぶりに見つかったドガの作品、ベラスケスの来日、真冬の西大寺会陽まで並べました。寒さもいよいよ底のころ、具雑煮のような温かいものでも食べながら、ゆっくりお読みください。
2018年2月号をお届けします。今月は、秋成はんにチンギス・ハンの漫画をめぐる騒ぎを、西鶴はんに島原の乱のあとの移住策を、うちは豊後のキリシタン文化と『バテレンの世紀』を受け持ちました。英雄の肖像、無人になった半島、南蛮の信仰。どれも、歴史が「終わったあと」に人がどう向き合うかという話になった気がします。かわら版には、九年ぶりに見つかったドガの作品、ベラスケスの来日、真冬の西大寺会陽まで並べました。寒さもいよいよ底のころ、具雑煮のような温かいものでも食べながら、ゆっくりお読みください。