仁徳天皇陵(大山古墳)で初の共同発掘。堤に石敷きと埴輪列——それでも「誰の墓か」は決まらない
宮内庁と堺市が、仁徳天皇陵として管理される大山古墳を初めて共同で発掘し、堤から石敷きや円筒埴輪の列が見つかった。5世紀の姿が少しだけ見えた今、被葬者をめぐる議論も熱を帯びている。
墳丘の長さ約500メートル。日本最大の前方後円墳、大山古墳(堺市)に、ようやく学術のスコップが入った。宮内庁は仁徳天皇陵として管理するこの古墳を、地元の堺市と初めて共同で発掘し、11月22日に成果を発表した。 産経新聞や中日新聞(共同通信)によれば、墳丘を囲む堤から、1列に並んだ円筒埴輪や精巧な石敷きが見つかった。毎日新聞によれば、現場は同じ日に報道陣と考古学・歴史学の16団体の研究者に初めて公開された。5世紀の築造時の姿をとどめた堤である。イザ!によれば、1945年7月の堺大空襲で落とされたとみられる焼夷弾も出てきたという。千五百年の土の上に、七十余年前の戦争が重なっていた。 さて、見つかったのはあくまで堤の一部だ。朝日新聞の社説は、宮内庁が被葬者とする天皇と築造年代が合わない陵墓が多いことを指摘し、全容に迫る学術調査を求めている。産経新聞も、被葬者は仁徳天皇か、それとも履中天皇か、という論争が活発になっていると伝える。古墳の年代と『日本書紀』の天皇の順番が食い違って見えるのが、話をややこしくしている。 「仁徳天皇陵」という呼び名は、そもそもどこまで確かなのか。今回の発掘は、その問いに答えを出すものではない。とはいえ、陵墓の扉がわずかでも開いたことの意味は大きい。産経新聞によれば、江戸時代までは人がある程度出入りでき、豊臣秀吉が花見をしたという話も伝わるそうだ。かつて人が歩いた場所なら、学問が歩いてもよかろう。 埴輪の一本が語るのは、せいぜい「5世紀にここに堤があった」ということまでだ。そこから先は、同じ手続きを地道に重ねるしかない。次の発掘が、今回の成果の上にどれだけ積み上がるか。見守りたい。
仁徳天皇陵(大山古墳)で初の共同発掘。堤に石敷きと埴輪列——それでも「誰の墓か」は決まらない
宮内庁と堺市が、仁徳天皇陵として管理される大山古墳を初めて共同で発掘し、堤から石敷きや円筒埴輪の列が見つかった。5世紀の姿が少しだけ見えた今、被葬者をめぐる議論も熱を帯びている。
墳丘の長さ約500メートル。日本最大の前方後円墳、大山古墳(堺市)に、ようやく学術のスコップが入った。宮内庁は仁徳天皇陵として管理するこの古墳を、地元の堺市と初めて共同で発掘し、11月22日に成果を発表した。 産経新聞や中日新聞(共同通信)によれば、墳丘を囲む堤から、1列に並んだ円筒埴輪や精巧な石敷きが見つかった。毎日新聞によれば、現場は同じ日に報道陣と考古学・歴史学の16団体の研究者に初めて公開された。5世紀の築造時の姿をとどめた堤である。イザ!によれば、1945年7月の堺大空襲で落とされたとみられる焼夷弾も出てきたという。千五百年の土の上に、七十余年前の戦争が重なっていた。 さて、見つかったのはあくまで堤の一部だ。朝日新聞の社説は、宮内庁が被葬者とする天皇と築造年代が合わない陵墓が多いことを指摘し、全容に迫る学術調査を求めている。産経新聞も、被葬者は仁徳天皇か、それとも履中天皇か、という論争が活発になっていると伝える。古墳の年代と『日本書紀』の天皇の順番が食い違って見えるのが、話をややこしくしている。 「仁徳天皇陵」という呼び名は、そもそもどこまで確かなのか。今回の発掘は、その問いに答えを出すものではない。とはいえ、陵墓の扉がわずかでも開いたことの意味は大きい。産経新聞によれば、江戸時代までは人がある程度出入りでき、豊臣秀吉が花見をしたという話も伝わるそうだ。かつて人が歩いた場所なら、学問が歩いてもよかろう。 埴輪の一本が語るのは、せいぜい「5世紀にここに堤があった」ということまでだ。そこから先は、同じ手続きを地道に重ねるしかない。次の発掘が、今回の成果の上にどれだけ積み上がるか。見守りたい。
第70回正倉院展、宮廷の宝物56件。光明皇后の室内履きから、19世紀の英国人が驚嘆した工芸まで
奈良国立博物館で第70回正倉院展が開かれ、聖武天皇ゆかりの宝物56件が並んだ。会期にあわせて、宝物をめぐる講演や展示も奈良のあちこちで開かれている。
年に一度、奈良の秋に蔵の扉が開く。奈良国立博物館で第70回正倉院展が開かれた。東京新聞によれば、奈良時代の聖武天皇ゆかりの品など、正倉院の宝物56件が公開され、そのうち10件は初めての出品だという。 毎日新聞の連載が紹介する「繍線鞋」は、刺繍で飾った貴婦人の室内履きで、光明皇后が履いたとも伝わる品だ。光明皇后は756年、聖武天皇の遺品を東大寺の大仏に献納した。それが正倉院の宝物の核になっている。千二百年以上前の履物が、今も形をとどめているというだけで、ほんまに気が遠くなる。 宝物に目を見張ったのは、今の日本人だけではない。読売新聞によれば、19世紀後半の英国の工芸デザイナー、クリストファー・ドレッサーは、正倉院の宝物を紹介した著書『日本—その建築、美術、工芸』を書いた。記事はその日本語訳を、ドレッサーの作品を多く所蔵する福島県の郡山市立美術館とのかかわりとともに紹介している。 会期にあわせた催しも多い。読売新聞によれば、文化の日には、正倉院の宝物と新羅やササン朝ペルシャとの関わりなどをテーマにしたシンポジウムや講演会が開かれた。奈良文化財研究所の平城宮跡資料館では、特別展「地下の正倉院展—荷札木簡をひもとく—」も開かれている。都に集まった品々の荷札を読めば、蔵の中身がどこから来たのかも見えてくる。 書画骨董を集めてきた身として、正倉院ほどうらやましい蔵はない。千二百年、中身を散らさずに守り通したのは、集めることより何倍も難しい。わが蔵の品々も、せめて百年はまとまって残ってほしいもんや。
第70回正倉院展、宮廷の宝物56件。光明皇后の室内履きから、19世紀の英国人が驚嘆した工芸まで
奈良国立博物館で第70回正倉院展が開かれ、聖武天皇ゆかりの宝物56件が並んだ。会期にあわせて、宝物をめぐる講演や展示も奈良のあちこちで開かれている。
年に一度、奈良の秋に蔵の扉が開く。奈良国立博物館で第70回正倉院展が開かれた。東京新聞によれば、奈良時代の聖武天皇ゆかりの品など、正倉院の宝物56件が公開され、そのうち10件は初めての出品だという。 毎日新聞の連載が紹介する「繍線鞋」は、刺繍で飾った貴婦人の室内履きで、光明皇后が履いたとも伝わる品だ。光明皇后は756年、聖武天皇の遺品を東大寺の大仏に献納した。それが正倉院の宝物の核になっている。千二百年以上前の履物が、今も形をとどめているというだけで、ほんまに気が遠くなる。 宝物に目を見張ったのは、今の日本人だけではない。読売新聞によれば、19世紀後半の英国の工芸デザイナー、クリストファー・ドレッサーは、正倉院の宝物を紹介した著書『日本—その建築、美術、工芸』を書いた。記事はその日本語訳を、ドレッサーの作品を多く所蔵する福島県の郡山市立美術館とのかかわりとともに紹介している。 会期にあわせた催しも多い。読売新聞によれば、文化の日には、正倉院の宝物と新羅やササン朝ペルシャとの関わりなどをテーマにしたシンポジウムや講演会が開かれた。奈良文化財研究所の平城宮跡資料館では、特別展「地下の正倉院展—荷札木簡をひもとく—」も開かれている。都に集まった品々の荷札を読めば、蔵の中身がどこから来たのかも見えてくる。 書画骨董を集めてきた身として、正倉院ほどうらやましい蔵はない。千二百年、中身を散らさずに守り通したのは、集めることより何倍も難しい。わが蔵の品々も、せめて百年はまとまって残ってほしいもんや。
戊辰戦争から150年。白虎隊士の墓が国の登録記念物に、彰義隊の子孫の会も——敗れた側の記憶をたどる
明治150年の今年は、戊辰戦争から150年の年でもある。会津の白虎隊士の墓が国の登録記念物に答申され、東北や東京では敗れた側の記憶を伝える動きが続いている。
今年を「明治150年」と呼ぶか、「戊辰150年」と呼ぶか。ニコニコニュースに載った書評は、その呼び方の違いに、歴史を眺める立ち位置の違いが表れることを取り上げている。勝った側から見れば新しい国の始まり、敗れた側から見れば戦の年である。 福島民報によれば、国の文化審議会は11月16日、会津若松市の「会津飯盛山白虎隊士墳墓域」を国の登録記念物にするよう答申した。福島県で初めての登録記念物になる。福島民友新聞によれば、白虎隊の精神に共感したイタリアのローマ市が1928年に飯盛山へ贈った「イタリー碑」をめぐり、そのときのイタリア大使の祝辞も見つかったという。 会津の戦いには、胸の熱くなる話も残る。MSNに載った連載「奥羽の義」は、新政府軍に囲まれた鶴ケ城へ、家老・山川大蔵が郷土芸能の彼岸獅子を先頭に立てて堂々と行進し、包囲を抜けて入城した奇策を紹介している。 敗れた側の記憶は、ほかの土地にもある。河北新報によれば、奥羽越列藩同盟の軍が宿陣した秋田県大仙市の霊仙寺には、戦死した仙台藩士6人の墓があり、本堂のふすまの書は、なんと敵将の人生訓だったという。東京では、読売新聞によれば、上野で新政府軍と戦った彰義隊に子孫の会があり、ひっそりと残る墓を守りながら「敗者の鎮魂も」と願っている。 かつて奥羽の道を歩いたとき、「夏草や兵どもが夢の跡」と詠んだのは、平泉で散った人々を思ってのことだった。それから百八十年ほどのち、同じ奥羽の地はふたたび戦場になった。戊辰の年から数えて150年。夢の跡を守り続ける人々がいることを、心に留めておきたい。
戊辰戦争から150年。白虎隊士の墓が国の登録記念物に、彰義隊の子孫の会も——敗れた側の記憶をたどる
明治150年の今年は、戊辰戦争から150年の年でもある。会津の白虎隊士の墓が国の登録記念物に答申され、東北や東京では敗れた側の記憶を伝える動きが続いている。
今年を「明治150年」と呼ぶか、「戊辰150年」と呼ぶか。ニコニコニュースに載った書評は、その呼び方の違いに、歴史を眺める立ち位置の違いが表れることを取り上げている。勝った側から見れば新しい国の始まり、敗れた側から見れば戦の年である。 福島民報によれば、国の文化審議会は11月16日、会津若松市の「会津飯盛山白虎隊士墳墓域」を国の登録記念物にするよう答申した。福島県で初めての登録記念物になる。福島民友新聞によれば、白虎隊の精神に共感したイタリアのローマ市が1928年に飯盛山へ贈った「イタリー碑」をめぐり、そのときのイタリア大使の祝辞も見つかったという。 会津の戦いには、胸の熱くなる話も残る。MSNに載った連載「奥羽の義」は、新政府軍に囲まれた鶴ケ城へ、家老・山川大蔵が郷土芸能の彼岸獅子を先頭に立てて堂々と行進し、包囲を抜けて入城した奇策を紹介している。 敗れた側の記憶は、ほかの土地にもある。河北新報によれば、奥羽越列藩同盟の軍が宿陣した秋田県大仙市の霊仙寺には、戦死した仙台藩士6人の墓があり、本堂のふすまの書は、なんと敵将の人生訓だったという。東京では、読売新聞によれば、上野で新政府軍と戦った彰義隊に子孫の会があり、ひっそりと残る墓を守りながら「敗者の鎮魂も」と願っている。 かつて奥羽の道を歩いたとき、「夏草や兵どもが夢の跡」と詠んだのは、平泉で散った人々を思ってのことだった。それから百八十年ほどのち、同じ奥羽の地はふたたび戦場になった。戊辰の年から数えて150年。夢の跡を守り続ける人々がいることを、心に留めておきたい。
千五百年 眠る御陵に 鍬入れて 出たのは埴輪と 昭和の焼夷弾
─ 百舌鳥の散歩人 ─
千五百年 眠る御陵に 鍬入れて 出たのは埴輪と 昭和の焼夷弾
─ 百舌鳥の散歩人 ─
2018年11月号をお届けします。堺の大山古墳に、宮内庁と堺市が初めてそろって鍬を入れました。秋成はんは石敷きと埴輪の列に目を輝かせつつも、「それで仁徳天皇の墓と決まったわけではない」と、いつもどおり念を押しております。 わたしは第70回の正倉院展を担当しました。千二百年、中身を散らさずに守り通した蔵の話を書いていると、うちの蔵の散らかりようが情けなくなってきます。芭蕉翁は戊辰戦争150年の年に、会津や東北、上野の彰義隊まで、敗れた側の記憶をたどってくれました。 かわら版には、一茶の未公表句、東本願寺の坂東曲、白秋の生家などを並べました。秋も深まり、夜長の読書にちょうどええ号になったかと思います。
2018年11月号をお届けします。堺の大山古墳に、宮内庁と堺市が初めてそろって鍬を入れました。秋成はんは石敷きと埴輪の列に目を輝かせつつも、「それで仁徳天皇の墓と決まったわけではない」と、いつもどおり念を押しております。 わたしは第70回の正倉院展を担当しました。千二百年、中身を散らさずに守り通した蔵の話を書いていると、うちの蔵の散らかりようが情けなくなってきます。芭蕉翁は戊辰戦争150年の年に、会津や東北、上野の彰義隊まで、敗れた側の記憶をたどってくれました。 かわら版には、一茶の未公表句、東本願寺の坂東曲、白秋の生家などを並べました。秋も深まり、夜長の読書にちょうどええ号になったかと思います。