首里城が炎に包まれ、正殿など6棟が焼失。琉球王国450年の象徴、平成の復元を終えたばかりの悲劇
10月31日未明、那覇市の首里城で火災が起き、正殿や北殿、南殿など6棟が焼け落ちた。琉球王国の政治と文化の中心であり、沖縄の人々の心のよりどころだった城の焼失に、深い悲しみが広がっている。
夜明け前の那覇の空が、赤く染まった。時事通信によれば、10月31日午前2時40分ごろ、那覇市の世界遺産・首里城跡に建つ首里城の正殿付近で煙が出ていると119番通報があった。木造3階建ての正殿から火が出て燃え広がり、正殿と北殿、南殿など6棟が焼けた。けが人はいなかったという。 毎日新聞によれば、首里城は1429年から1879年までの約450年間、琉球王国の中心となった城で、政治と文化の要だった。朝日新聞の社説によれば、15世紀に成立した統一王国の王家・尚氏の居城で、17世紀の初めに薩摩藩の支配下に入ってからも、明や清への朝貢を続け、東南アジアとの交易でも栄えた。正殿は、国王が政務や儀式を執り行った場所である。 首里城は、これまでにも何度も焼けている。沖縄戦でも焼失し、平成になってから長い年月をかけて復元されてきた。朝日新聞によれば、今年2月には正殿の裏側の「御内原エリア」などの復元を終えて公開したばかりで、三十数年をかけた首里城公園全体の整備が、ようやく完成したところだった。琉球大学の識者は「再度の復元は、今は考えられない」と言葉を失ったという。沖縄タイムスによれば、琉球王国の王家・第二尚氏の当主も「深く心を痛めている」と語った。 NHKによれば、世界遺産に登録されているのは首里城跡であって、その上に復元された正殿などの建物は、文化財の防火の範囲には含まれていなかった。石垣などの遺構は世界遺産として残るが、失われたものはあまりにも大きい。 旅の身として、焼けた城の跡に立つ人々の胸の内を思うと、言葉が見つからない。それでも、首里城はこれまで何度焼けても、そのたびに人の手でよみがえってきた。いつの日か、ふたたび朱の正殿が空に映える日が来ることを、心から願いたい。
首里城が炎に包まれ、正殿など6棟が焼失。琉球王国450年の象徴、平成の復元を終えたばかりの悲劇
10月31日未明、那覇市の首里城で火災が起き、正殿や北殿、南殿など6棟が焼け落ちた。琉球王国の政治と文化の中心であり、沖縄の人々の心のよりどころだった城の焼失に、深い悲しみが広がっている。
夜明け前の那覇の空が、赤く染まった。時事通信によれば、10月31日午前2時40分ごろ、那覇市の世界遺産・首里城跡に建つ首里城の正殿付近で煙が出ていると119番通報があった。木造3階建ての正殿から火が出て燃え広がり、正殿と北殿、南殿など6棟が焼けた。けが人はいなかったという。 毎日新聞によれば、首里城は1429年から1879年までの約450年間、琉球王国の中心となった城で、政治と文化の要だった。朝日新聞の社説によれば、15世紀に成立した統一王国の王家・尚氏の居城で、17世紀の初めに薩摩藩の支配下に入ってからも、明や清への朝貢を続け、東南アジアとの交易でも栄えた。正殿は、国王が政務や儀式を執り行った場所である。 首里城は、これまでにも何度も焼けている。沖縄戦でも焼失し、平成になってから長い年月をかけて復元されてきた。朝日新聞によれば、今年2月には正殿の裏側の「御内原エリア」などの復元を終えて公開したばかりで、三十数年をかけた首里城公園全体の整備が、ようやく完成したところだった。琉球大学の識者は「再度の復元は、今は考えられない」と言葉を失ったという。沖縄タイムスによれば、琉球王国の王家・第二尚氏の当主も「深く心を痛めている」と語った。 NHKによれば、世界遺産に登録されているのは首里城跡であって、その上に復元された正殿などの建物は、文化財の防火の範囲には含まれていなかった。石垣などの遺構は世界遺産として残るが、失われたものはあまりにも大きい。 旅の身として、焼けた城の跡に立つ人々の胸の内を思うと、言葉が見つからない。それでも、首里城はこれまで何度焼けても、そのたびに人の手でよみがえってきた。いつの日か、ふたたび朱の正殿が空に映える日が来ることを、心から願いたい。
天皇陛下が即位を内外に宣言する「即位礼正殿の儀」。奈良時代から使われたとされる高御座と、各地の記念の催し
10月22日、天皇陛下が即位を国の内外に宣言される「即位礼正殿の儀」が行われた。陛下が昇られた高御座は、遅くとも奈良時代から即位式に使われてきたとされる。各地では即位を記念した展示も開かれた。
新しい御代の始まりを告げる儀式が、秋の皇居で執り行われた。Nippon.comによれば、10月22日、天皇陛下は午前中に皇居・宮中三殿で即位礼を行うことを神前に告げる「即位礼当日賢所大前の儀」に臨まれ、午後から国の儀式として「即位礼正殿の儀」が行われた。 産経新聞(Yahoo!ニュース)によれば、陛下が昇られた高御座は、遅くとも奈良時代から即位式に使われていたとされる。平安時代以降の資料や江戸時代の絵図にもその姿が残るといい、今回の高御座にも漆芸や金工などの匠の技が輝いている。千年を超えて受け継がれてきた形が、令和の世にも用いられたわけである。 わたしが見聞きした即位といえば、安永の末に閑院宮家から迎えられた光格天皇の即位である。京の御所で行われた儀式の噂は、大坂の町にも届いた。高御座に昇られる帝の姿を、町の人々はあれこれ想像しては語り合ったものだった。 各地でも、即位にちなんだ展示や催しが開かれた。神戸新聞によれば、兵庫県丹波篠山市の武家屋敷安間家資料館では、大正天皇の即位の儀式「御大礼」を描いた石版画が初めて公開された。読売新聞によれば、東京国立博物館では「御即位記念特別展 正倉院の世界」が開かれている。光明皇后が聖武天皇の遺愛の品々を東大寺の大仏に捧げたことに始まり、約1260年にわたり守られてきた宝物である。J-CASTニュースは、即位に続いて行われる大嘗祭をめぐる本を紹介している。 儀式の形は、長い年月をかけて受け継がれ、ときに途絶え、ときに復興されてきた。その積み重ねの上に今日の儀式がある。古いものを伝えていく人々の営みにこそ、頭が下がる思いがする。
天皇陛下が即位を内外に宣言する「即位礼正殿の儀」。奈良時代から使われたとされる高御座と、各地の記念の催し
10月22日、天皇陛下が即位を国の内外に宣言される「即位礼正殿の儀」が行われた。陛下が昇られた高御座は、遅くとも奈良時代から即位式に使われてきたとされる。各地では即位を記念した展示も開かれた。
新しい御代の始まりを告げる儀式が、秋の皇居で執り行われた。Nippon.comによれば、10月22日、天皇陛下は午前中に皇居・宮中三殿で即位礼を行うことを神前に告げる「即位礼当日賢所大前の儀」に臨まれ、午後から国の儀式として「即位礼正殿の儀」が行われた。 産経新聞(Yahoo!ニュース)によれば、陛下が昇られた高御座は、遅くとも奈良時代から即位式に使われていたとされる。平安時代以降の資料や江戸時代の絵図にもその姿が残るといい、今回の高御座にも漆芸や金工などの匠の技が輝いている。千年を超えて受け継がれてきた形が、令和の世にも用いられたわけである。 わたしが見聞きした即位といえば、安永の末に閑院宮家から迎えられた光格天皇の即位である。京の御所で行われた儀式の噂は、大坂の町にも届いた。高御座に昇られる帝の姿を、町の人々はあれこれ想像しては語り合ったものだった。 各地でも、即位にちなんだ展示や催しが開かれた。神戸新聞によれば、兵庫県丹波篠山市の武家屋敷安間家資料館では、大正天皇の即位の儀式「御大礼」を描いた石版画が初めて公開された。読売新聞によれば、東京国立博物館では「御即位記念特別展 正倉院の世界」が開かれている。光明皇后が聖武天皇の遺愛の品々を東大寺の大仏に捧げたことに始まり、約1260年にわたり守られてきた宝物である。J-CASTニュースは、即位に続いて行われる大嘗祭をめぐる本を紹介している。 儀式の形は、長い年月をかけて受け継がれ、ときに途絶え、ときに復興されてきた。その積み重ねの上に今日の儀式がある。古いものを伝えていく人々の営みにこそ、頭が下がる思いがする。
世界遺産の「仁徳天皇陵」、本当に仁徳天皇の墓なのか。被葬者の謎と、埼玉古墳群の副葬品から探る試み
世界遺産に登録された百舌鳥・古市古墳群の「仁徳天皇陵古墳」。だが、その墓に本当に仁徳天皇が葬られているのかは、実は分かっていない。被葬者をめぐる議論と、副葬品から被葬者像に迫る展示を追う。
名札があるからといって、中身がその通りとは限らない。JBpressの記事は、世界遺産に登録された「仁徳天皇陵」について、本当に仁徳天皇の墓なのか、誰が葬られているのかは分かっていない、と問いかけている。Wedge ONLINEも、世界最大級の古墳の被葬者は誰か、という問いを正面から取り上げている。 そもそも「仁徳天皇陵」という呼び名は、宮内庁がこの古墳を仁徳天皇の陵墓として管理していることによる。考古学では、所在地の名から「大山古墳」と呼ぶことが多い。古墳が造られた年代と、『日本書紀』などが伝える天皇の在位の順番とが、必ずしもかみ合わないことは、以前から指摘されてきた。 では、被葬者を確かめる手立てはあるのか。陵墓は立ち入りが厳しく制限されていて、内部を自由に調べることはできない。ここに、議論が決着しない大きな理由がある。世界遺産になったことで、学術的な調査を求める声が改めて高まるかどうか。注目したい。 被葬者に迫る試みは、ほかの古墳でも続いている。BIGLOBEニュース(毎日新聞)によれば、埼玉県行田市の県立さきたま史跡の博物館では、企画展「徹底解剖!埼玉古墳群〜副葬品から探る被葬者像〜」が開かれている。国宝の金錯銘鉄剣などの副葬品から、葬られた人の姿を推し量ろうという展示だ。 名札を疑うのは、名札を軽んじることではない。確かめられることと、まだ確かめられないこととを分けておくこと。それが、古い墓に眠る人への、いちばんの礼儀ではないかと思う。
世界遺産の「仁徳天皇陵」、本当に仁徳天皇の墓なのか。被葬者の謎と、埼玉古墳群の副葬品から探る試み
世界遺産に登録された百舌鳥・古市古墳群の「仁徳天皇陵古墳」。だが、その墓に本当に仁徳天皇が葬られているのかは、実は分かっていない。被葬者をめぐる議論と、副葬品から被葬者像に迫る展示を追う。
名札があるからといって、中身がその通りとは限らない。JBpressの記事は、世界遺産に登録された「仁徳天皇陵」について、本当に仁徳天皇の墓なのか、誰が葬られているのかは分かっていない、と問いかけている。Wedge ONLINEも、世界最大級の古墳の被葬者は誰か、という問いを正面から取り上げている。 そもそも「仁徳天皇陵」という呼び名は、宮内庁がこの古墳を仁徳天皇の陵墓として管理していることによる。考古学では、所在地の名から「大山古墳」と呼ぶことが多い。古墳が造られた年代と、『日本書紀』などが伝える天皇の在位の順番とが、必ずしもかみ合わないことは、以前から指摘されてきた。 では、被葬者を確かめる手立てはあるのか。陵墓は立ち入りが厳しく制限されていて、内部を自由に調べることはできない。ここに、議論が決着しない大きな理由がある。世界遺産になったことで、学術的な調査を求める声が改めて高まるかどうか。注目したい。 被葬者に迫る試みは、ほかの古墳でも続いている。BIGLOBEニュース(毎日新聞)によれば、埼玉県行田市の県立さきたま史跡の博物館では、企画展「徹底解剖!埼玉古墳群〜副葬品から探る被葬者像〜」が開かれている。国宝の金錯銘鉄剣などの副葬品から、葬られた人の姿を推し量ろうという展示だ。 名札を疑うのは、名札を軽んじることではない。確かめられることと、まだ確かめられないこととを分けておくこと。それが、古い墓に眠る人への、いちばんの礼儀ではないかと思う。
歌麿・写楽・北斎・広重・国芳が夢の競演。「大浮世絵展」開幕を前に、町田の美人画展、国芳の娘たちの展示も
11月に江戸東京博物館で開く「大浮世絵展」は、人気の浮世絵師5人をそろえた展覧会だ。この秋は、町田の美人画展、太田記念美術館の国芳と娘たちの展示と、浮世絵の展覧会が相次いでいる。
浮世絵の秋である。NEWSポストセブンによれば、11月19日から東京・両国の江戸東京博物館で、特別展「大浮世絵展―歌麿、写楽、北斎、広重、国芳 夢の競演」が開かれる。人気の浮世絵師5人の作品を一度に見られる、なんとも贅沢な催しだ。 その前に、美人画を楽しむ手もある。Yahoo!ニュース(町田経済新聞)によれば、町田市立国際版画美術館では、鈴木春信や喜多川歌麿ら約230点を集めた美人画の浮世絵展が開かれている。浮世絵の「黄金期」である18世紀後半、絵師たちは理想の美人を追い求め、評判の遊女や町娘、若衆などを描いた。読売新聞によれば、東京・原宿の太田記念美術館では「歌川国芳—父の画業と娘たち」が開幕し、国芳と、絵師として育った娘たちの作品が並んでいる。 さて、商人の目で浮世絵を見ると、これはもともと庶民が手軽に買える「売り物」やった。一枚の値段は、そば一杯ほどとも言われる。安うて、きれいで、流行りの役者や美人が描いてある。売れるに決まっとる。版元は絵師を選び、流行を読み、売れ筋を刷り増した。浮世絵は、江戸の商いの知恵の結晶なんや。 それが今や、美術館で行列を作って見る名品になった。当時の版元が聞いたら、腰を抜かすやろう。いや、案外「そら、ええもん作ったからな」と胸を張るかもしれん。 わしも一枚くらい手元に置きたいが、今となっては、そば一杯の値段では到底買えん。せめて展覧会の入場料で、ぞんぶんに眺めさせてもらうとしよう。
歌麿・写楽・北斎・広重・国芳が夢の競演。「大浮世絵展」開幕を前に、町田の美人画展、国芳の娘たちの展示も
11月に江戸東京博物館で開く「大浮世絵展」は、人気の浮世絵師5人をそろえた展覧会だ。この秋は、町田の美人画展、太田記念美術館の国芳と娘たちの展示と、浮世絵の展覧会が相次いでいる。
浮世絵の秋である。NEWSポストセブンによれば、11月19日から東京・両国の江戸東京博物館で、特別展「大浮世絵展―歌麿、写楽、北斎、広重、国芳 夢の競演」が開かれる。人気の浮世絵師5人の作品を一度に見られる、なんとも贅沢な催しだ。 その前に、美人画を楽しむ手もある。Yahoo!ニュース(町田経済新聞)によれば、町田市立国際版画美術館では、鈴木春信や喜多川歌麿ら約230点を集めた美人画の浮世絵展が開かれている。浮世絵の「黄金期」である18世紀後半、絵師たちは理想の美人を追い求め、評判の遊女や町娘、若衆などを描いた。読売新聞によれば、東京・原宿の太田記念美術館では「歌川国芳—父の画業と娘たち」が開幕し、国芳と、絵師として育った娘たちの作品が並んでいる。 さて、商人の目で浮世絵を見ると、これはもともと庶民が手軽に買える「売り物」やった。一枚の値段は、そば一杯ほどとも言われる。安うて、きれいで、流行りの役者や美人が描いてある。売れるに決まっとる。版元は絵師を選び、流行を読み、売れ筋を刷り増した。浮世絵は、江戸の商いの知恵の結晶なんや。 それが今や、美術館で行列を作って見る名品になった。当時の版元が聞いたら、腰を抜かすやろう。いや、案外「そら、ええもん作ったからな」と胸を張るかもしれん。 わしも一枚くらい手元に置きたいが、今となっては、そば一杯の値段では到底買えん。せめて展覧会の入場料で、ぞんぶんに眺めさせてもらうとしよう。
朱の城 幾度焼けても よみがえる 琉球びとの 心の柱
─ 首里の空を想う者 ─
朱の城 幾度焼けても よみがえる 琉球びとの 心の柱
─ 首里の空を想う者 ─
2019年10月号をお届けします。月の終わり、首里城が焼けたという知らせに言葉を失いました。芭蕉翁が、琉球王国の歴史とともに、その悲しみを静かに書き留めてくれています。沖縄の皆さまに、心からお見舞いを申し上げます。 今月は即位礼正殿の儀もありました。わたしは、昔見聞きした光格天皇の即位を思い出しながら筆をとりました。秋成はんは世界遺産になった仁徳天皇陵の被葬者の謎に、西鶴はんは秋の浮世絵展に、それぞれの持ち場から迫っております。 かわら版には、藤原京の運河跡、親鸞の直筆、駿府城の金箔瓦、国宝の山鳥毛などを並べました。秋の夜長、失われたものと受け継がれるものとに、思いを寄せていただけたら幸いです。
2019年10月号をお届けします。月の終わり、首里城が焼けたという知らせに言葉を失いました。芭蕉翁が、琉球王国の歴史とともに、その悲しみを静かに書き留めてくれています。沖縄の皆さまに、心からお見舞いを申し上げます。 今月は即位礼正殿の儀もありました。わたしは、昔見聞きした光格天皇の即位を思い出しながら筆をとりました。秋成はんは世界遺産になった仁徳天皇陵の被葬者の謎に、西鶴はんは秋の浮世絵展に、それぞれの持ち場から迫っております。 かわら版には、藤原京の運河跡、親鸞の直筆、駿府城の金箔瓦、国宝の山鳥毛などを並べました。秋の夜長、失われたものと受け継がれるものとに、思いを寄せていただけたら幸いです。