天皇一代に一度の大嘗祭、「大嘗宮の儀」が夜を徹して執り行われる。古事記・日本書紀にさかのぼる祭祀
11月14日夜から15日未明にかけて、皇位継承に伴う大嘗祭の中心的な儀式「大嘗宮の儀」が皇居で行われた。天皇一代に一度だけの祭祀は、古代から受け継がれてきたものだ。
天皇が一代に一度だけ行う祭りがある。大嘗祭である。産経新聞によれば、11月14日夜、大嘗祭の中心的な儀式「大嘗宮の儀」が皇居で始まった。皇位の継承にあたって最も重要とされる儀式で、7世紀にさかのぼるとされる。時事通信によれば、儀式は15日未明に終わり、16日と18日には祝宴にあたる「大饗の儀」が行われる。 その起源は古い。産経新聞の解説によれば、『古事記』や『日本書紀』には、皇祖神の天照大御神や古代の天皇が「新嘗の祭」を行ったという記述がある。宮内庁も、大嘗祭は新嘗の祭に由来すると説明している。毎年の収穫を感謝する新嘗祭を、即位の後に一度だけ大がかりに行うのが大嘗祭、というわけだ。 大嘗祭の研究も紹介されている。ライブドアニュースによれば、國學院大學博物館の企画展では、『日本書紀』や「嘉永元年大嘗祭図」のほか、江戸時代の資料から再現した「近世大嘗宮模型」などが並んでいる。 実は大嘗祭は、戦国の世に二百年あまり途絶えたことがある。江戸時代になって再興されたが、その後も簡略な形で行われた時代が長かった。わたしが知る光格天皇は、朝廷の古い儀式を次々とよみがえらせたお方で、大嘗祭もできるだけ古い形に近づけようと心を砕かれたと聞く。途絶えては復活し、形を変えながら受け継がれてきたのが、この祭りの歴史なのである。 古い儀式を伝えるには、その形を記録し、研究し、次の世代に手渡す人々の働きが欠かせない。千年を超えて続いてきた営みの重みを、しみじみと感じる秋である。
天皇一代に一度の大嘗祭、「大嘗宮の儀」が夜を徹して執り行われる。古事記・日本書紀にさかのぼる祭祀
11月14日夜から15日未明にかけて、皇位継承に伴う大嘗祭の中心的な儀式「大嘗宮の儀」が皇居で行われた。天皇一代に一度だけの祭祀は、古代から受け継がれてきたものだ。
天皇が一代に一度だけ行う祭りがある。大嘗祭である。産経新聞によれば、11月14日夜、大嘗祭の中心的な儀式「大嘗宮の儀」が皇居で始まった。皇位の継承にあたって最も重要とされる儀式で、7世紀にさかのぼるとされる。時事通信によれば、儀式は15日未明に終わり、16日と18日には祝宴にあたる「大饗の儀」が行われる。 その起源は古い。産経新聞の解説によれば、『古事記』や『日本書紀』には、皇祖神の天照大御神や古代の天皇が「新嘗の祭」を行ったという記述がある。宮内庁も、大嘗祭は新嘗の祭に由来すると説明している。毎年の収穫を感謝する新嘗祭を、即位の後に一度だけ大がかりに行うのが大嘗祭、というわけだ。 大嘗祭の研究も紹介されている。ライブドアニュースによれば、國學院大學博物館の企画展では、『日本書紀』や「嘉永元年大嘗祭図」のほか、江戸時代の資料から再現した「近世大嘗宮模型」などが並んでいる。 実は大嘗祭は、戦国の世に二百年あまり途絶えたことがある。江戸時代になって再興されたが、その後も簡略な形で行われた時代が長かった。わたしが知る光格天皇は、朝廷の古い儀式を次々とよみがえらせたお方で、大嘗祭もできるだけ古い形に近づけようと心を砕かれたと聞く。途絶えては復活し、形を変えながら受け継がれてきたのが、この祭りの歴史なのである。 古い儀式を伝えるには、その形を記録し、研究し、次の世代に手渡す人々の働きが欠かせない。千年を超えて続いてきた営みの重みを、しみじみと感じる秋である。
ローマ教皇が38年ぶりに来日、長崎のミサにはかくれキリシタンも招かれる。禁教の歴史をもつ地に届いた祈り
ローマ教皇フランシスコが11月23日から26日まで日本を訪れ、東京、広島、長崎を訪ねた。教皇の来日は1981年のヨハネ・パウロ2世以来38年ぶり。長崎のミサには、禁教期の信仰の形を守るかくれキリシタンも招かれた。
三百年近い禁教の時代を越えてきた地に、ローマ教皇がやってきた。東京新聞によれば、ローマ教皇フランシスコは11月23日から26日まで日本を訪れ、東京と広島、長崎を訪問した。教皇の来日は、1981年のヨハネ・パウロ2世以来38年ぶり2度目だという。 現代ビジネスによれば、フランシスコは南米出身の初めての教皇で、庶民の出身。所属するイエズス会から教皇が出たのも初めてだという。イエズス会といえば、フランシスコ・ザビエルが属し、16世紀に日本へキリスト教を伝えた修道会である。四百七十年のときを経て、同じ会の出身の教皇が日本の土を踏んだことになる。 長崎新聞によれば、24日に長崎市の県営ビッグNスタジアムで行われるミサには、禁教の時代の信仰の形を守り続けてきた「かくれキリシタン」が招かれた。潜伏キリシタンの子孫のうち、明治に禁教が解かれた後もカトリックに戻らず、先祖から受け継いだ独自の信仰を守ってきた人々である。 長崎と天草の潜伏キリシタン関連遺産が世界遺産に登録されたのは、昨年の夏だった。禁じられた祈りを、人々は表向きの暮らしの陰でひそかに守り、代々伝えてきた。その積み重ねの上に、今回の教皇の訪問がある。 旅の身として、長く閉ざされた道の先に、ようやく光が届いたような思いがする。信仰の違いを越えて、長い年月を祈りとともに生きた人々の歩みに、静かに頭を垂れたい。
ローマ教皇が38年ぶりに来日、長崎のミサにはかくれキリシタンも招かれる。禁教の歴史をもつ地に届いた祈り
ローマ教皇フランシスコが11月23日から26日まで日本を訪れ、東京、広島、長崎を訪ねた。教皇の来日は1981年のヨハネ・パウロ2世以来38年ぶり。長崎のミサには、禁教期の信仰の形を守るかくれキリシタンも招かれた。
三百年近い禁教の時代を越えてきた地に、ローマ教皇がやってきた。東京新聞によれば、ローマ教皇フランシスコは11月23日から26日まで日本を訪れ、東京と広島、長崎を訪問した。教皇の来日は、1981年のヨハネ・パウロ2世以来38年ぶり2度目だという。 現代ビジネスによれば、フランシスコは南米出身の初めての教皇で、庶民の出身。所属するイエズス会から教皇が出たのも初めてだという。イエズス会といえば、フランシスコ・ザビエルが属し、16世紀に日本へキリスト教を伝えた修道会である。四百七十年のときを経て、同じ会の出身の教皇が日本の土を踏んだことになる。 長崎新聞によれば、24日に長崎市の県営ビッグNスタジアムで行われるミサには、禁教の時代の信仰の形を守り続けてきた「かくれキリシタン」が招かれた。潜伏キリシタンの子孫のうち、明治に禁教が解かれた後もカトリックに戻らず、先祖から受け継いだ独自の信仰を守ってきた人々である。 長崎と天草の潜伏キリシタン関連遺産が世界遺産に登録されたのは、昨年の夏だった。禁じられた祈りを、人々は表向きの暮らしの陰でひそかに守り、代々伝えてきた。その積み重ねの上に、今回の教皇の訪問がある。 旅の身として、長く閉ざされた道の先に、ようやく光が届いたような思いがする。信仰の違いを越えて、長い年月を祈りとともに生きた人々の歩みに、静かに頭を垂れたい。
首里城の焼失から1か月、火元は分電盤の延長コードか。再建の課題と、大正期に首里城を救った研究者の記録
10月末に正殿などが焼けた首里城。消防の調べで、火元とみられる分電盤の延長コードに溶けた跡が見つかった。再建への動きが始まる一方で、課題は費用だけではないという声もある。
焼け跡を前に、何が起きたのかを確かめる作業が続いている。スポニチによれば、火災の後、首里城の焼け跡が初めて報道陣に公開された。正殿は跡形もなかったという。琉球新報によれば、那覇市消防局は11月7日の会見で、正殿の北東にあった分電盤からつながる延長コードに、溶けた跡が見つかったと明らかにした。配線が接触して火花が出た可能性があるという。 さて、ここは原因の断定を急がないほうがよい。溶けた跡があることと、それが火元であることとは、まだ同じではない。消防はコードを詳しく分析するとしている。再発を防ぐためにこそ、確かな調べを待つべきだろう。 再建に向けた動きも始まった。産経新聞によれば、沖縄県の玉城知事は、城郭内を国、城郭外を県が所有している首里城公園について、所有権の移管を国と協議する意向を示した。朝日新聞(MSN)の記事は、再建の問題は巨額の費用だけではないと指摘する。戦後の復元は、歴史、建築、美術、工芸などの分野を越えて集まった県民が、戦争で失った琉球王国の文化や技術を「首里城」をキーワードによみがえらせた一大事業だった、というのである。 首里城の復元を支えた記録の話もある。AERA dot.によれば、大正期に首里城が取り壊されそうになったとき、その危機を救ったのは一人の美術研究者だった。鎌倉芳太郎である。首里城や周りの寺院、工芸品を撮った写真や、琉球王朝ゆかりの古文書をもとにした論考が残り、それが後の復元の手がかりになったという。 失われた建物をよみがえらせるには、記録が要る。確かな記録を残した人がいたからこそ、首里城は一度よみがえった。二度目の再建も、確かな調べと記録の上に進めてほしい。
首里城の焼失から1か月、火元は分電盤の延長コードか。再建の課題と、大正期に首里城を救った研究者の記録
10月末に正殿などが焼けた首里城。消防の調べで、火元とみられる分電盤の延長コードに溶けた跡が見つかった。再建への動きが始まる一方で、課題は費用だけではないという声もある。
焼け跡を前に、何が起きたのかを確かめる作業が続いている。スポニチによれば、火災の後、首里城の焼け跡が初めて報道陣に公開された。正殿は跡形もなかったという。琉球新報によれば、那覇市消防局は11月7日の会見で、正殿の北東にあった分電盤からつながる延長コードに、溶けた跡が見つかったと明らかにした。配線が接触して火花が出た可能性があるという。 さて、ここは原因の断定を急がないほうがよい。溶けた跡があることと、それが火元であることとは、まだ同じではない。消防はコードを詳しく分析するとしている。再発を防ぐためにこそ、確かな調べを待つべきだろう。 再建に向けた動きも始まった。産経新聞によれば、沖縄県の玉城知事は、城郭内を国、城郭外を県が所有している首里城公園について、所有権の移管を国と協議する意向を示した。朝日新聞(MSN)の記事は、再建の問題は巨額の費用だけではないと指摘する。戦後の復元は、歴史、建築、美術、工芸などの分野を越えて集まった県民が、戦争で失った琉球王国の文化や技術を「首里城」をキーワードによみがえらせた一大事業だった、というのである。 首里城の復元を支えた記録の話もある。AERA dot.によれば、大正期に首里城が取り壊されそうになったとき、その危機を救ったのは一人の美術研究者だった。鎌倉芳太郎である。首里城や周りの寺院、工芸品を撮った写真や、琉球王朝ゆかりの古文書をもとにした論考が残り、それが後の復元の手がかりになったという。 失われた建物をよみがえらせるには、記録が要る。確かな記録を残した人がいたからこそ、首里城は一度よみがえった。二度目の再建も、確かな調べと記録の上に進めてほしい。
御即位記念の正倉院展、20日間で27万7千人が入場。聖武天皇が大仏開眼会で履いた靴、信長も削った香木の話
奈良国立博物館で開かれた御即位記念の第71回正倉院展が閉幕した。20日間の入場者は27万7千人。天武天皇から6代の天皇が受け継いだ戸棚など41件の宝物が並んだ。
20日で27万7千人。これは大した客入りや。読売新聞(MSN)によれば、奈良国立博物館で開かれた御即位記念の正倉院展が閉幕し、20日間の入場者は27万7千人に上った。初めて出品された4件を含む41件の宝物が並んだという。 目玉の一つは、天武天皇から6代の天皇が受け継いだとされるケヤキの戸棚「赤漆文欟木御厨子」。聖武天皇が752年、東大寺の大仏の開眼会で履いたとされる靴も出品された。毎日新聞は、宝物から人間としての聖武天皇の姿を読み解いている。 面白いのは香木の話や。MSNに載った漫画家・里中満智子さんの話によれば、正倉院には名高い香木があり、織田信長もその一部を削り取ったと伝わる。天下人の権勢を示す行いやったわけやが、わしに言わせれば、千二百年守られてきた宝をちょいと削って持ち帰るとは、なんとも大胆な話や。里中さんは、正倉院にはザルや籠といった日用品まで入っていて、そこがすごいとも語っている。 考えてみれば、正倉院は千二百年あまり、宝を散らさずに守り通してきた。天皇の代替わりのたびに、この蔵の宝を見に人が集まる。27万7千人という数字は、その守りの年月への敬意の表れでもあるのやろう。 入場料に、図録に、みやげ物。奈良の町にも、ええ銭が落ちたはずや。千年の蔵は、今も町を潤す金の蔵でもあるんやなあ。
御即位記念の正倉院展、20日間で27万7千人が入場。聖武天皇が大仏開眼会で履いた靴、信長も削った香木の話
奈良国立博物館で開かれた御即位記念の第71回正倉院展が閉幕した。20日間の入場者は27万7千人。天武天皇から6代の天皇が受け継いだ戸棚など41件の宝物が並んだ。
20日で27万7千人。これは大した客入りや。読売新聞(MSN)によれば、奈良国立博物館で開かれた御即位記念の正倉院展が閉幕し、20日間の入場者は27万7千人に上った。初めて出品された4件を含む41件の宝物が並んだという。 目玉の一つは、天武天皇から6代の天皇が受け継いだとされるケヤキの戸棚「赤漆文欟木御厨子」。聖武天皇が752年、東大寺の大仏の開眼会で履いたとされる靴も出品された。毎日新聞は、宝物から人間としての聖武天皇の姿を読み解いている。 面白いのは香木の話や。MSNに載った漫画家・里中満智子さんの話によれば、正倉院には名高い香木があり、織田信長もその一部を削り取ったと伝わる。天下人の権勢を示す行いやったわけやが、わしに言わせれば、千二百年守られてきた宝をちょいと削って持ち帰るとは、なんとも大胆な話や。里中さんは、正倉院にはザルや籠といった日用品まで入っていて、そこがすごいとも語っている。 考えてみれば、正倉院は千二百年あまり、宝を散らさずに守り通してきた。天皇の代替わりのたびに、この蔵の宝を見に人が集まる。27万7千人という数字は、その守りの年月への敬意の表れでもあるのやろう。 入場料に、図録に、みやげ物。奈良の町にも、ええ銭が落ちたはずや。千年の蔵は、今も町を潤す金の蔵でもあるんやなあ。
千二百年 守りし蔵の 宝見に 二時間並び 三分で出る
─ 奈良の行列最後尾 ─
千二百年 守りし蔵の 宝見に 二時間並び 三分で出る
─ 奈良の行列最後尾 ─
2019年11月号をお届けします。今月は大嘗祭が執り行われ、わたしは光格天皇が古い儀式の再興に心を砕かれたことを思い出しながら筆をとりました。 芭蕉翁は38年ぶりに来日したローマ教皇と、長崎のかくれキリシタンの人々に思いを寄せ、秋成はんは焼失から1か月の首里城の原因調べと再建の課題を、慎重に見つめております。西鶴はんは27万7千人を集めた正倉院展の客入りに、すっかり感心しておりました。 かわら版には、定家本の「若紫」、若冲の最初期の作品、ナスカの新しい地上絵、伊賀のしぐれ忌などを並べました。芭蕉翁、自分の忌日の記事を見て、なんとも照れくさそうでしたわ。
2019年11月号をお届けします。今月は大嘗祭が執り行われ、わたしは光格天皇が古い儀式の再興に心を砕かれたことを思い出しながら筆をとりました。 芭蕉翁は38年ぶりに来日したローマ教皇と、長崎のかくれキリシタンの人々に思いを寄せ、秋成はんは焼失から1か月の首里城の原因調べと再建の課題を、慎重に見つめております。西鶴はんは27万7千人を集めた正倉院展の客入りに、すっかり感心しておりました。 かわら版には、定家本の「若紫」、若冲の最初期の作品、ナスカの新しい地上絵、伊賀のしぐれ忌などを並べました。芭蕉翁、自分の忌日の記事を見て、なんとも照れくさそうでしたわ。