いざ鎌倉、息子のために——阿仏尼の『十六夜日記』と、鎌倉街道の旅
鎌倉時代の歌人・阿仏尼が、京都から鎌倉へ下った道中をつづった『十六夜日記』。その旅は、息子の遺産相続をめぐる訴えのためだった。年明け、この紀行文と、阿仏尼が歩いた鎌倉街道を紹介する読み物が相次いだ。
旅日記というものは、書き手が何のために旅に出たかで、まるで味わいが変わる。わたしの『おくのほそ道』は、歌枕を訪ね、古人の跡を慕う旅だった。ところが七百年あまり前、まったく違う理由で東海道を下った女性がいる。『十六夜日記』の阿仏尼である。 『十六夜日記』は、鎌倉時代の女流歌人・阿仏尼が、京都から鎌倉までの東海道の旅の道中に詠んだ紀行文だ。題の「十六夜」は、旅立ちが十月十六日だったことに由来するといわれる。日本史の授業で名前だけは習ったという人も多いだろう。 では、なぜ阿仏尼は鎌倉へ向かったのか。年明けに公開された読み物は、これを「アラ還女性が『いざ鎌倉!』」と紹介していた。阿仏尼は歌の家として名高い藤原為家の妻となり、息子の為相をもうけた。為家が亡くなると、所領の相続をめぐって先妻の子と争いになり、阿仏尼はその訴えを幕府に届けるため、はるばる鎌倉へ下ったのである。息子への愛情と、遺産を取り戻そうとする執念。雅な紀行文の裏には、なかなか生々しい事情があったわけだ。 面白いのは、この阿仏尼の足跡が、今も地図の上にたどれることだ。鎌倉の地域紙の連載では、阿仏尼と、同じく鎌倉へ下った後深草院二条が歩いた名古屋の鎌倉街道を紹介していた。京から鎌倉へ向かう女たちが、尾張の野を抜けていった道である。 旅の目的が歌枕でも訴訟でも、道の上で見る景色は同じだったはずだ。冬枯れの野、渡し場の水音、宿の灯り。そこに歌を添えずにいられないのが、歌詠みの性分というものだろう。 七百年前の旅人は、宿ごとに歌を詠みながら、胸の内では訴えの文言を練っていたにちがいない。その心の揺れを思いながら、名古屋の鎌倉街道を一度歩いてみたい。
いざ鎌倉、息子のために——阿仏尼の『十六夜日記』と、鎌倉街道の旅
鎌倉時代の歌人・阿仏尼が、京都から鎌倉へ下った道中をつづった『十六夜日記』。その旅は、息子の遺産相続をめぐる訴えのためだった。年明け、この紀行文と、阿仏尼が歩いた鎌倉街道を紹介する読み物が相次いだ。
旅日記というものは、書き手が何のために旅に出たかで、まるで味わいが変わる。わたしの『おくのほそ道』は、歌枕を訪ね、古人の跡を慕う旅だった。ところが七百年あまり前、まったく違う理由で東海道を下った女性がいる。『十六夜日記』の阿仏尼である。 『十六夜日記』は、鎌倉時代の女流歌人・阿仏尼が、京都から鎌倉までの東海道の旅の道中に詠んだ紀行文だ。題の「十六夜」は、旅立ちが十月十六日だったことに由来するといわれる。日本史の授業で名前だけは習ったという人も多いだろう。 では、なぜ阿仏尼は鎌倉へ向かったのか。年明けに公開された読み物は、これを「アラ還女性が『いざ鎌倉!』」と紹介していた。阿仏尼は歌の家として名高い藤原為家の妻となり、息子の為相をもうけた。為家が亡くなると、所領の相続をめぐって先妻の子と争いになり、阿仏尼はその訴えを幕府に届けるため、はるばる鎌倉へ下ったのである。息子への愛情と、遺産を取り戻そうとする執念。雅な紀行文の裏には、なかなか生々しい事情があったわけだ。 面白いのは、この阿仏尼の足跡が、今も地図の上にたどれることだ。鎌倉の地域紙の連載では、阿仏尼と、同じく鎌倉へ下った後深草院二条が歩いた名古屋の鎌倉街道を紹介していた。京から鎌倉へ向かう女たちが、尾張の野を抜けていった道である。 旅の目的が歌枕でも訴訟でも、道の上で見る景色は同じだったはずだ。冬枯れの野、渡し場の水音、宿の灯り。そこに歌を添えずにいられないのが、歌詠みの性分というものだろう。 七百年前の旅人は、宿ごとに歌を詠みながら、胸の内では訴えの文言を練っていたにちがいない。その心の揺れを思いながら、名古屋の鎌倉街道を一度歩いてみたい。
筆を捨て、足で描いた男——「具体」の白髪一雄、全貌に迫る大規模個展
天井から吊るしたロープにつかまり、床に広げた画布の上を足で描く。戦後の前衛美術グループ「具体」を率いた一人、白髪一雄の全貌に迫る大規模な個展が始まった。
筆で描くのが当たり前、と思っているうちは、この人の絵の前で面食らうことになる。白髪一雄は、足で描いた画家である。 戦後の前衛美術グループ「具体」を牽引した白髪一雄。その全貌に迫る大規模な個展が、この1月に始まった。雑誌各誌も相次いで取り上げ、「足で描いた!?」「パワーみなぎる絵画」と、その迫力を伝えている。 白髪は兵庫県尼崎の生まれ。天井からロープを吊るし、それにつかまって体を支えながら、床に広げたキャンバスの上で絵の具を足で塗り広げた。身体ごと絵にぶつかっていくような、その荒々しい画面は、海外でも高く評価されている。 白髪が加わった「具体」、正式には具体美術協会は、昭和29年(1954)に画家の吉原治良が芦屋で結成したグループだ。「人のまねをするな」「これまでになかったものをつくれ」という吉原の教えのもと、若い作家たちが、泥の中を転げまわったり、紙の幕を突き破ったりと、前代未聞の作品を次々に生み出した。大阪湾に近い阪神間の町から、世界の美術史に名を残す運動が生まれたわけである。 うちら上方の者からすると、これはちょっと誇らしい話や。江戸でも京でもなく、阪神間の新しい町から、絵の描き方そのものをひっくり返す人々が出てきた。筆を捨てるというのは、書画を集めてきた者にとっては目を回すような所業やけど、考えてみれば、墨を撥ねかけて描いた昔の画人もおった。新しいものは、いつも古いものの破り方から始まる。 白髪はのちに比叡山で得度して、僧籍にも入っている。足で描く荒々しさと、仏道の静けさ。その両方を抱えた人の絵を、一度まとめて見てみたい。
筆を捨て、足で描いた男——「具体」の白髪一雄、全貌に迫る大規模個展
天井から吊るしたロープにつかまり、床に広げた画布の上を足で描く。戦後の前衛美術グループ「具体」を率いた一人、白髪一雄の全貌に迫る大規模な個展が始まった。
筆で描くのが当たり前、と思っているうちは、この人の絵の前で面食らうことになる。白髪一雄は、足で描いた画家である。 戦後の前衛美術グループ「具体」を牽引した白髪一雄。その全貌に迫る大規模な個展が、この1月に始まった。雑誌各誌も相次いで取り上げ、「足で描いた!?」「パワーみなぎる絵画」と、その迫力を伝えている。 白髪は兵庫県尼崎の生まれ。天井からロープを吊るし、それにつかまって体を支えながら、床に広げたキャンバスの上で絵の具を足で塗り広げた。身体ごと絵にぶつかっていくような、その荒々しい画面は、海外でも高く評価されている。 白髪が加わった「具体」、正式には具体美術協会は、昭和29年(1954)に画家の吉原治良が芦屋で結成したグループだ。「人のまねをするな」「これまでになかったものをつくれ」という吉原の教えのもと、若い作家たちが、泥の中を転げまわったり、紙の幕を突き破ったりと、前代未聞の作品を次々に生み出した。大阪湾に近い阪神間の町から、世界の美術史に名を残す運動が生まれたわけである。 うちら上方の者からすると、これはちょっと誇らしい話や。江戸でも京でもなく、阪神間の新しい町から、絵の描き方そのものをひっくり返す人々が出てきた。筆を捨てるというのは、書画を集めてきた者にとっては目を回すような所業やけど、考えてみれば、墨を撥ねかけて描いた昔の画人もおった。新しいものは、いつも古いものの破り方から始まる。 白髪はのちに比叡山で得度して、僧籍にも入っている。足で描く荒々しさと、仏道の静けさ。その両方を抱えた人の絵を、一度まとめて見てみたい。
聖人を描いた殺人者——カラヴァッジョ展と、半世紀行方知れずの一枚
「聖と俗の狭間に生きた、西洋美術史最大の革命家」カラヴァッジョの展覧会に、鑑賞レポートや芸人の観覧記が相次いだ。同じ頃、盗まれたカラヴァッジョの名画を題材にしたイタリア映画も日本にやってくる。
聖人を描かせたら当代一。けれど本人は、喧嘩に明け暮れ、ついには人を殺めて逃げ回った。カラヴァッジョほど、作品と生き方のあいだに深い溝を抱えた画家もそういない。 そのカラヴァッジョの展覧会が、年明けに話題を集めている。鑑賞レポートは彼を「聖と俗の狭間に生きた、西洋美術史最大の革命家」と呼び、その人生をたどる展示の見どころを伝えていた。お笑いコンビ「見取り図」のリリーさんが展覧会を観て回る連載まで出たのだから、なかなかの人気ぶりである。 カラヴァッジョは十六世紀の終わりから十七世紀のはじめにかけて、ローマで活躍した画家だ。暗闇の中に人物を強い光で浮かび上がらせる明暗の描き方で、聖書の場面を、まるで目の前で起きている出来事のように描いた。聖人を、ローマの路地にいそうな汚れた足の庶民の姿で描いたことで、ときに注文主から受け取りを拒まれたこともあったという。 そして1606年、決闘の末に人を殺め、ローマを追われる。以後はナポリ、マルタ、シチリアと逃亡を重ねながら描き続け、三十代の終わりに旅の途中で死んだ。これを知ってから絵を見ると、光の当たる聖人の背後に広がる闇が、どうしても画家自身の心の闇に見えてくる。もっとも、それは後世の見る側の勝手な物語かもしれぬ。絵に画家の人生を読み込みすぎるのは、考証の立場からは少し用心したいところだ。 一方、1月にはイタリア映画『盗まれたカラヴァッジョ』の予告映像も公開された。シチリアのパレルモで、カラヴァッジョの祭壇画が盗まれたまま半世紀以上見つかっていない、という実際の事件を題材にしたものだ。描いた本人は逃亡者、描かれた絵はいまも行方知れず。怪談を書いてきた身としても、これほど出来すぎた話はない。 展示室では、画家の伝説より、画面の光と影そのものをじっくり確かめたい。
聖人を描いた殺人者——カラヴァッジョ展と、半世紀行方知れずの一枚
「聖と俗の狭間に生きた、西洋美術史最大の革命家」カラヴァッジョの展覧会に、鑑賞レポートや芸人の観覧記が相次いだ。同じ頃、盗まれたカラヴァッジョの名画を題材にしたイタリア映画も日本にやってくる。
聖人を描かせたら当代一。けれど本人は、喧嘩に明け暮れ、ついには人を殺めて逃げ回った。カラヴァッジョほど、作品と生き方のあいだに深い溝を抱えた画家もそういない。 そのカラヴァッジョの展覧会が、年明けに話題を集めている。鑑賞レポートは彼を「聖と俗の狭間に生きた、西洋美術史最大の革命家」と呼び、その人生をたどる展示の見どころを伝えていた。お笑いコンビ「見取り図」のリリーさんが展覧会を観て回る連載まで出たのだから、なかなかの人気ぶりである。 カラヴァッジョは十六世紀の終わりから十七世紀のはじめにかけて、ローマで活躍した画家だ。暗闇の中に人物を強い光で浮かび上がらせる明暗の描き方で、聖書の場面を、まるで目の前で起きている出来事のように描いた。聖人を、ローマの路地にいそうな汚れた足の庶民の姿で描いたことで、ときに注文主から受け取りを拒まれたこともあったという。 そして1606年、決闘の末に人を殺め、ローマを追われる。以後はナポリ、マルタ、シチリアと逃亡を重ねながら描き続け、三十代の終わりに旅の途中で死んだ。これを知ってから絵を見ると、光の当たる聖人の背後に広がる闇が、どうしても画家自身の心の闇に見えてくる。もっとも、それは後世の見る側の勝手な物語かもしれぬ。絵に画家の人生を読み込みすぎるのは、考証の立場からは少し用心したいところだ。 一方、1月にはイタリア映画『盗まれたカラヴァッジョ』の予告映像も公開された。シチリアのパレルモで、カラヴァッジョの祭壇画が盗まれたまま半世紀以上見つかっていない、という実際の事件を題材にしたものだ。描いた本人は逃亡者、描かれた絵はいまも行方知れず。怪談を書いてきた身としても、これほど出来すぎた話はない。 展示室では、画家の伝説より、画面の光と影そのものをじっくり確かめたい。
いざ鎌倉 母上ついに 旅立ちぬ 紀行文より 訴状が長し
─ 相続でもめた長男 ─
いざ鎌倉 母上ついに 旅立ちぬ 紀行文より 訴状が長し
─ 相続でもめた長男 ─
新年あけましておめでとうございます。2020年1月号をお届けします。今月は、芭蕉翁に阿仏尼の『十六夜日記』を、秋成はんにカラヴァッジョを、うちは「具体」の白髪一雄を受け持ちました。息子のために鎌倉へ下った母、人を殺めて逃げた画家、足で描いた前衛。どれも型にはまらん人ばかりで、正月早々なかなか賑やかな号になりました。かわら版には、風狂の一休さん、柿衞文庫の芭蕉翁の直筆、ルター破門500年まで並べています。芭蕉翁が自分の直筆の展示を聞いて妙にそわそわしておられたのは、ここだけの話にしておきます。本年もどうぞよろしゅうに。
新年あけましておめでとうございます。2020年1月号をお届けします。今月は、芭蕉翁に阿仏尼の『十六夜日記』を、秋成はんにカラヴァッジョを、うちは「具体」の白髪一雄を受け持ちました。息子のために鎌倉へ下った母、人を殺めて逃げた画家、足で描いた前衛。どれも型にはまらん人ばかりで、正月早々なかなか賑やかな号になりました。かわら版には、風狂の一休さん、柿衞文庫の芭蕉翁の直筆、ルター破門500年まで並べています。芭蕉翁が自分の直筆の展示を聞いて妙にそわそわしておられたのは、ここだけの話にしておきます。本年もどうぞよろしゅうに。