歌集を手に、集えぬ春――うたごえ運動の70年と京都の今
戦後まもなく始まり、職場のサークルや街の歌声喫茶へ広がった「うたごえ運動」。人が集まって歌うことで続いてきたその歩みを振り返りつつ、集まれない春を迎えた京都のうたごえの今を追う。
歌集を片手に、見ず知らずの人と肩を並べて声を張り上げる。そんな光景が、この春はすっかり街から消えてしまった。大勢で集まって歌うこと自体が、いまいちばん避けるべきものになってしまったわけで、うたごえの人たちにとってはなかなか堪える季節やと思う。 そもそも「うたごえ運動」とは何か。出発点とされるのは1948年、声楽家の関鑑子が東京で結成した中央合唱団。敗戦からまだ3年、みんなで歌える歌を職場や学校や町内に、という呼びかけが各地のサークル合唱に広がっていった。1953年には最初の「日本のうたごえ」祭典が開かれ、ロシア民謡に労働歌、そして1954年のビキニ事件をきっかけに生まれた「原爆を許すまじ」などが、この輪の中で歌い継がれていく。戦後の若者にとって合唱は娯楽であり、仲間づくりであり、ささやかな意思表示でもあったらしいんですよ、これが。 同じころ、東京・新宿あたりには、客が歌集を手にみんなで歌う「歌声喫茶」が現れ、1950〜60年代にかけて大流行する。喫茶店の一角が即席の合唱団になる。見知らぬ者同士が同じ歌で繋がるという点では、諸国の文人が気ままに出入りした昔の書斎サロンと、根っこは似ている気がしてならない。 その流れは京都でも途切れず続いていて、京都ひまわり合唱団の指揮者・山本忠生さん、通称「忠やん」は、昨年、各地で出会った人と歌をつづったエッセイ『忠やんの うたごえ旅日記』を出している。旅の数だけ歌がある、という一冊だ。 ところが今年は新型コロナウイルスの流行で、そうした集まりが軒並み止まった。京都音楽センターは公演の延期・中止が続いて経営が厳しくなり、5月に支援を呼びかけた。支援者には歌集やCD・DVDを贈るそうで、歌集と聞くと収集癖のうずく身としては、これは是非とも手元に置いておきたい。 70年あまり、人が集まって声を合わせることで続いてきた運動が、はじめて「集まれない」壁にぶつかっている。けれど歌は紙の歌集にも、人の記憶にも残る。次にみんなで歌える日まで、まずは一冊、手元で口ずさむところから始めるのも悪くない。
歌集を手に、集えぬ春――うたごえ運動の70年と京都の今
戦後まもなく始まり、職場のサークルや街の歌声喫茶へ広がった「うたごえ運動」。人が集まって歌うことで続いてきたその歩みを振り返りつつ、集まれない春を迎えた京都のうたごえの今を追う。
歌集を片手に、見ず知らずの人と肩を並べて声を張り上げる。そんな光景が、この春はすっかり街から消えてしまった。大勢で集まって歌うこと自体が、いまいちばん避けるべきものになってしまったわけで、うたごえの人たちにとってはなかなか堪える季節やと思う。 そもそも「うたごえ運動」とは何か。出発点とされるのは1948年、声楽家の関鑑子が東京で結成した中央合唱団。敗戦からまだ3年、みんなで歌える歌を職場や学校や町内に、という呼びかけが各地のサークル合唱に広がっていった。1953年には最初の「日本のうたごえ」祭典が開かれ、ロシア民謡に労働歌、そして1954年のビキニ事件をきっかけに生まれた「原爆を許すまじ」などが、この輪の中で歌い継がれていく。戦後の若者にとって合唱は娯楽であり、仲間づくりであり、ささやかな意思表示でもあったらしいんですよ、これが。 同じころ、東京・新宿あたりには、客が歌集を手にみんなで歌う「歌声喫茶」が現れ、1950〜60年代にかけて大流行する。喫茶店の一角が即席の合唱団になる。見知らぬ者同士が同じ歌で繋がるという点では、諸国の文人が気ままに出入りした昔の書斎サロンと、根っこは似ている気がしてならない。 その流れは京都でも途切れず続いていて、京都ひまわり合唱団の指揮者・山本忠生さん、通称「忠やん」は、昨年、各地で出会った人と歌をつづったエッセイ『忠やんの うたごえ旅日記』を出している。旅の数だけ歌がある、という一冊だ。 ところが今年は新型コロナウイルスの流行で、そうした集まりが軒並み止まった。京都音楽センターは公演の延期・中止が続いて経営が厳しくなり、5月に支援を呼びかけた。支援者には歌集やCD・DVDを贈るそうで、歌集と聞くと収集癖のうずく身としては、これは是非とも手元に置いておきたい。 70年あまり、人が集まって声を合わせることで続いてきた運動が、はじめて「集まれない」壁にぶつかっている。けれど歌は紙の歌集にも、人の記憶にも残る。次にみんなで歌える日まで、まずは一冊、手元で口ずさむところから始めるのも悪くない。
秀吉が最晩年に築いた「京都新城」、仙洞御所の地下から初めて石垣と堀。幻の城の姿はどこまで分かるか
京都市埋蔵文化財研究所は、京都仙洞御所の中で、豊臣秀吉が最晩年に築いたとされる「京都新城」の本丸を囲う石垣と堀が見つかったと発表した。この城の遺構が見つかったのは初めてだという。
秀吉の城といえば、大坂城、聚楽第、伏見城。その陰に隠れて、ほとんど名を知られてこなかった城がある。時事通信によれば、京都市埋蔵文化財研究所は12日、京都市上京区の京都仙洞御所の中で、豊臣秀吉が最晩年に築いたとされる「京都新城」の本丸を囲う石垣と堀が見つかったと発表した。同研究所によると、この城の遺構が見つかったのは今回が初めてである。 FNNによれば、京都市は昨年11月から御所の敷地の中で発掘調査を進めていた。秀吉が生涯の最後に築いた城の石垣の一部が、四百年あまりを経て、ようやく地上に姿を見せたわけである。nippon.comは、発掘の様子を動画でも伝えている。 京都新城は、秀吉が亡くなる前の年ごろに築かれ、秀吉の死後は北政所(ねね)が暮らしたとも伝わる。ただし、城の規模や姿については、これまで文献にわずかに記されるだけで、はっきりしたことは分かっていなかった。「幻の城」と呼ばれてきたのはそのためだ。 さて、ここで一つ釘を刺しておきたい。石垣と堀が一か所見つかったからといって、城の全体の姿が分かったわけではない。どこまでが本丸で、どれほどの規模の城だったのか。聚楽第や伏見城とどう使い分けたのか。その答えは、これからの調査と、文献との突き合わせを待たねばならぬ。 それでも、「幻」が一つ「確か」に変わったことは大きい。晩年の秀吉が、なぜ京の真ん中にもう一つ城を築こうとしたのか。石垣の一段一段が、その問いを投げかけている。
秀吉が最晩年に築いた「京都新城」、仙洞御所の地下から初めて石垣と堀。幻の城の姿はどこまで分かるか
京都市埋蔵文化財研究所は、京都仙洞御所の中で、豊臣秀吉が最晩年に築いたとされる「京都新城」の本丸を囲う石垣と堀が見つかったと発表した。この城の遺構が見つかったのは初めてだという。
秀吉の城といえば、大坂城、聚楽第、伏見城。その陰に隠れて、ほとんど名を知られてこなかった城がある。時事通信によれば、京都市埋蔵文化財研究所は12日、京都市上京区の京都仙洞御所の中で、豊臣秀吉が最晩年に築いたとされる「京都新城」の本丸を囲う石垣と堀が見つかったと発表した。同研究所によると、この城の遺構が見つかったのは今回が初めてである。 FNNによれば、京都市は昨年11月から御所の敷地の中で発掘調査を進めていた。秀吉が生涯の最後に築いた城の石垣の一部が、四百年あまりを経て、ようやく地上に姿を見せたわけである。nippon.comは、発掘の様子を動画でも伝えている。 京都新城は、秀吉が亡くなる前の年ごろに築かれ、秀吉の死後は北政所(ねね)が暮らしたとも伝わる。ただし、城の規模や姿については、これまで文献にわずかに記されるだけで、はっきりしたことは分かっていなかった。「幻の城」と呼ばれてきたのはそのためだ。 さて、ここで一つ釘を刺しておきたい。石垣と堀が一か所見つかったからといって、城の全体の姿が分かったわけではない。どこまでが本丸で、どれほどの規模の城だったのか。聚楽第や伏見城とどう使い分けたのか。その答えは、これからの調査と、文献との突き合わせを待たねばならぬ。 それでも、「幻」が一つ「確か」に変わったことは大きい。晩年の秀吉が、なぜ京の真ん中にもう一つ城を築こうとしたのか。石垣の一段一段が、その問いを投げかけている。
首里城の焼失から半年。見学を延ばした正殿の遺構は写真で公開、材木選びも始まり、再建支援の歌とダンスは100万回
昨年10月31日の火災で正殿など主要な建物を失った首里城は、焼失から半年を迎えた。予定していた遺構の見学はコロナで延びたが、写真の公開や、再建に向けた材木選びの話し合いが進んでいる。
首里城が燃え落ちた夜から、半年がたった。琉球新報によれば、2019年10月31日の火災で正殿など主要な建物が全焼してから、4月30日で半年を迎えた。この半年で県の内外から再建を支える輪が広がり、復興に向けた動きが進んだという。城郭内の建物の復元は国が主導して進めている。 焼け跡を見せる準備も整いつつあった。京都新聞によれば、首里城公園は「見せる復興」を進める方針で、4月下旬からプレハブの建物の窓越しに正殿の地下遺構を見学してもらう予定だった。だが、新型コロナの感染が広がり、見学は延期に。読売新聞によれば、国などは代わりに、正殿の跡などの写真を首里城公園のフェイスブックで公開した。世界遺産に登録されているのは、この正殿の地下遺構である。 再建の準備も続く。FNNによれば、国の技術検討委員会が開かれ、正殿の設計に向けて、木材など資材の価格調査を進めることが確認された。琉球新報は、正殿の材木をヒノキなど5種の中から、今秋に決めると伝えている。 応援の声は、思わぬ形でも広がった。朝日新聞によれば、沖縄出身の5人組グループChuningCandyが3月からYouTubeで公開している「ダイナミック琉球」のダンス動画が、100万回を超えて再生されている。 焼け跡はまだ遠い。それでも、画面越しに見る石積みの遺構からは、何百年も城を支えてきた土台の確かさが伝わってくる。いつか旅が許される日が来たら、首里の坂を上って、再建の槌音を聞きに行きたいと思う。
首里城の焼失から半年。見学を延ばした正殿の遺構は写真で公開、材木選びも始まり、再建支援の歌とダンスは100万回
昨年10月31日の火災で正殿など主要な建物を失った首里城は、焼失から半年を迎えた。予定していた遺構の見学はコロナで延びたが、写真の公開や、再建に向けた材木選びの話し合いが進んでいる。
首里城が燃え落ちた夜から、半年がたった。琉球新報によれば、2019年10月31日の火災で正殿など主要な建物が全焼してから、4月30日で半年を迎えた。この半年で県の内外から再建を支える輪が広がり、復興に向けた動きが進んだという。城郭内の建物の復元は国が主導して進めている。 焼け跡を見せる準備も整いつつあった。京都新聞によれば、首里城公園は「見せる復興」を進める方針で、4月下旬からプレハブの建物の窓越しに正殿の地下遺構を見学してもらう予定だった。だが、新型コロナの感染が広がり、見学は延期に。読売新聞によれば、国などは代わりに、正殿の跡などの写真を首里城公園のフェイスブックで公開した。世界遺産に登録されているのは、この正殿の地下遺構である。 再建の準備も続く。FNNによれば、国の技術検討委員会が開かれ、正殿の設計に向けて、木材など資材の価格調査を進めることが確認された。琉球新報は、正殿の材木をヒノキなど5種の中から、今秋に決めると伝えている。 応援の声は、思わぬ形でも広がった。朝日新聞によれば、沖縄出身の5人組グループChuningCandyが3月からYouTubeで公開している「ダイナミック琉球」のダンス動画が、100万回を超えて再生されている。 焼け跡はまだ遠い。それでも、画面越しに見る石積みの遺構からは、何百年も城を支えてきた土台の確かさが伝わってくる。いつか旅が許される日が来たら、首里の坂を上って、再建の槌音を聞きに行きたいと思う。
魔よけの願いを込めたアイヌ文様のマスクに注文殺到。自粛の中、民族衣装への「変身リレー」動画も
北海道登別市の刺しゅうサークルが作るアイヌ文様のマスクが、記者会見で着用されたのをきっかけに注文が殺到し、予約受け付けを休止した。アイヌ民族の有志は、民族衣装に「変身」する動画をネットで配信している。
マスク一枚にも、込められる願いがある。東京新聞によれば、北海道登別市の刺しゅうサークル「登別アシリの会」が作る、アイヌ民族の文様を施したマスクが人気を集めている。アイヌの文様には魔よけの意味があるという。朝日新聞によれば、政府のアイヌ政策を担当する菅義偉官房長官が7日の記者会見で、このマスクを着けて臨んだ。 反響は大きかった。苫小牧民報によれば、会見のあと同会には注文が殺到し、製作が追いつかなくなったため、予約の受け付けを休止した。東京新聞は、代表の芳賀美津枝さんが、これをきっかけにアイヌのことに目を向けてほしいという思いを語ったと伝えている。 アイヌの衣服の袖口や襟元、裾には、渦巻きや棘のような文様が刺しゅうされる。衣服の開いたところから悪いものが入らぬように、という魔よけの意味があると言われる。はやり病から身を守る布に、この文様をあしらうのは、理にかなった工夫ではないか。 外出の自粛が続くなか、画面越しに文化を伝える試みもある。47NEWSによれば、アイヌ民族の有志が、普段着から民族衣装に「変身」する動画を作り、インターネットで配信している。別々の場所にいる出演者を、一本のメークブラシでつなぐリレー形式の動画で、世界の先住民族の間でも同じような配信が相次いでいるという。 今年は、白老町に民族共生象徴空間「ウポポイ」が開業する予定の年でもある。苫小牧民報の連載で、萱野茂二風谷アイヌ資料館の萱野志朗館長は、観光だけで突っ走らず、文化や言語の伝承につながる研究機関の役割を果たしてほしいと語っている。わたしも北方の珍品をいくつか手元に置いてきたが、物を集めるだけでは文化は残らん。作る手と、語る言葉があってこそである。
魔よけの願いを込めたアイヌ文様のマスクに注文殺到。自粛の中、民族衣装への「変身リレー」動画も
北海道登別市の刺しゅうサークルが作るアイヌ文様のマスクが、記者会見で着用されたのをきっかけに注文が殺到し、予約受け付けを休止した。アイヌ民族の有志は、民族衣装に「変身」する動画をネットで配信している。
マスク一枚にも、込められる願いがある。東京新聞によれば、北海道登別市の刺しゅうサークル「登別アシリの会」が作る、アイヌ民族の文様を施したマスクが人気を集めている。アイヌの文様には魔よけの意味があるという。朝日新聞によれば、政府のアイヌ政策を担当する菅義偉官房長官が7日の記者会見で、このマスクを着けて臨んだ。 反響は大きかった。苫小牧民報によれば、会見のあと同会には注文が殺到し、製作が追いつかなくなったため、予約の受け付けを休止した。東京新聞は、代表の芳賀美津枝さんが、これをきっかけにアイヌのことに目を向けてほしいという思いを語ったと伝えている。 アイヌの衣服の袖口や襟元、裾には、渦巻きや棘のような文様が刺しゅうされる。衣服の開いたところから悪いものが入らぬように、という魔よけの意味があると言われる。はやり病から身を守る布に、この文様をあしらうのは、理にかなった工夫ではないか。 外出の自粛が続くなか、画面越しに文化を伝える試みもある。47NEWSによれば、アイヌ民族の有志が、普段着から民族衣装に「変身」する動画を作り、インターネットで配信している。別々の場所にいる出演者を、一本のメークブラシでつなぐリレー形式の動画で、世界の先住民族の間でも同じような配信が相次いでいるという。 今年は、白老町に民族共生象徴空間「ウポポイ」が開業する予定の年でもある。苫小牧民報の連載で、萱野茂二風谷アイヌ資料館の萱野志朗館長は、観光だけで突っ走らず、文化や言語の伝承につながる研究機関の役割を果たしてほしいと語っている。わたしも北方の珍品をいくつか手元に置いてきたが、物を集めるだけでは文化は残らん。作る手と、語る言葉があってこそである。
「大仏を建立しよう」がネットの合言葉に。東大寺はリモート参拝で大にぎわい、彦根大仏には特大わらじげた
災いが社会を覆うとき、人は大仏を造ってきた。コロナの流行で「大仏を建立しよう」がネットの合言葉になる一方、東大寺は大仏殿の生放送で「リモート参拝」の筆頭に。彦根の大仏には大きな履物が寄贈された。
まあ聞いてほしい。いまネットでは、「大仏を建立しよう」という言葉が冗談半分に飛び交っとる。withnewsによれば、災害や疫病が起きて社会を不安が覆ったとき、人は大仏を造ってきた。その大きさが、人々の恐れを吹き飛ばす力になってきたのだという。聖武天皇が奈良の大仏を造らせたのも、疫病や災害が続いた天平の世のことやった。 ただし、大仏は造るのはええが、守るのが大変や。同じ記事は、好景気の時代に造られた巨大な仏像が、台風で腹に大穴を開けられ、廃墟になってしもうた数奇な運命も紹介している。勢いで建てたもんは、勢いが去ったら誰も面倒を見ん。商売の店と同じやな。 本家の東大寺は、さすがに商売上手である。楽天Womanに載ったNEWSポストセブンの記事によれば、この大型連休は各地の神社仏閣が拝観を止めたなかで、「リモート参拝」が活況だった。その筆頭が東大寺で、大仏殿の様子を生放送したという。MSNに載った記事によれば、東大寺では大仏の建立に力を尽くした聖武天皇をしのぶ「聖武天皇祭」も営まれた。 滋賀の彦根には、ちょっと微笑ましい話もある。中日新聞によれば、彦根藩主井伊家ゆかりの済福寺にある「彦根大仏」に、大仏に見合う大きなわらじげたが寄贈された。台座から光背まで高さ6メートルほどの、日本最大級の木造の地蔵菩薩だという。 千三百年前は国じゅうの銅を集めて大仏を鋳た。今は家から画面越しに拝む。わしに言わせれば、参る人の数が同じなら、賽銭の集め方を工夫した者が勝ちや。仏さんも、きっと笑うてはるやろ。
「大仏を建立しよう」がネットの合言葉に。東大寺はリモート参拝で大にぎわい、彦根大仏には特大わらじげた
災いが社会を覆うとき、人は大仏を造ってきた。コロナの流行で「大仏を建立しよう」がネットの合言葉になる一方、東大寺は大仏殿の生放送で「リモート参拝」の筆頭に。彦根の大仏には大きな履物が寄贈された。
まあ聞いてほしい。いまネットでは、「大仏を建立しよう」という言葉が冗談半分に飛び交っとる。withnewsによれば、災害や疫病が起きて社会を不安が覆ったとき、人は大仏を造ってきた。その大きさが、人々の恐れを吹き飛ばす力になってきたのだという。聖武天皇が奈良の大仏を造らせたのも、疫病や災害が続いた天平の世のことやった。 ただし、大仏は造るのはええが、守るのが大変や。同じ記事は、好景気の時代に造られた巨大な仏像が、台風で腹に大穴を開けられ、廃墟になってしもうた数奇な運命も紹介している。勢いで建てたもんは、勢いが去ったら誰も面倒を見ん。商売の店と同じやな。 本家の東大寺は、さすがに商売上手である。楽天Womanに載ったNEWSポストセブンの記事によれば、この大型連休は各地の神社仏閣が拝観を止めたなかで、「リモート参拝」が活況だった。その筆頭が東大寺で、大仏殿の様子を生放送したという。MSNに載った記事によれば、東大寺では大仏の建立に力を尽くした聖武天皇をしのぶ「聖武天皇祭」も営まれた。 滋賀の彦根には、ちょっと微笑ましい話もある。中日新聞によれば、彦根藩主井伊家ゆかりの済福寺にある「彦根大仏」に、大仏に見合う大きなわらじげたが寄贈された。台座から光背まで高さ6メートルほどの、日本最大級の木造の地蔵菩薩だという。 千三百年前は国じゅうの銅を集めて大仏を鋳た。今は家から画面越しに拝む。わしに言わせれば、参る人の数が同じなら、賽銭の集め方を工夫した者が勝ちや。仏さんも、きっと笑うてはるやろ。
井上日召
昭和恐慌で疲れ切った農村を背に「一人一殺」を唱え、血盟団事件を率いた日蓮宗の行者

茨城の大洗、朱塗りのお堂を背に、数珠を提げた羽織袴の銅像が立っとる。穏やかな顔つきやけど、この人こそ昭和の初めに「一人一殺」を唱えた井上日召(1886〜1967)。かわら版で小山俊樹さんの『五・一五事件』が出たついでに、あの事件の少し手前にいた人物を紹介しときます。 群馬の生まれで、大陸を渡り歩いたのち日蓮宗の信仰に入り、大洗を拠点に地元の青年たちを集めた。時は昭和恐慌のさなか。米や繭の値が崩れて農村は困窮し、東北の凶作では娘の身売りまで取り沙汰された。一方の都会では、財閥がドル買いで儲けたと叩かれる。この村と都会の落差を、日召は政党と財閥の罪と見た。1932年、門下の小沼正が金解禁を進めた前蔵相・井上準之助を、菱沼五郎が三井の団琢磨を相次いで射殺する。血盟団事件や。2か月後の五・一五事件では、橘孝三郎の愛郷塾の青年たちが「農民決死隊」として変電所を襲っとる。 判決は無期懲役、1940年に仮釈放。自伝『一人一殺』は史料として手元に置きたい一冊やけど、貧しい村への同情が標的名簿に化けていく筋道には、ほんまに考え込んでしまいます。
井上日召
昭和恐慌で疲れ切った農村を背に「一人一殺」を唱え、血盟団事件を率いた日蓮宗の行者

茨城の大洗、朱塗りのお堂を背に、数珠を提げた羽織袴の銅像が立っとる。穏やかな顔つきやけど、この人こそ昭和の初めに「一人一殺」を唱えた井上日召(1886〜1967)。かわら版で小山俊樹さんの『五・一五事件』が出たついでに、あの事件の少し手前にいた人物を紹介しときます。 群馬の生まれで、大陸を渡り歩いたのち日蓮宗の信仰に入り、大洗を拠点に地元の青年たちを集めた。時は昭和恐慌のさなか。米や繭の値が崩れて農村は困窮し、東北の凶作では娘の身売りまで取り沙汰された。一方の都会では、財閥がドル買いで儲けたと叩かれる。この村と都会の落差を、日召は政党と財閥の罪と見た。1932年、門下の小沼正が金解禁を進めた前蔵相・井上準之助を、菱沼五郎が三井の団琢磨を相次いで射殺する。血盟団事件や。2か月後の五・一五事件では、橘孝三郎の愛郷塾の青年たちが「農民決死隊」として変電所を襲っとる。 判決は無期懲役、1940年に仮釈放。自伝『一人一殺』は史料として手元に置きたい一冊やけど、貧しい村への同情が標的名簿に化けていく筋道には、ほんまに考え込んでしまいます。
幻と 呼ばれし城の 石垣が 御所の庭より ひょっこり顔出す
─ 仙洞御所の庭掃除 ─
幻と 呼ばれし城の 石垣が 御所の庭より ひょっこり顔出す
─ 仙洞御所の庭掃除 ─
五月というのに、今年は人の集まるところがどこも静かなまま。うちの書斎だけは相変わらず資料の山で賑やかやけど、客人が訪ねて来られへんのはやっぱり寂しいもんです。 今月の特集は、集まって声を合わせることで続いてきたうたごえ運動。集えぬ春にこの題かいな、と思われるかもしれんが、集えぬ春やからこそ書き留めておきたかった次第。秋成はんは仙洞御所から出た秀吉の「京都新城」の石垣に、芭蕉翁は焼失から半年の首里城に向き合い、西鶴はんは画面越しに拝む大仏の勘定をはじいております。わたしはアイヌ文様の魔よけのマスクを担当しました。 かわら版には、築地の波除神社の為朝さんの神符や北斎の黒鍾馗。疫病除けに昔の英雄や神さんを頼る気持ちは、江戸の人もいまの人も変わらんらしい。小山俊樹さんの『五・一五事件』の新刊に合わせて、こんな人のコーナーでは井上日召を紹介しました。次に皆で歌える日を楽しみに。(木村蒹葭堂)
五月というのに、今年は人の集まるところがどこも静かなまま。うちの書斎だけは相変わらず資料の山で賑やかやけど、客人が訪ねて来られへんのはやっぱり寂しいもんです。 今月の特集は、集まって声を合わせることで続いてきたうたごえ運動。集えぬ春にこの題かいな、と思われるかもしれんが、集えぬ春やからこそ書き留めておきたかった次第。秋成はんは仙洞御所から出た秀吉の「京都新城」の石垣に、芭蕉翁は焼失から半年の首里城に向き合い、西鶴はんは画面越しに拝む大仏の勘定をはじいております。わたしはアイヌ文様の魔よけのマスクを担当しました。 かわら版には、築地の波除神社の為朝さんの神符や北斎の黒鍾馗。疫病除けに昔の英雄や神さんを頼る気持ちは、江戸の人もいまの人も変わらんらしい。小山俊樹さんの『五・一五事件』の新刊に合わせて、こんな人のコーナーでは井上日召を紹介しました。次に皆で歌える日を楽しみに。(木村蒹葭堂)