「大悪人」は本当に悪人だったのか——『鎌倉殿の13人』梶原景時役に中村獅童さん
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、中村獅童さんが梶原景時を演じることが決まった。源頼朝の側近として重んじられながら、義経を陥れた「大悪人」として語られてきた御家人筆頭。その評判を、少し疑ってかかってみる。
歴史の上で「悪人」と呼ばれる人物は、たいてい負けた側にいる。梶原景時もその一人だ。 2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、中村獅童さんが景時を演じることが発表された。獅童さんにとっては7度目の大河出演になるという。本人は「悲劇の“大悪人”」とされる景時を、脚本の三谷幸喜さんが「どのように描いてくださるか」と期待を寄せ、三谷作品は「毎回台本をいただくのが楽しみ」と語っていた。 景時は、源頼朝のもとで御家人の筆頭に立った武士である。もとは平家方にいたが、石橋山の戦いで敗れて洞窟に隠れた頼朝を、見つけながら見逃したという逸話が知られている。以後は頼朝の信任を得て侍所の要職を務めた。ところが、源平の合戦の最中に源義経と衝突し、頼朝に義経のことを悪しざまに告げたとされる。義経の悲劇が語り継がれるほど、景時は「讒言で英雄を追い落とした男」として憎まれることになった。 しかし、ここで立ち止まって考えたい。景時の悪評の多くは、のちの鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』や、義経を主人公にした物語から来ている。頼朝の死後、景時は御家人たちに弾劾されて鎌倉を追われ、一族とともに討たれた。つまり、景時について書き残したのは、景時を追い落とした側なのである。勝った者の記録が、負けた者を悪く書くのは世の常だ。 主君の意を忖度し、規律を重んじた有能な官僚だった、という見方もある。義経との衝突も、軍監として頼朝の命令を忠実に守ろうとした結果だったのかもしれない。「大悪人」という看板は、案外あとから打ち付けられたものではないだろうか。 三谷さんの脚本が、この人物にどんな光を当てるのか。十三人の合議制という題材からして、一筋縄ではいかない人間模様になりそうだ。悪人の評判ほど、疑ってかかると面白いものはない。
「大悪人」は本当に悪人だったのか——『鎌倉殿の13人』梶原景時役に中村獅童さん
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、中村獅童さんが梶原景時を演じることが決まった。源頼朝の側近として重んじられながら、義経を陥れた「大悪人」として語られてきた御家人筆頭。その評判を、少し疑ってかかってみる。
歴史の上で「悪人」と呼ばれる人物は、たいてい負けた側にいる。梶原景時もその一人だ。 2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、中村獅童さんが景時を演じることが発表された。獅童さんにとっては7度目の大河出演になるという。本人は「悲劇の“大悪人”」とされる景時を、脚本の三谷幸喜さんが「どのように描いてくださるか」と期待を寄せ、三谷作品は「毎回台本をいただくのが楽しみ」と語っていた。 景時は、源頼朝のもとで御家人の筆頭に立った武士である。もとは平家方にいたが、石橋山の戦いで敗れて洞窟に隠れた頼朝を、見つけながら見逃したという逸話が知られている。以後は頼朝の信任を得て侍所の要職を務めた。ところが、源平の合戦の最中に源義経と衝突し、頼朝に義経のことを悪しざまに告げたとされる。義経の悲劇が語り継がれるほど、景時は「讒言で英雄を追い落とした男」として憎まれることになった。 しかし、ここで立ち止まって考えたい。景時の悪評の多くは、のちの鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』や、義経を主人公にした物語から来ている。頼朝の死後、景時は御家人たちに弾劾されて鎌倉を追われ、一族とともに討たれた。つまり、景時について書き残したのは、景時を追い落とした側なのである。勝った者の記録が、負けた者を悪く書くのは世の常だ。 主君の意を忖度し、規律を重んじた有能な官僚だった、という見方もある。義経との衝突も、軍監として頼朝の命令を忠実に守ろうとした結果だったのかもしれない。「大悪人」という看板は、案外あとから打ち付けられたものではないだろうか。 三谷さんの脚本が、この人物にどんな光を当てるのか。十三人の合議制という題材からして、一筋縄ではいかない人間模様になりそうだ。悪人の評判ほど、疑ってかかると面白いものはない。
百年前にもマスクの季節があった——スペイン風邪の記録と、菊池寛の小説
新型コロナの流行が続く2020年の秋、百年前のスペイン風邪をふりかえる記事が相次いだ。鹿児島ではまず小学生がかかり、県都から地方へ広がったという。流行を題材にした菊池寛の小説集も電子書籍で出ている。
マスクをかけて町を歩き、人混みを避け、手を洗う。今年の暮らしは、どこか百年前の人々のそれと重なって見える。 南日本新聞は、100年前のスペイン風邪が鹿児島でどう広がったかをたどる記事を載せていた。それによれば、「魔の手」はまず小学生を襲い、堰を切ったように県都の鹿児島市から地方へと広がっていったという。子どもの集まる場所から流行が始まり、町から村へと移っていく。その筋道は、今の私たちにも覚えのあるものだ。 スペイン風邪は、大正7年(1918)から数年にわたって世界中で猛威をふるった流行性感冒である。日本でも数十万人が命を落としたとされる。医学がまだウイルスの正体をつかめていなかった時代、人々はマスクをかけ、うがいをし、人の集まりを控えるほかに手だてがなかった。 この流行を、小説に書き残した作家がいる。菊池寛だ。文藝春秋から電子書籍で出た『マスク スペイン風邪をめぐる小説集』は、その題のとおり、流行病におびえながら暮らす人々の姿を描いた作品を集めたものだという。病を恐れてマスクを手放せない主人公の心の揺れは、百年後の読者にも、他人事とは思えないだろう。 うちは医者ではないが、本草や薬の本は人一倍集めてきた。昔の流行り病の記録を読むと、人は同じところで怯え、同じところで油断していることに気づかされる。記録を残した人々は、きっと百年後の誰かの役に立てばと願って筆をとったのだろう。 百年前のマスクと、今年のマスク。記録を読むことは、昔の人と肩を並べて、同じ病に向き合うことでもある。長い冬に備えて、一冊手に取ってみてはいかがだろう。
百年前にもマスクの季節があった——スペイン風邪の記録と、菊池寛の小説
新型コロナの流行が続く2020年の秋、百年前のスペイン風邪をふりかえる記事が相次いだ。鹿児島ではまず小学生がかかり、県都から地方へ広がったという。流行を題材にした菊池寛の小説集も電子書籍で出ている。
マスクをかけて町を歩き、人混みを避け、手を洗う。今年の暮らしは、どこか百年前の人々のそれと重なって見える。 南日本新聞は、100年前のスペイン風邪が鹿児島でどう広がったかをたどる記事を載せていた。それによれば、「魔の手」はまず小学生を襲い、堰を切ったように県都の鹿児島市から地方へと広がっていったという。子どもの集まる場所から流行が始まり、町から村へと移っていく。その筋道は、今の私たちにも覚えのあるものだ。 スペイン風邪は、大正7年(1918)から数年にわたって世界中で猛威をふるった流行性感冒である。日本でも数十万人が命を落としたとされる。医学がまだウイルスの正体をつかめていなかった時代、人々はマスクをかけ、うがいをし、人の集まりを控えるほかに手だてがなかった。 この流行を、小説に書き残した作家がいる。菊池寛だ。文藝春秋から電子書籍で出た『マスク スペイン風邪をめぐる小説集』は、その題のとおり、流行病におびえながら暮らす人々の姿を描いた作品を集めたものだという。病を恐れてマスクを手放せない主人公の心の揺れは、百年後の読者にも、他人事とは思えないだろう。 うちは医者ではないが、本草や薬の本は人一倍集めてきた。昔の流行り病の記録を読むと、人は同じところで怯え、同じところで油断していることに気づかされる。記録を残した人々は、きっと百年後の誰かの役に立てばと願って筆をとったのだろう。 百年前のマスクと、今年のマスク。記録を読むことは、昔の人と肩を並べて、同じ病に向き合うことでもある。長い冬に備えて、一冊手に取ってみてはいかがだろう。
鳥取・倉吉で弥生時代最大の鉄矛、岡山の造山古墳で初の埴輪列、奈良では藤原宮の大極殿を囲む回廊。晩秋の発掘だより
鳥取県倉吉市の中尾遺跡で、弥生時代中期の住居跡から国内最大の鉄矛が出土した。岡山の造山古墳では埴輪の列が初めて確認され、奈良の藤原宮跡では儀式の場だった大極殿を囲む回廊の跡が見つかった。
紅葉の季節、各地の発掘現場から便りが届いている。京都新聞によれば、鳥取県倉吉市教育委員会は2日、市内の中尾遺跡で、弥生時代中期(約2100年前)の竪穴住居跡から、長さ54.3センチと国内最大の鉄矛が出土したと発表した。板状の鉄斧や鋳造の鉄斧も一緒に見つかったという。 二千年あまり前、鉄はまだ貴重な品だった。それを大きな矛に仕立てて住まいに置いていたのは、どんな人だったのだろう。海の向こうとの行き来が盛んだった山陰の地の力を、一本の矛がうかがわせる。 岡山でも新しい発見があった。山陽新聞によれば、岡山市教委が発掘を進める全国第4位の前方後円墳・造山古墳で、埴輪の列が初めて確認された。3段に築かれた墳丘の1段目と2段目の平らな面から、円筒埴輪の底の部分が並んで出てきたという。わたしも旅の途中で古墳に登ったことがあるが、かつてはこの斜面に、埴輪がずらりと並んでいたのかと思うと、景色の見え方がまるで変わる。 都の跡からも。Yahoo!ニュースに載った記事によれば、奈良県橿原市の藤原宮跡で、国の儀式が行われた大極殿を囲む回廊の跡が出土し、現地見学会が開かれた。藤原京は694年から16年間、都だった。奈良文化財研究所は、大極殿の北東の区画で、約40メートルにわたって回廊の跡を確かめたという。京都府与謝野町では、Yahoo!ニュースに載った記事によれば、弥生時代の大風呂南1号墓から出たガラスの副葬品が、地元の資料館で特別に公開されている。 鉄の矛、埴輪の底、回廊の礎、そしてガラスの輝き。どれも千年、二千年の眠りから覚めたものばかりである。この秋は、どこかの現地説明会の人垣にまじってみたいものだ。
鳥取・倉吉で弥生時代最大の鉄矛、岡山の造山古墳で初の埴輪列、奈良では藤原宮の大極殿を囲む回廊。晩秋の発掘だより
鳥取県倉吉市の中尾遺跡で、弥生時代中期の住居跡から国内最大の鉄矛が出土した。岡山の造山古墳では埴輪の列が初めて確認され、奈良の藤原宮跡では儀式の場だった大極殿を囲む回廊の跡が見つかった。
紅葉の季節、各地の発掘現場から便りが届いている。京都新聞によれば、鳥取県倉吉市教育委員会は2日、市内の中尾遺跡で、弥生時代中期(約2100年前)の竪穴住居跡から、長さ54.3センチと国内最大の鉄矛が出土したと発表した。板状の鉄斧や鋳造の鉄斧も一緒に見つかったという。 二千年あまり前、鉄はまだ貴重な品だった。それを大きな矛に仕立てて住まいに置いていたのは、どんな人だったのだろう。海の向こうとの行き来が盛んだった山陰の地の力を、一本の矛がうかがわせる。 岡山でも新しい発見があった。山陽新聞によれば、岡山市教委が発掘を進める全国第4位の前方後円墳・造山古墳で、埴輪の列が初めて確認された。3段に築かれた墳丘の1段目と2段目の平らな面から、円筒埴輪の底の部分が並んで出てきたという。わたしも旅の途中で古墳に登ったことがあるが、かつてはこの斜面に、埴輪がずらりと並んでいたのかと思うと、景色の見え方がまるで変わる。 都の跡からも。Yahoo!ニュースに載った記事によれば、奈良県橿原市の藤原宮跡で、国の儀式が行われた大極殿を囲む回廊の跡が出土し、現地見学会が開かれた。藤原京は694年から16年間、都だった。奈良文化財研究所は、大極殿の北東の区画で、約40メートルにわたって回廊の跡を確かめたという。京都府与謝野町では、Yahoo!ニュースに載った記事によれば、弥生時代の大風呂南1号墓から出たガラスの副葬品が、地元の資料館で特別に公開されている。 鉄の矛、埴輪の底、回廊の礎、そしてガラスの輝き。どれも千年、二千年の眠りから覚めたものばかりである。この秋は、どこかの現地説明会の人垣にまじってみたいものだ。
光秀の妻・煕子の命日を記す古文書を西教寺が初公開。富山では「本能寺の変と富山」展、黒く塗られた光秀の座像まで
明智光秀の妻・煕子の命日を記した古文書が、ゆかりの西教寺(大津市)で初めて一般公開された。富山市郷土博物館では本能寺の変が富山に与えた影響をたどる企画展、京都には黒く塗られた光秀の座像も残る。
まあ聞いてほしい。大河の主役の陰には、支えた女房がおる。Yahoo!ニュースに載った記事によれば、滋賀県大津市の西教寺で、光秀の妻・煕子の命日を記した古文書が、命日にあたる7日から初めて一般に公開された。「西教律寺記」という、1740年に当時の住職が寺の歴史をまとめた記録で、光秀の妻が1576年11月7日に亡くなり、西教寺で葬儀をしたと記されているという。 煕子といえば、貧しかった光秀のために自分の黒髪を売って連歌の会の費用をこしらえた、という話が名高い。芭蕉翁にも、この話を踏まえた句がある。ほんまのことかどうかは分からんが、そういう話が語り継がれるほど、夫婦仲のええ二人やったんやろ。もっとも、今回の記録も光秀の死から百五十年あまり後に書かれたもんや。そのあたりは秋成はんに釘を刺される前に、自分で言うとくわ。 本能寺の変は、遠く北陸にも波を立てた。アメーバニュースに載った記事によれば、富山市郷土博物館では企画展「本能寺の変と富山」が15日まで開かれている。変の当時、越中では柴田勝家らの軍勢が上杉方と戦っていた。信長の死が、北の戦の行方をどう変えたのかをたどる展示である。 光秀人気は、ちょっと変わった形でも表れとる。まいどなニュースによれば、明智光秀の黒く塗られた座像「くろみつ大雄尊」が紹介されている。朝日新聞によれば、大河『麒麟がくる』は朝倉義景を討つ回で視聴率11.9%。いよいよ物語は、信長と光秀の関係が大きく動く終盤に入る。 わしに言わせれば、光秀ほど死んでから稼いだ武将はおらん。謀反人と呼ばれて四百年、今年は寺も博物館も商店も光秀さまさまや。煕子はんも、あの世で「うちの人、ようやく報われたなあ」と笑うてはるかもしれんで。
光秀の妻・煕子の命日を記す古文書を西教寺が初公開。富山では「本能寺の変と富山」展、黒く塗られた光秀の座像まで
明智光秀の妻・煕子の命日を記した古文書が、ゆかりの西教寺(大津市)で初めて一般公開された。富山市郷土博物館では本能寺の変が富山に与えた影響をたどる企画展、京都には黒く塗られた光秀の座像も残る。
まあ聞いてほしい。大河の主役の陰には、支えた女房がおる。Yahoo!ニュースに載った記事によれば、滋賀県大津市の西教寺で、光秀の妻・煕子の命日を記した古文書が、命日にあたる7日から初めて一般に公開された。「西教律寺記」という、1740年に当時の住職が寺の歴史をまとめた記録で、光秀の妻が1576年11月7日に亡くなり、西教寺で葬儀をしたと記されているという。 煕子といえば、貧しかった光秀のために自分の黒髪を売って連歌の会の費用をこしらえた、という話が名高い。芭蕉翁にも、この話を踏まえた句がある。ほんまのことかどうかは分からんが、そういう話が語り継がれるほど、夫婦仲のええ二人やったんやろ。もっとも、今回の記録も光秀の死から百五十年あまり後に書かれたもんや。そのあたりは秋成はんに釘を刺される前に、自分で言うとくわ。 本能寺の変は、遠く北陸にも波を立てた。アメーバニュースに載った記事によれば、富山市郷土博物館では企画展「本能寺の変と富山」が15日まで開かれている。変の当時、越中では柴田勝家らの軍勢が上杉方と戦っていた。信長の死が、北の戦の行方をどう変えたのかをたどる展示である。 光秀人気は、ちょっと変わった形でも表れとる。まいどなニュースによれば、明智光秀の黒く塗られた座像「くろみつ大雄尊」が紹介されている。朝日新聞によれば、大河『麒麟がくる』は朝倉義景を討つ回で視聴率11.9%。いよいよ物語は、信長と光秀の関係が大きく動く終盤に入る。 わしに言わせれば、光秀ほど死んでから稼いだ武将はおらん。謀反人と呼ばれて四百年、今年は寺も博物館も商店も光秀さまさまや。煕子はんも、あの世で「うちの人、ようやく報われたなあ」と笑うてはるかもしれんで。
讒言の 鬼と憎んだ 景時も 書いた側から 見ればこうなる
─ 判官びいきの反省組 ─
讒言の 鬼と憎んだ 景時も 書いた側から 見ればこうなる
─ 判官びいきの反省組 ─
2020年11月号をお届けします。秋成はんには再来年の大河で注目を集める梶原景時を、うちは百年前のスペイン風邪と菊池寛の小説を受け持ちました。悪人とされた武士と、流行り病に怯えた人々。どちらも、残された記録をどう読むかが問われる話です。 芭蕉翁は倉吉の鉄矛や造山古墳の埴輪列など、晩秋の発掘だよりを集め、西鶴はんは光秀の妻・煕子の命日を記した古文書に、夫を支えた女房の話でしんみりしております。 かわら版には、『麒麟がくる』の正親町天皇、40年ぶりに里帰りした雪舟の天橋立図、怨霊から受験の神になった菅原道真まで並べました。マスク越しの秋ではありますが、栗林公園の紅葉のように、季節の色だけはいつもどおりに巡ってきます。どうぞお体を大切に。
2020年11月号をお届けします。秋成はんには再来年の大河で注目を集める梶原景時を、うちは百年前のスペイン風邪と菊池寛の小説を受け持ちました。悪人とされた武士と、流行り病に怯えた人々。どちらも、残された記録をどう読むかが問われる話です。 芭蕉翁は倉吉の鉄矛や造山古墳の埴輪列など、晩秋の発掘だよりを集め、西鶴はんは光秀の妻・煕子の命日を記した古文書に、夫を支えた女房の話でしんみりしております。 かわら版には、『麒麟がくる』の正親町天皇、40年ぶりに里帰りした雪舟の天橋立図、怨霊から受験の神になった菅原道真まで並べました。マスク越しの秋ではありますが、栗林公園の紅葉のように、季節の色だけはいつもどおりに巡ってきます。どうぞお体を大切に。