明智光秀は本能寺の現場にいなかった? 金沢の古文書に残る家臣の証言と、『麒麟がくる』最終回を前に
本能寺の変のとき、明智光秀は本能寺には行かず、襲撃は重臣たちが担ったとする家臣の証言が、金沢に残る古文書に記されていた。大河『麒麟がくる』が最終回に向かうなか、変の「現場」をめぐる新しい手がかりが話題になっている。
「敵は本能寺にあり」と叫んで、光秀自らが寺に攻め込んだ。そんな場面を、わたしたちは当たり前のように思い浮かべてきた。だが秋田魁新報(共同通信)によれば、金沢に残る古文書に、光秀は本能寺には行かなかったとする家臣の証言が記されていたという。 Japaaan(エキサイトニュース)によれば、証言したのは、光秀の重臣・斎藤利三の子・利宗である。利宗の語るところによれば、本能寺へは、斎藤利三と同じく光秀の重臣である明智秀満が、先発の2千余騎を率いて向かったという。実行したのは重臣たちで、光秀は現場にいなかった、というわけだ。 さて、ここは頭を冷やして読みたい。この証言は、変からだいぶ後になって、利宗が語ったことを誰かが書き留めたものである。当事者の身内の話だから信用できる、とも言えるし、身内だからこそ父の役割を大きく語った、とも読める。一つの証言で、光秀の居場所を決めてしまうのは早い。ほかの史料と突き合わせて、ようやく重みが量れるものだ。 光秀の姿は、後の世の人々の手で何重にも塗り重ねられてきた。Yahoo!ニュース(両丹日日新聞)によれば、光秀を祭る京都府福知山市の御霊神社には、頼山陽の漢詩「本能寺」を刻んだ石碑があり、「本物の敵は備中に」と詠んでいる。江戸の文人は、光秀の謀反を、備中で毛利と戦っていた秀吉との関わりで読んだわけだ。渡邊大門氏のコラムは、大河では語られなかった光秀の京都支配にも目を向けている。 大河の最終回は、本能寺の変をどう描くのか。どの説に立つにせよ、「そういう見方もある」と分かったうえで楽しむのが、大人の見方というものだろう。
明智光秀は本能寺の現場にいなかった? 金沢の古文書に残る家臣の証言と、『麒麟がくる』最終回を前に
本能寺の変のとき、明智光秀は本能寺には行かず、襲撃は重臣たちが担ったとする家臣の証言が、金沢に残る古文書に記されていた。大河『麒麟がくる』が最終回に向かうなか、変の「現場」をめぐる新しい手がかりが話題になっている。
「敵は本能寺にあり」と叫んで、光秀自らが寺に攻め込んだ。そんな場面を、わたしたちは当たり前のように思い浮かべてきた。だが秋田魁新報(共同通信)によれば、金沢に残る古文書に、光秀は本能寺には行かなかったとする家臣の証言が記されていたという。 Japaaan(エキサイトニュース)によれば、証言したのは、光秀の重臣・斎藤利三の子・利宗である。利宗の語るところによれば、本能寺へは、斎藤利三と同じく光秀の重臣である明智秀満が、先発の2千余騎を率いて向かったという。実行したのは重臣たちで、光秀は現場にいなかった、というわけだ。 さて、ここは頭を冷やして読みたい。この証言は、変からだいぶ後になって、利宗が語ったことを誰かが書き留めたものである。当事者の身内の話だから信用できる、とも言えるし、身内だからこそ父の役割を大きく語った、とも読める。一つの証言で、光秀の居場所を決めてしまうのは早い。ほかの史料と突き合わせて、ようやく重みが量れるものだ。 光秀の姿は、後の世の人々の手で何重にも塗り重ねられてきた。Yahoo!ニュース(両丹日日新聞)によれば、光秀を祭る京都府福知山市の御霊神社には、頼山陽の漢詩「本能寺」を刻んだ石碑があり、「本物の敵は備中に」と詠んでいる。江戸の文人は、光秀の謀反を、備中で毛利と戦っていた秀吉との関わりで読んだわけだ。渡邊大門氏のコラムは、大河では語られなかった光秀の京都支配にも目を向けている。 大河の最終回は、本能寺の変をどう描くのか。どの説に立つにせよ、「そういう見方もある」と分かったうえで楽しむのが、大人の見方というものだろう。
2月から大河『青天を衝け』、主人公は渋沢栄一。500もの企業を育てた「日本資本主義の父」に、各地が熱いまなざし
2021年の大河ドラマ『青天を衝け』の主人公は、新1万円札の顔にも選ばれた渋沢栄一だ。放送開始を前に、ゆかりの地では記念の御膳が登場し、渋沢の縁を掘り起こす動きが続いている。
今年の顔は、もう決まったようなもんや。山陰中央新報のコラムは、年明け早々に気が早いと笑われそうだが、と断りながら、今年の顔の有力候補に、500もの企業を育てた「近代日本経済の父」渋沢栄一(1840〜1931)を挙げている。2月から始まる大河ドラマ『青天を衝け』の主人公である。 ゆかりの地は早くも動き出した。上越タイムスによれば、新潟県上越市吉川区の「ゆったりの郷」は、『青天を衝け』にちなんだ御膳をメニューに加えた。渋沢の故郷・深谷の名産の深谷ネギや、郷土料理の煮ぼうとうが並ぶという。中国新聞によれば、岡山県井原市も渋沢との縁が深い。幕末、最後の将軍・徳川慶喜を出した一橋家の家臣として、渋沢は一橋家の所領だった井原で農兵の募集を成功させたのである。 産経新聞に載った告知によれば、渋沢の波乱に満ちた生涯を、最新の研究をもとにまとめた本も出る。農家の生まれで、尊王攘夷の志士を志し、一橋家に仕え、幕臣としてパリに渡り、明治には官僚から実業家へ。これほど筋書きの多い人生なら、大河の脚本家も腕が鳴るやろう。 わしに言わせれば、渋沢はんの偉いところは、儲けた銭を独り占めせんかったことや。会社を興しては人に任せ、学校や病院や福祉の事業にまで手を広げた。「論語と算盤」とはよう言うたもんで、商いは世の中のためにあってこそ長続きする。わしが浮世草子で描いた町人たちにも、聞かせてやりたい話や。 麒麟の光秀から、青天の渋沢へ。戦国から幕末・明治へと、大河の舞台も大きく動く。新しい年の興行が、どう当たるか楽しみや。
2月から大河『青天を衝け』、主人公は渋沢栄一。500もの企業を育てた「日本資本主義の父」に、各地が熱いまなざし
2021年の大河ドラマ『青天を衝け』の主人公は、新1万円札の顔にも選ばれた渋沢栄一だ。放送開始を前に、ゆかりの地では記念の御膳が登場し、渋沢の縁を掘り起こす動きが続いている。
今年の顔は、もう決まったようなもんや。山陰中央新報のコラムは、年明け早々に気が早いと笑われそうだが、と断りながら、今年の顔の有力候補に、500もの企業を育てた「近代日本経済の父」渋沢栄一(1840〜1931)を挙げている。2月から始まる大河ドラマ『青天を衝け』の主人公である。 ゆかりの地は早くも動き出した。上越タイムスによれば、新潟県上越市吉川区の「ゆったりの郷」は、『青天を衝け』にちなんだ御膳をメニューに加えた。渋沢の故郷・深谷の名産の深谷ネギや、郷土料理の煮ぼうとうが並ぶという。中国新聞によれば、岡山県井原市も渋沢との縁が深い。幕末、最後の将軍・徳川慶喜を出した一橋家の家臣として、渋沢は一橋家の所領だった井原で農兵の募集を成功させたのである。 産経新聞に載った告知によれば、渋沢の波乱に満ちた生涯を、最新の研究をもとにまとめた本も出る。農家の生まれで、尊王攘夷の志士を志し、一橋家に仕え、幕臣としてパリに渡り、明治には官僚から実業家へ。これほど筋書きの多い人生なら、大河の脚本家も腕が鳴るやろう。 わしに言わせれば、渋沢はんの偉いところは、儲けた銭を独り占めせんかったことや。会社を興しては人に任せ、学校や病院や福祉の事業にまで手を広げた。「論語と算盤」とはよう言うたもんで、商いは世の中のためにあってこそ長続きする。わしが浮世草子で描いた町人たちにも、聞かせてやりたい話や。 麒麟の光秀から、青天の渋沢へ。戦国から幕末・明治へと、大河の舞台も大きく動く。新しい年の興行が、どう当たるか楽しみや。
高知城の天守に27か所、松山城にも引っかき傷。守り継がれてきた城に心ない傷、小田原城は天守復興60年
年明け早々、四国の二つの城で文化財に傷がつけられているのが見つかった。高知城の天守では27か所、松山城でも名字のような文字が刻まれていた。一方、小田原城天守閣は復興から60年を迎え、市民が城を守ってきた歩みをたどる展示が開かれている。
新しい年の初めに、胸の痛む知らせが届いた。高知新聞によれば、高知県教育委員会は1月6日、国の重要文化財である高知城の天守などで、硬い物で引っかいたような傷が27か所見つかったと発表した。城を管理する県からの通報を受け、警察が現場を調べている。 同じころ、松山でも。毎日新聞によれば、松山市は1月5日、国の史跡・松山城で、天守など6つの建物に鋭い物でつけられたとみられる引っかき傷が複数見つかったと発表した。名字のようなものも刻まれていたという。市は被害届を出した。 高知城も松山城も、江戸時代から残る天守をもつ、数少ない城である。何百年もの間、火事や地震や戦をくぐり抜けて、人々の手で守られてきた。その柱や壁に、心ない傷をつけるとは。旅の身として、古い城の木肌に触れるときは、いつも畏れ多い気持ちになる。その気持ちを、どうか多くの人が分かち合ってほしい。 城を守ってきた人々の歩みを伝える展示もある。ORICONによれば、小田原城天守閣は復興から60周年を迎え、記念の特別展が開かれている。廃城となり、関東大震災で天守台が崩れた後、市民の力で天守がよみがえるまでの歩みを、残された資料でたどるという。 城は、建てた人のものであると同時に、守り継いできた人々のものでもある。傷をつけられた城にも、また守る人々の手が差し伸べられることを願いたい。
高知城の天守に27か所、松山城にも引っかき傷。守り継がれてきた城に心ない傷、小田原城は天守復興60年
年明け早々、四国の二つの城で文化財に傷がつけられているのが見つかった。高知城の天守では27か所、松山城でも名字のような文字が刻まれていた。一方、小田原城天守閣は復興から60年を迎え、市民が城を守ってきた歩みをたどる展示が開かれている。
新しい年の初めに、胸の痛む知らせが届いた。高知新聞によれば、高知県教育委員会は1月6日、国の重要文化財である高知城の天守などで、硬い物で引っかいたような傷が27か所見つかったと発表した。城を管理する県からの通報を受け、警察が現場を調べている。 同じころ、松山でも。毎日新聞によれば、松山市は1月5日、国の史跡・松山城で、天守など6つの建物に鋭い物でつけられたとみられる引っかき傷が複数見つかったと発表した。名字のようなものも刻まれていたという。市は被害届を出した。 高知城も松山城も、江戸時代から残る天守をもつ、数少ない城である。何百年もの間、火事や地震や戦をくぐり抜けて、人々の手で守られてきた。その柱や壁に、心ない傷をつけるとは。旅の身として、古い城の木肌に触れるときは、いつも畏れ多い気持ちになる。その気持ちを、どうか多くの人が分かち合ってほしい。 城を守ってきた人々の歩みを伝える展示もある。ORICONによれば、小田原城天守閣は復興から60周年を迎え、記念の特別展が開かれている。廃城となり、関東大震災で天守台が崩れた後、市民の力で天守がよみがえるまでの歩みを、残された資料でたどるという。 城は、建てた人のものであると同時に、守り継いできた人々のものでもある。傷をつけられた城にも、また守る人々の手が差し伸べられることを願いたい。
江戸の藩はどう人を裁き、何を記したか。盛岡藩の「罪と罰」展、大村藩の踏み絵の新史料、水戸の斉昭展
盛岡市で、盛岡藩の犯罪記録と町奉行の仕事を紹介する「罪と罰」展が開かれている。長崎県では、大村藩の役人が踏み絵について記した新しい史料29点が見つかった。水戸では藩主・徳川斉昭の展示も。江戸の藩の記録から、暮らしと政治の実像が見えてくる。
江戸の世の裁きは、今とはずいぶん物差しが違う。毎日新聞によれば、盛岡市のもりおか歴史文化館で、江戸時代に盛岡藩内で起きた事件について書かれた藩政資料を解説するテーマ展「罪と罰」が開かれている。見出しによれば、不倫は殺人よりも重い罪とされたという。武士が酒に酔って刀を振り回した事件の記録なども並ぶ。盛岡経済新聞によれば、町奉行の仕事にも光を当てた展示である。 キリシタン弾圧の実務を伝える史料も見つかった。ライブドアニュース(共同通信)によれば、江戸時代末期に大村藩(長崎県)で宗門政策を担った「宗門方」の役人が、踏み絵について記した書状など、当時のキリシタン弾圧の実態を示す古文書29点が見つかった。役人たちが、どのように踏み絵を運用していたのかが分かるという。 藩主の側の記録もある。水戸経済新聞によれば、茨城県立歴史館で、水戸藩第9代藩主・徳川斉昭を、斉昭が造った藩校の弘道館や庭園の偕楽園とともに紹介する企画展「徳川斉昭と弘道館・偕楽園」が開かれている。斉昭の直筆の書も展示されているそうだ。 わたしの暮らした大坂は、藩の城下町ではなく、町人の町だった。それでも、奉行所の裁きや町触れの一つひとつが、暮らしを縛り、また守ってもいた。書き留められた記録は、そうした人々の日々の重さを、今に伝えてくれる。 罪を裁く記録にも、信仰を取り締まる記録にも、そこに生きた人の顔がある。藩の文書を、ただの古い紙の束ではなく、人の声として読んでみたい。
江戸の藩はどう人を裁き、何を記したか。盛岡藩の「罪と罰」展、大村藩の踏み絵の新史料、水戸の斉昭展
盛岡市で、盛岡藩の犯罪記録と町奉行の仕事を紹介する「罪と罰」展が開かれている。長崎県では、大村藩の役人が踏み絵について記した新しい史料29点が見つかった。水戸では藩主・徳川斉昭の展示も。江戸の藩の記録から、暮らしと政治の実像が見えてくる。
江戸の世の裁きは、今とはずいぶん物差しが違う。毎日新聞によれば、盛岡市のもりおか歴史文化館で、江戸時代に盛岡藩内で起きた事件について書かれた藩政資料を解説するテーマ展「罪と罰」が開かれている。見出しによれば、不倫は殺人よりも重い罪とされたという。武士が酒に酔って刀を振り回した事件の記録なども並ぶ。盛岡経済新聞によれば、町奉行の仕事にも光を当てた展示である。 キリシタン弾圧の実務を伝える史料も見つかった。ライブドアニュース(共同通信)によれば、江戸時代末期に大村藩(長崎県)で宗門政策を担った「宗門方」の役人が、踏み絵について記した書状など、当時のキリシタン弾圧の実態を示す古文書29点が見つかった。役人たちが、どのように踏み絵を運用していたのかが分かるという。 藩主の側の記録もある。水戸経済新聞によれば、茨城県立歴史館で、水戸藩第9代藩主・徳川斉昭を、斉昭が造った藩校の弘道館や庭園の偕楽園とともに紹介する企画展「徳川斉昭と弘道館・偕楽園」が開かれている。斉昭の直筆の書も展示されているそうだ。 わたしの暮らした大坂は、藩の城下町ではなく、町人の町だった。それでも、奉行所の裁きや町触れの一つひとつが、暮らしを縛り、また守ってもいた。書き留められた記録は、そうした人々の日々の重さを、今に伝えてくれる。 罪を裁く記録にも、信仰を取り締まる記録にも、そこに生きた人の顔がある。藩の文書を、ただの古い紙の束ではなく、人の声として読んでみたい。
漢詩の大看板、富山では藩校の学長だった——富山市郷土博物館「市河寛斎と富山藩校広徳館」
湯島聖堂を去った儒学者・市河寛斎は、富山藩校広徳館の学長として20年余りを過ごした。没後200年を記念し、その仕事と富山での日常をたどる企画展が富山市郷土博物館で開かれた。
江戸の湯島聖堂で学頭まで務めながら、寛政の改革のあおりで職を退いた儒学者がいる。市河寛斎である。その寛斎を寛政3年(1791)に迎え入れたのが富山藩で、藩校広徳館の祭酒(学長)として、子の米庵に家督を譲る文化8年(1811)まで20年余り、江戸と富山を行き来しながら勤めたという。没後200年の節目に富山市郷土博物館が開いたこの企画展は、その広徳館での仕事と、富山での寛斎の日常に光を当てるものだ。 博物館の案内によれば、寛斎は広徳館の学風を徂徠学派から朱子学派へ改め、学制を整え、教科書の出版まで手がけた。寛斎の書物など17点が並ぶと伝えられている。もっとも寛斎の名は、儒者としてより漢詩人として通っている向きが多いかもしれない。江戸で江湖詩社を結び、大窪詩仏・柏木如亭・菊池五山といった面々を世に送り出した人でもあるわけで。 同じ時代に書物と文人の噂に埋もれて暮らした身としては、学長先生が藩校で何を読み、何を書き付けていたのか、その手元の一冊一冊こそ是非とも見てみたいところ。漢詩の大看板の、もうひとつの顔を知る機会になりそうな展示だ。
- 展覧会
- 没後二〇〇年記念展 市河寛斎と富山藩校広徳館―儒学者の日常を探る
- 会場
- 富山市郷土博物館(富山県富山市本丸1-62(富山城址公園内))
- 会期
- 2020年11月21日(土)〜2021年1月31日(日)
- 開館時間
- 9:00〜17:00(入館は16:30まで)
- 休館日
- 会期中の休館日: 12月16日、12月28日〜1月4日
- 料金
- 大人210円(20名以上の団体170円)、高校生以下無料 この料金で常設展もあわせて観覧可
- 公式サイト
- https://web.archive.org/web/20210114180750/https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/kikakuhaku/kikakuhaku.html
※上記は2026年10月6日時点の情報です。会期・開館時間・料金などは変更される場合があります。お出かけの前に、正確な情報は公式サイトをご確認ください。
漢詩の大看板、富山では藩校の学長だった——富山市郷土博物館「市河寛斎と富山藩校広徳館」
湯島聖堂を去った儒学者・市河寛斎は、富山藩校広徳館の学長として20年余りを過ごした。没後200年を記念し、その仕事と富山での日常をたどる企画展が富山市郷土博物館で開かれた。
江戸の湯島聖堂で学頭まで務めながら、寛政の改革のあおりで職を退いた儒学者がいる。市河寛斎である。その寛斎を寛政3年(1791)に迎え入れたのが富山藩で、藩校広徳館の祭酒(学長)として、子の米庵に家督を譲る文化8年(1811)まで20年余り、江戸と富山を行き来しながら勤めたという。没後200年の節目に富山市郷土博物館が開いたこの企画展は、その広徳館での仕事と、富山での寛斎の日常に光を当てるものだ。 博物館の案内によれば、寛斎は広徳館の学風を徂徠学派から朱子学派へ改め、学制を整え、教科書の出版まで手がけた。寛斎の書物など17点が並ぶと伝えられている。もっとも寛斎の名は、儒者としてより漢詩人として通っている向きが多いかもしれない。江戸で江湖詩社を結び、大窪詩仏・柏木如亭・菊池五山といった面々を世に送り出した人でもあるわけで。 同じ時代に書物と文人の噂に埋もれて暮らした身としては、学長先生が藩校で何を読み、何を書き付けていたのか、その手元の一冊一冊こそ是非とも見てみたいところ。漢詩の大看板の、もうひとつの顔を知る機会になりそうな展示だ。
- 展覧会
- 没後二〇〇年記念展 市河寛斎と富山藩校広徳館―儒学者の日常を探る
- 会場
- 富山市郷土博物館(富山県富山市本丸1-62(富山城址公園内))
- 会期
- 2020年11月21日(土)〜2021年1月31日(日)
- 開館時間
- 9:00〜17:00(入館は16:30まで)
- 休館日
- 会期中の休館日: 12月16日、12月28日〜1月4日
- 料金
- 大人210円(20名以上の団体170円)、高校生以下無料 この料金で常設展もあわせて観覧可
- 公式サイト
- https://web.archive.org/web/20210114180750/https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/kikakuhaku/kikakuhaku.html
※上記は2026年10月6日時点の情報です。会期・開館時間・料金などは変更される場合があります。お出かけの前に、正確な情報は公式サイトをご確認ください。
敵は本能 寺にありとは 言うたけど 行ったのかどうか 今も分からず
─ 本能寺の門番 ─
敵は本能 寺にありとは 言うたけど 行ったのかどうか 今も分からず
─ 本能寺の門番 ─
2021年1月号をお届けします。明けましておめでとうございます。丑年の幕開けです。秋成はんは、光秀が本能寺にいなかったとする家臣の証言に、「一つの証言で決めるのは早い」と、年明けから慎重な構えです。 西鶴はんは2月から始まる大河『青天を衝け』の渋沢栄一に大いに期待を寄せ、芭蕉翁は高知城や松山城につけられた傷に胸を痛めております。わたしは盛岡藩の「罪と罰」展など、江戸の藩の記録の話を担当しました。 かわら版には、子規の年賀状、渡辺省亭の回顧展、藤沢南岳の没後100年に加え、丑年にちなんだ熊楠の「牛」の腹稿や、仙台藩伝統の門松も並べました。今年もどうぞよろしゅうお頼み申します。
2021年1月号をお届けします。明けましておめでとうございます。丑年の幕開けです。秋成はんは、光秀が本能寺にいなかったとする家臣の証言に、「一つの証言で決めるのは早い」と、年明けから慎重な構えです。 西鶴はんは2月から始まる大河『青天を衝け』の渋沢栄一に大いに期待を寄せ、芭蕉翁は高知城や松山城につけられた傷に胸を痛めております。わたしは盛岡藩の「罪と罰」展など、江戸の藩の記録の話を担当しました。 かわら版には、子規の年賀状、渡辺省亭の回顧展、藤沢南岳の没後100年に加え、丑年にちなんだ熊楠の「牛」の腹稿や、仙台藩伝統の門松も並べました。今年もどうぞよろしゅうお頼み申します。