罰せられた天才が、お札の顔になる——チューリングの新50ポンド紙幣お披露目
イングランド銀行が、「計算機科学の父」アラン・チューリングを肖像にした新しい50ポンド紙幣のデザインを披露した。流通は6月、彼の誕生日から。暗号を解き、国を救い、そして国に罰せられた男の復権を、お札の目から眺める。
お札の顔というのは、その国が「この人を誇りに思う」と天下に示す、いちばん分かりやすい看板や。その看板に、ようやくこの人が選ばれた。 イギリスで、数学者アラン・チューリングを肖像にした新しい50ポンド紙幣のデザインがお披露目された。「計算機科学の父」と呼ばれる人物で、流通は6月から。しかも発行日は、彼の誕生日にあたる6月23日に合わせたという。 チューリング(1912〜1954)は、第二次世界大戦中、ドイツ軍の暗号エニグマの解読に大きな役割を果たした。いまのコンピューターの考え方の土台になる「チューリング・マシン」を構想したのもこの人だ。戦争を早く終わらせ、何万もの命を救ったといわれる功労者である。 ところが戦後、その功労者を待っていたのは冷たい仕打ちだった。当時のイギリスでは同性愛が犯罪とされており、チューリングは有罪となり、ホルモン治療を強いられた。そして1954年、41歳の若さで世を去る。国が彼の名誉を正式に回復したのは、死後半世紀以上たってからのことだった。性の多様性を扱う媒体が、この紙幣の話題を大きく取り上げたのも無理はない。 わしも若い頃、『男色大鑑』なる本を書いて、武家や役者の男色の話を山ほど集めた。わしらの時代の日本では、それは別段とがめられることでもなかった。国と時代が違えば、同じ恋がこうも扱いを変えられるものかと、ため息が出る。 それにしても、50ポンド札は向こうの紙幣でいちばん高い額面だそうな。罰した国が、いちばん値打ちの張るお札にその顔を刷る。遅すぎた詫び状ではあるが、銭というものは毎日人の手から手へ渡っていく。その一枚一枚が、チューリングの名を語り継いでいくのなら、これほど息の長い弔いもあるまい。
罰せられた天才が、お札の顔になる——チューリングの新50ポンド紙幣お披露目
イングランド銀行が、「計算機科学の父」アラン・チューリングを肖像にした新しい50ポンド紙幣のデザインを披露した。流通は6月、彼の誕生日から。暗号を解き、国を救い、そして国に罰せられた男の復権を、お札の目から眺める。
お札の顔というのは、その国が「この人を誇りに思う」と天下に示す、いちばん分かりやすい看板や。その看板に、ようやくこの人が選ばれた。 イギリスで、数学者アラン・チューリングを肖像にした新しい50ポンド紙幣のデザインがお披露目された。「計算機科学の父」と呼ばれる人物で、流通は6月から。しかも発行日は、彼の誕生日にあたる6月23日に合わせたという。 チューリング(1912〜1954)は、第二次世界大戦中、ドイツ軍の暗号エニグマの解読に大きな役割を果たした。いまのコンピューターの考え方の土台になる「チューリング・マシン」を構想したのもこの人だ。戦争を早く終わらせ、何万もの命を救ったといわれる功労者である。 ところが戦後、その功労者を待っていたのは冷たい仕打ちだった。当時のイギリスでは同性愛が犯罪とされており、チューリングは有罪となり、ホルモン治療を強いられた。そして1954年、41歳の若さで世を去る。国が彼の名誉を正式に回復したのは、死後半世紀以上たってからのことだった。性の多様性を扱う媒体が、この紙幣の話題を大きく取り上げたのも無理はない。 わしも若い頃、『男色大鑑』なる本を書いて、武家や役者の男色の話を山ほど集めた。わしらの時代の日本では、それは別段とがめられることでもなかった。国と時代が違えば、同じ恋がこうも扱いを変えられるものかと、ため息が出る。 それにしても、50ポンド札は向こうの紙幣でいちばん高い額面だそうな。罰した国が、いちばん値打ちの張るお札にその顔を刷る。遅すぎた詫び状ではあるが、銭というものは毎日人の手から手へ渡っていく。その一枚一枚が、チューリングの名を語り継いでいくのなら、これほど息の長い弔いもあるまい。
パリの街角に惚れ抜いた稲沢の画家——荻須高徳の戦前作「ガラージュ」初披露
パリの街並みを描き続けた愛知県稲沢市出身の画家・荻須高徳。その戦前の作品が、地元の稲沢市荻須記念美術館で公開された。油彩画「ガラージュ」は初めての披露だという。
一つの土地に惚れ込んで、そこを生涯描き続ける。書画を集めてきた身として言うと、そういう画家の絵には、ほかにない匂いが染みついているものや。 愛知県稲沢市の出身で、パリの街角を描き続けた画家、荻須高徳(1901〜1986)。その戦前の作品が、ふるさとの稲沢市荻須記念美術館で公開された。朝日新聞や中日新聞によれば、油彩画「ガラージュ」はこれが初めての披露になるという。 荻須は東京美術学校を出たあと、昭和の初めにパリへ渡った。以来、石畳の路地や古い建物の壁、店先の看板といった、観光名所ではない裏町の風景を好んで描いた。戦争が激しくなると一時日本に引き揚げたが、戦後まもなく再びパリに戻り、そのまま生涯の大半をかの地で過ごしている。晩年には文化勲章も受けた。 今回の「ガラージュ」は、題名のとおり自動車の車庫を描いた作品らしい。華やかなパリではなく、車庫。いかにも荻須らしい画題の選び方ではないか。戦前の、まだ若い画家が、異国の町のどこに目を留めたのか。その視線の先を確かめられるのは、なかなかの見ものである。 うちのような好事家からすると、画家の戦前の作品というのは宝探しの宝のようなもんや。戦争をはさんで行方知れずになった絵、どこかの蔵で眠っていた絵が、何十年ぶりかで世に出てくる。そのたびに、画家の歩みの空白が一つずつ埋まっていく。 荻須はパリで亡くなったが、ふるさとの稲沢には彼の名を冠した美術館がある。パリの街角を、名古屋の近くで眺められるというのは、なんとも贅沢な話やなあ。これは是非とも、一度ゆっくり拝ませてもらいたい。
パリの街角に惚れ抜いた稲沢の画家——荻須高徳の戦前作「ガラージュ」初披露
パリの街並みを描き続けた愛知県稲沢市出身の画家・荻須高徳。その戦前の作品が、地元の稲沢市荻須記念美術館で公開された。油彩画「ガラージュ」は初めての披露だという。
一つの土地に惚れ込んで、そこを生涯描き続ける。書画を集めてきた身として言うと、そういう画家の絵には、ほかにない匂いが染みついているものや。 愛知県稲沢市の出身で、パリの街角を描き続けた画家、荻須高徳(1901〜1986)。その戦前の作品が、ふるさとの稲沢市荻須記念美術館で公開された。朝日新聞や中日新聞によれば、油彩画「ガラージュ」はこれが初めての披露になるという。 荻須は東京美術学校を出たあと、昭和の初めにパリへ渡った。以来、石畳の路地や古い建物の壁、店先の看板といった、観光名所ではない裏町の風景を好んで描いた。戦争が激しくなると一時日本に引き揚げたが、戦後まもなく再びパリに戻り、そのまま生涯の大半をかの地で過ごしている。晩年には文化勲章も受けた。 今回の「ガラージュ」は、題名のとおり自動車の車庫を描いた作品らしい。華やかなパリではなく、車庫。いかにも荻須らしい画題の選び方ではないか。戦前の、まだ若い画家が、異国の町のどこに目を留めたのか。その視線の先を確かめられるのは、なかなかの見ものである。 うちのような好事家からすると、画家の戦前の作品というのは宝探しの宝のようなもんや。戦争をはさんで行方知れずになった絵、どこかの蔵で眠っていた絵が、何十年ぶりかで世に出てくる。そのたびに、画家の歩みの空白が一つずつ埋まっていく。 荻須はパリで亡くなったが、ふるさとの稲沢には彼の名を冠した美術館がある。パリの街角を、名古屋の近くで眺められるというのは、なんとも贅沢な話やなあ。これは是非とも、一度ゆっくり拝ませてもらいたい。
石見銀山の古刹から毛利輝元の安堵状、細川忠興がキリシタン重臣に処刑を命じた書状、天狗党と戦った高島藩の戦記。春の古文書だより
宗教法人の解散手続きが進む島根県大田市の金皇寺で、石見銀山の支配の移り変わりを示す古文書約300点が見つかった。熊本では細川忠興がキリシタンの重臣に処刑や追放を命じた書状が、長野では天狗党と戦った高島藩の当事者の戦記が確認された。
消えゆく寺から、古い紙が出てきた。朝日新聞によれば、宗教法人の解散手続きが進められている島根県大田市仁摩町の浄土宗・金皇寺で、中世から近代の古文書など約300点が見つかった。毛利輝元が寺の保護を認めた「安堵状」など、石見銀山の支配の移り変わりを示す文書が含まれているという。寺が国のものになる前に、誰かがきちんと蔵を開けてくれたからこそ、この発見がある。 信仰と権力がぶつかった跡を示す文書もある。FNNによれば、熊本大学永青文庫研究センターは、小倉藩主だった細川忠興が、2人のキリシタンの重臣に処刑や追放を命じた書状を見つけたと発表した。この発見で、日本のキリスト教史のうえで確かな事実が分かったという。妻のガラシャがキリシタンだった忠興が、家臣の信仰には厳しく臨んだ。その事実を、本人の書状が裏づけたわけだ。 幕末の戦いの記録も出てきた。朝日新聞によれば、水戸の天狗党と戦った高島藩の当事者が書いた戦記が見つかった。天狗党は、元家老の武田耕雲斎らが率いた攘夷の武装集団で、一橋慶喜を通じて朝廷に嘆願しようと約1千人で西へ向かった。その途中で、諏訪の高島藩などと戦ったのである。 さて、戦記というものは用心して読まねばならぬ。書き手は必ずどちらかの側に立っている。勝った戦は大きく、負けた戦は小さく書きたくなるのが人情だ。高島藩の側から見た天狗党の姿を、水戸の側の記録と突き合わせてこそ、戦いの実像が浮かび上がる。 史料を広く開く動きもある。Yahoo!ニュースに載った記事によれば、福島県会津若松市は、会津図書館が持つ会津藩関連の古文書など471点を撮影し、インターネットで公開する。紙は一か所にしまい込まれていると、読む人が限られる。多くの目にさらされてこそ、読み違いも正されるのである。
石見銀山の古刹から毛利輝元の安堵状、細川忠興がキリシタン重臣に処刑を命じた書状、天狗党と戦った高島藩の戦記。春の古文書だより
宗教法人の解散手続きが進む島根県大田市の金皇寺で、石見銀山の支配の移り変わりを示す古文書約300点が見つかった。熊本では細川忠興がキリシタンの重臣に処刑や追放を命じた書状が、長野では天狗党と戦った高島藩の当事者の戦記が確認された。
消えゆく寺から、古い紙が出てきた。朝日新聞によれば、宗教法人の解散手続きが進められている島根県大田市仁摩町の浄土宗・金皇寺で、中世から近代の古文書など約300点が見つかった。毛利輝元が寺の保護を認めた「安堵状」など、石見銀山の支配の移り変わりを示す文書が含まれているという。寺が国のものになる前に、誰かがきちんと蔵を開けてくれたからこそ、この発見がある。 信仰と権力がぶつかった跡を示す文書もある。FNNによれば、熊本大学永青文庫研究センターは、小倉藩主だった細川忠興が、2人のキリシタンの重臣に処刑や追放を命じた書状を見つけたと発表した。この発見で、日本のキリスト教史のうえで確かな事実が分かったという。妻のガラシャがキリシタンだった忠興が、家臣の信仰には厳しく臨んだ。その事実を、本人の書状が裏づけたわけだ。 幕末の戦いの記録も出てきた。朝日新聞によれば、水戸の天狗党と戦った高島藩の当事者が書いた戦記が見つかった。天狗党は、元家老の武田耕雲斎らが率いた攘夷の武装集団で、一橋慶喜を通じて朝廷に嘆願しようと約1千人で西へ向かった。その途中で、諏訪の高島藩などと戦ったのである。 さて、戦記というものは用心して読まねばならぬ。書き手は必ずどちらかの側に立っている。勝った戦は大きく、負けた戦は小さく書きたくなるのが人情だ。高島藩の側から見た天狗党の姿を、水戸の側の記録と突き合わせてこそ、戦いの実像が浮かび上がる。 史料を広く開く動きもある。Yahoo!ニュースに載った記事によれば、福島県会津若松市は、会津図書館が持つ会津藩関連の古文書など471点を撮影し、インターネットで公開する。紙は一か所にしまい込まれていると、読む人が限られる。多くの目にさらされてこそ、読み違いも正されるのである。
明治に解体された鳥取城の大手門、江戸末期の姿で復元。会津藩校の天文台跡、那覇の崇元寺の遺構にも光
明治の初めに解体された鳥取城跡の中ノ御門大手門が、江戸末期の建築技法で復元された。会津若松では藩校・日新館の天文台跡を残そうという機運が高まり、那覇では沖縄戦で焼けた崇元寺の遺構が良好に残っていることが確かめられた。
城の顔が、戻ってきた。山陰中央新報によれば、明治の初めに解体された鳥取城跡の中ノ御門大手門が復元された。鳥取市が江戸末期の建築技法を採用し、当時の姿を忠実に再現したという。FNNによれば、門は幅10.2メートル。32万石と全国屈指の大藩だった鳥取藩の威厳を伝え、藩主・池田家と江戸幕府とのつながりを示す歴史的なシンボルとして、新たな観光の目玉になることが期待されている。 大きな城門をくぐるとき、人は自然と背筋が伸びる。かつてここを行き来した藩士たちも、同じ思いで門を見上げたのだろう。復元とは、建物だけでなく、その前に立つ人の心持ちまで呼び戻すものなのかもしれない。 建て直すのではなく、残す道を探す遺構もある。ライブドアニュースに載った記事によれば、福島県会津若松市の住宅街に、会津藩の藩校「日新館」にあった天文台の一部が、石垣に覆われた高さ数メートルの構造物としてひっそりと残っている。水戸や薩摩などいくつかの藩も天文台を持っていたが、その遺構が残る例は珍しく、保存の機運が高まっているという。 南の島でも、地面の下の歴史が確かめられた。沖縄タイムスによれば、那覇市は、沖縄戦で建物が焼けた崇元寺跡の遺構を確かめる発掘調査を行い、遺構が良好に残っていることを確認した。崇元寺公園の中での調査は39年ぶりで、市は国の史跡指定を目指すという。 よみがえった門、ひっそり残った天文台、焼けた寺の礎。どれも、その土地の人が大切に思ってきたからこそ、今に伝わっている。旅の足を向ける先が、この春また一つ増えた。
明治に解体された鳥取城の大手門、江戸末期の姿で復元。会津藩校の天文台跡、那覇の崇元寺の遺構にも光
明治の初めに解体された鳥取城跡の中ノ御門大手門が、江戸末期の建築技法で復元された。会津若松では藩校・日新館の天文台跡を残そうという機運が高まり、那覇では沖縄戦で焼けた崇元寺の遺構が良好に残っていることが確かめられた。
城の顔が、戻ってきた。山陰中央新報によれば、明治の初めに解体された鳥取城跡の中ノ御門大手門が復元された。鳥取市が江戸末期の建築技法を採用し、当時の姿を忠実に再現したという。FNNによれば、門は幅10.2メートル。32万石と全国屈指の大藩だった鳥取藩の威厳を伝え、藩主・池田家と江戸幕府とのつながりを示す歴史的なシンボルとして、新たな観光の目玉になることが期待されている。 大きな城門をくぐるとき、人は自然と背筋が伸びる。かつてここを行き来した藩士たちも、同じ思いで門を見上げたのだろう。復元とは、建物だけでなく、その前に立つ人の心持ちまで呼び戻すものなのかもしれない。 建て直すのではなく、残す道を探す遺構もある。ライブドアニュースに載った記事によれば、福島県会津若松市の住宅街に、会津藩の藩校「日新館」にあった天文台の一部が、石垣に覆われた高さ数メートルの構造物としてひっそりと残っている。水戸や薩摩などいくつかの藩も天文台を持っていたが、その遺構が残る例は珍しく、保存の機運が高まっているという。 南の島でも、地面の下の歴史が確かめられた。沖縄タイムスによれば、那覇市は、沖縄戦で建物が焼けた崇元寺跡の遺構を確かめる発掘調査を行い、遺構が良好に残っていることを確認した。崇元寺公園の中での調査は39年ぶりで、市は国の史跡指定を目指すという。 よみがえった門、ひっそり残った天文台、焼けた寺の礎。どれも、その土地の人が大切に思ってきたからこそ、今に伝わっている。旅の足を向ける先が、この春また一つ増えた。
ディーン・フジオカが朝ドラに続き大河でも五代友厚に。渋沢の盟友と親友・喜作、古書店に並ぶ渋沢の直筆まで
大河ドラマ『青天を衝け』の新キャストが発表され、渋沢栄一の盟友となる薩摩藩士・五代友厚を、朝ドラ『あさが来た』でも同じ役を演じたディーン・フジオカが務める。渋沢の親友・喜作の生涯や、茨城の古書店に並ぶ渋沢の直筆にも注目が集まる。
まあ聞いてほしい。大坂の恩人が、また帰ってくる。朝日新聞によれば、NHKは『青天を衝け』の新たな出演者を発表し、主人公・渋沢栄一の盟友となる薩摩藩士・五代才助(友厚)をディーン・フジオカが、新選組副長の土方歳三を町田啓太が演じる。 アサジョの記事によれば、ディーンは連続テレビ小説『あさが来た』でも五代友厚を演じていて、朝ドラから大河へ同じ役で渡るのは珍しいという。五代は明治の初め、大阪商法会議所をこしらえて、傾きかけた大阪の商いを立て直した人や。わしら大坂の商人にとっては、足を向けて寝られん恩人やで。 渋沢の周りの人物にも光が当たっている。Yahoo!ニュースに載った連載によれば、渋沢栄一を動かした言葉の一つは、生涯を通じた親友で従兄の渋沢喜作のものだった。喜作は戊辰戦争で箱館に渡り、五稜郭の榎本武揚の軍に加わったという。同じ村から出て、一方は明治政府と実業の道へ、もう一方は幕府方として北の果てまで戦った。二人の道の分かれ方が、幕末という時代の激しさを物語る。 手紙も商売になる。茨城新聞によれば、茨城県つくば市の古書店で、渋沢栄一の直筆の手紙などが展示されている。店の代表が集めたもので、差出人には渋沢のほか、三島由紀夫や大久保利通、志賀直哉、島崎藤村らが並ぶという。 わしに言わせれば、渋沢も五代も、人と人をつないで銭を回した商人の鑑や。大河が当たれば、ゆかりの地も古本屋も潤う。百五十年前の商人たちが、今も町に客を呼んでくれとる。ありがたい話やないか。
ディーン・フジオカが朝ドラに続き大河でも五代友厚に。渋沢の盟友と親友・喜作、古書店に並ぶ渋沢の直筆まで
大河ドラマ『青天を衝け』の新キャストが発表され、渋沢栄一の盟友となる薩摩藩士・五代友厚を、朝ドラ『あさが来た』でも同じ役を演じたディーン・フジオカが務める。渋沢の親友・喜作の生涯や、茨城の古書店に並ぶ渋沢の直筆にも注目が集まる。
まあ聞いてほしい。大坂の恩人が、また帰ってくる。朝日新聞によれば、NHKは『青天を衝け』の新たな出演者を発表し、主人公・渋沢栄一の盟友となる薩摩藩士・五代才助(友厚)をディーン・フジオカが、新選組副長の土方歳三を町田啓太が演じる。 アサジョの記事によれば、ディーンは連続テレビ小説『あさが来た』でも五代友厚を演じていて、朝ドラから大河へ同じ役で渡るのは珍しいという。五代は明治の初め、大阪商法会議所をこしらえて、傾きかけた大阪の商いを立て直した人や。わしら大坂の商人にとっては、足を向けて寝られん恩人やで。 渋沢の周りの人物にも光が当たっている。Yahoo!ニュースに載った連載によれば、渋沢栄一を動かした言葉の一つは、生涯を通じた親友で従兄の渋沢喜作のものだった。喜作は戊辰戦争で箱館に渡り、五稜郭の榎本武揚の軍に加わったという。同じ村から出て、一方は明治政府と実業の道へ、もう一方は幕府方として北の果てまで戦った。二人の道の分かれ方が、幕末という時代の激しさを物語る。 手紙も商売になる。茨城新聞によれば、茨城県つくば市の古書店で、渋沢栄一の直筆の手紙などが展示されている。店の代表が集めたもので、差出人には渋沢のほか、三島由紀夫や大久保利通、志賀直哉、島崎藤村らが並ぶという。 わしに言わせれば、渋沢も五代も、人と人をつないで銭を回した商人の鑑や。大河が当たれば、ゆかりの地も古本屋も潤う。百五十年前の商人たちが、今も町に客を呼んでくれとる。ありがたい話やないか。
暗号を 解いた男の 顔の札 使うたびごと 胸がちくりと
─ 両替商の丁稚 ─
暗号を 解いた男の 顔の札 使うたびごと 胸がちくりと
─ 両替商の丁稚 ─
2021年3月号をお届けします。西鶴はんにはイギリスの新しい50ポンド札の顔となったチューリングをお願いし、うちは稲沢の荻須高徳の戦前作を書かせてもらいました。罰せられた天才と、異国の裏町に惚れ抜いた画家。どちらも、ふるさとや祖国に遅れて迎え入れられた人、という点で妙に響き合います。 そこへ秋成はんが、石見銀山の寺から出た毛利輝元の安堵状や、細川忠興の書状、天狗党の戦記と、春の古文書をまとめてくれました。芭蕉翁は復元された鳥取城の大手門や会津藩校の天文台跡をたずね、西鶴はんは『青天を衝け』に五代友厚が出ると聞いて、大坂の恩人の帰還やと喜んでおります。 かわら版には、800年を迎えた承久の乱の特別展、没後700年のダンテ、仙台の東洋館の閉館、東大寺のお水取りまで並べました。大震災から10年の春でもあります。桜のたよりも届きはじめる頃、どうぞ美術館めぐりのお供に。
2021年3月号をお届けします。西鶴はんにはイギリスの新しい50ポンド札の顔となったチューリングをお願いし、うちは稲沢の荻須高徳の戦前作を書かせてもらいました。罰せられた天才と、異国の裏町に惚れ抜いた画家。どちらも、ふるさとや祖国に遅れて迎え入れられた人、という点で妙に響き合います。 そこへ秋成はんが、石見銀山の寺から出た毛利輝元の安堵状や、細川忠興の書状、天狗党の戦記と、春の古文書をまとめてくれました。芭蕉翁は復元された鳥取城の大手門や会津藩校の天文台跡をたずね、西鶴はんは『青天を衝け』に五代友厚が出ると聞いて、大坂の恩人の帰還やと喜んでおります。 かわら版には、800年を迎えた承久の乱の特別展、没後700年のダンテ、仙台の東洋館の閉館、東大寺のお水取りまで並べました。大震災から10年の春でもあります。桜のたよりも届きはじめる頃、どうぞ美術館めぐりのお供に。