「土下座像」の人は、諸国を歩いた人つなぎの名人だった——高山彦九郎と「関係人口」
京都・三条の待ち合わせ名所「土下座像」のモデル、高山彦九郎。残した著作は日記だけという寛政の三奇人を、地元群馬の新聞が「関係人口」の先駆けとして読み解いていた。
京阪三条駅の前で人を待ったことがあるなら、あの像を一度は見上げているはずだ。膝をつき、御所の方角へ深々と頭を下げる男。京都では親しみを込めて「土下座像」と呼ばれる、高山彦九郎その人である。 2021年4月21日付の上毛新聞に、関東学園大准教授・山根聡之氏がこの彦九郎を論じた寄稿を寄せている。彦九郎は群馬県太田市が誇る郷土の偉人で、上毛かるたの「歴史に名高い新田義貞」と並ぶ土地の顔。ところが寄稿によれば、知名度はむしろ関西のほうが高いらしい。像には東郷平八郎の揮毫で「高山彦九郎 皇居望拝之像」とある。 林子平・蒲生君平と並ぶ「寛政の三奇人」のひとり。もっとも「奇人」は変わり者の意味ではなく、常識にとらわれない発想と行動力を備えた人物という意味だ、と山根氏は念を押す。では何を成し遂げたのかと問われると、これが答えに詰まる。子平には『海国兵談』があり、君平には「前方後円」の名付け親となった『山陵志』がある。一方の彦九郎は、体系立った著作を一冊も残していない。残ったのは日記だけ。 ところが、この日記こそが面白い、というのが寄稿の肝である。飢饉と聞けば現地へ出向いて聞き取りをし、荒れた村の様子を丹念に書き留める。そして頁をめくるたびに出てくるのが、訪ねていった「良き人」たちの名前だ。米沢藩主の上杉鷹山、公家の岩倉具選、『大日本史』の編纂に携わった藤田幽谷、『解体新書』の前野良沢。人嫌いで知られた良沢とは妙に馬が合い、江戸では良沢邸が彦九郎の定宿だったというから、人懐っこいにもほどがある。 北海道と沖縄を除く全国を歩き、各地の有力者を訪ねては、人と人とをつないでいった。その足跡は、のちに吉田松陰や高杉晋作、西郷隆盛らを惹きつけることになる。山根氏はこの姿を、地域と多様に関わる「関係人口」の先駆けと呼んでいる。 同じ時代、大坂で来客を迎え、手紙で諸国の文人とやりとりしていた身からすると、身ひとつで訪ねて回るこの脚力には、ほんまに頭が下がる。いや、頭を下げているのは像のほうか。次に三条で待ち合わせるときは、ぜひ彼の視線の先を一緒に眺めてみてほしい。
「土下座像」の人は、諸国を歩いた人つなぎの名人だった——高山彦九郎と「関係人口」
京都・三条の待ち合わせ名所「土下座像」のモデル、高山彦九郎。残した著作は日記だけという寛政の三奇人を、地元群馬の新聞が「関係人口」の先駆けとして読み解いていた。
京阪三条駅の前で人を待ったことがあるなら、あの像を一度は見上げているはずだ。膝をつき、御所の方角へ深々と頭を下げる男。京都では親しみを込めて「土下座像」と呼ばれる、高山彦九郎その人である。 2021年4月21日付の上毛新聞に、関東学園大准教授・山根聡之氏がこの彦九郎を論じた寄稿を寄せている。彦九郎は群馬県太田市が誇る郷土の偉人で、上毛かるたの「歴史に名高い新田義貞」と並ぶ土地の顔。ところが寄稿によれば、知名度はむしろ関西のほうが高いらしい。像には東郷平八郎の揮毫で「高山彦九郎 皇居望拝之像」とある。 林子平・蒲生君平と並ぶ「寛政の三奇人」のひとり。もっとも「奇人」は変わり者の意味ではなく、常識にとらわれない発想と行動力を備えた人物という意味だ、と山根氏は念を押す。では何を成し遂げたのかと問われると、これが答えに詰まる。子平には『海国兵談』があり、君平には「前方後円」の名付け親となった『山陵志』がある。一方の彦九郎は、体系立った著作を一冊も残していない。残ったのは日記だけ。 ところが、この日記こそが面白い、というのが寄稿の肝である。飢饉と聞けば現地へ出向いて聞き取りをし、荒れた村の様子を丹念に書き留める。そして頁をめくるたびに出てくるのが、訪ねていった「良き人」たちの名前だ。米沢藩主の上杉鷹山、公家の岩倉具選、『大日本史』の編纂に携わった藤田幽谷、『解体新書』の前野良沢。人嫌いで知られた良沢とは妙に馬が合い、江戸では良沢邸が彦九郎の定宿だったというから、人懐っこいにもほどがある。 北海道と沖縄を除く全国を歩き、各地の有力者を訪ねては、人と人とをつないでいった。その足跡は、のちに吉田松陰や高杉晋作、西郷隆盛らを惹きつけることになる。山根氏はこの姿を、地域と多様に関わる「関係人口」の先駆けと呼んでいる。 同じ時代、大坂で来客を迎え、手紙で諸国の文人とやりとりしていた身からすると、身ひとつで訪ねて回るこの脚力には、ほんまに頭が下がる。いや、頭を下げているのは像のほうか。次に三条で待ち合わせるときは、ぜひ彼の視線の先を一緒に眺めてみてほしい。
「写真の都」は人の輪から生まれた——名古屋写真運動史展と、掛け軸に貼られた一枚
3月28日に閉幕した名古屋市美術館の「写真の都」物語展。大正の日高長太郎から1970年前後の学生写真まで、名古屋の写真を人の輪の歴史としてたどった展示を、閉幕後の時評から振り返る。
会場の入口で客を迎えたのは、金箔を施した掛け軸だったそうだ。表装されているのは水墨画ではなく一枚の写真。里山の木橋を小雨のなかで写した、日高長太郎の「雨の小川」である。明治の末年の作で、背景は水墨画のように霞がかかっているのに、橋の欄干や手前の草地はくっきり写っているという。 名古屋市美術館で3月28日まで開かれていた「写真の都」物語 名古屋写真運動史:1911-1972。閉幕からひと月たって、沖本尚志氏がnoteにこの展覧会の長い時評を書いている。 展示は6章立て。日高と愛友写真倶楽部に始まり、モダン都市の新興写真、シュルレアリスムか抽象かで揺れた前衛写真、戦後のリアリズムと主観主義の対抗、東松照明の登場、そして1970年前後の中部学生写真連盟まで、約60年の名古屋の写真を、人の集まりと交流の歴史としてたどる。 沖本氏によれば、日高は1926年に43歳で世を去った。ゴム印画やソフトフォーカスを使った作風は同時代の作家と比べても際立って柔らかく、活動がもっと長ければピクトリアリズムの作家という評価に収まらなかったはずだ、と惜しんでいる。 大坂の者として見逃せないのが坂田稔だ。大阪の浪華写真倶楽部から1934年に名古屋へ移り、ナゴヤ・フォトアバンガルドを結成した。前衛写真のアジテーターとして鳴らしながら、1940年には民俗へ、翌年には報道写真へと転じていく。上方の熱が名古屋の前衛に流れ込んでいたわけで、こういう人の行き来こそ「運動史」の醍醐味やなあ、と思う。同じ仲間の下郷羊雄が1940年に私家版で出した『超現実写真集 メセム属』は、いまや一冊数百万円で取引されるらしい。 沖本氏が何より評価するのは、企画した竹葉丈学芸員の調べの細かさだ。遺族を訪ねて作品の来歴を洗い、写真家どうしの付き合いやグループの変遷まで掘り起こした。東京中心の写真史から外れた土地の厚みを、地方の美術館が示してみせたわけである。 手紙で諸国の文人とつながってきた身には、写真家たちの付き合いの網目をたぐった仕事がうらやましい。会場は閉じても、国書刊行会から出た図録で続きは追える。これは是非とも手元に置いておきたい一冊だ。
「写真の都」は人の輪から生まれた——名古屋写真運動史展と、掛け軸に貼られた一枚
3月28日に閉幕した名古屋市美術館の「写真の都」物語展。大正の日高長太郎から1970年前後の学生写真まで、名古屋の写真を人の輪の歴史としてたどった展示を、閉幕後の時評から振り返る。
会場の入口で客を迎えたのは、金箔を施した掛け軸だったそうだ。表装されているのは水墨画ではなく一枚の写真。里山の木橋を小雨のなかで写した、日高長太郎の「雨の小川」である。明治の末年の作で、背景は水墨画のように霞がかかっているのに、橋の欄干や手前の草地はくっきり写っているという。 名古屋市美術館で3月28日まで開かれていた「写真の都」物語 名古屋写真運動史:1911-1972。閉幕からひと月たって、沖本尚志氏がnoteにこの展覧会の長い時評を書いている。 展示は6章立て。日高と愛友写真倶楽部に始まり、モダン都市の新興写真、シュルレアリスムか抽象かで揺れた前衛写真、戦後のリアリズムと主観主義の対抗、東松照明の登場、そして1970年前後の中部学生写真連盟まで、約60年の名古屋の写真を、人の集まりと交流の歴史としてたどる。 沖本氏によれば、日高は1926年に43歳で世を去った。ゴム印画やソフトフォーカスを使った作風は同時代の作家と比べても際立って柔らかく、活動がもっと長ければピクトリアリズムの作家という評価に収まらなかったはずだ、と惜しんでいる。 大坂の者として見逃せないのが坂田稔だ。大阪の浪華写真倶楽部から1934年に名古屋へ移り、ナゴヤ・フォトアバンガルドを結成した。前衛写真のアジテーターとして鳴らしながら、1940年には民俗へ、翌年には報道写真へと転じていく。上方の熱が名古屋の前衛に流れ込んでいたわけで、こういう人の行き来こそ「運動史」の醍醐味やなあ、と思う。同じ仲間の下郷羊雄が1940年に私家版で出した『超現実写真集 メセム属』は、いまや一冊数百万円で取引されるらしい。 沖本氏が何より評価するのは、企画した竹葉丈学芸員の調べの細かさだ。遺族を訪ねて作品の来歴を洗い、写真家どうしの付き合いやグループの変遷まで掘り起こした。東京中心の写真史から外れた土地の厚みを、地方の美術館が示してみせたわけである。 手紙で諸国の文人とつながってきた身には、写真家たちの付き合いの網目をたぐった仕事がうらやましい。会場は閉じても、国書刊行会から出た図録で続きは追える。これは是非とも手元に置いておきたい一冊だ。
聖徳太子の没後1400年、法隆寺で遠忌法要と救世観音の特別公開。後鳥羽院の隠岐遷幸から800年、ゆかりの神社には鎌倉の菓子
今年は聖徳太子の没後1400年。法隆寺では遠忌の法要が営まれ、夢殿の救世観音が特別に公開された。承久の乱に敗れた後鳥羽上皇が隠岐へ移されてから800年にもあたり、ゆかりの神社では古い菓子が奉納された。
千四百年という時の長さは、旅の身にもなかなか想像がつかない。楽天Womanに載った産経新聞の記事によれば、聖徳太子の没後1400年にあたり、奈良の法隆寺で遠忌の法要が営まれ、太子の遺徳がたたえられた。太子は用明天皇の皇子で、推古天皇のもと、十七条憲法や冠位十二階を定め、遣隋使を送ったことで知られる。 法隆寺では、ふだん目にできない像も姿を見せた。日本テレビ系のNews24によれば、夢殿に安置された国宝の救世観音像が特別に公開された。太子の姿を写した等身の像と言われ、長く秘仏として公開されてこなかったが、明治17年(1884年)にフェノロサが第一級の彫刻と絶賛したことから、春と秋に開かれるようになったという。大阪府八尾市でも、産経新聞によれば、太子と物部守屋のゆかりの地を紹介する動画を公開するなど、歴史資産を売り込む取り組みが始まった。 今年は、もう一つの節目の年でもある。承久3年(1221年)、鎌倉幕府と戦って敗れた後鳥羽上皇は、隠岐へ移された。47NEWSによれば、上皇を祭る隠岐神社(島根県海士町)と水無瀬神宮(大阪府島本町)で、命日の3日、上皇の時代の貴族が食べたと伝わる古代の菓子「索餅」などを同時に奉納する式が行われた。京都新聞によれば、水無瀬神宮では、古代の菓子や遊びを体験する催しも開かれたという。 後鳥羽院は歌の人でもあった。隠岐の島で十九年を過ごし、都を思う歌を詠み続けたと伝わる。わたしも旅の空で都を思うことはあるが、帰れる旅と帰れぬ旅とでは、同じ月でも見え方がまるで違うだろう。 千四百年前の皇子と、八百年前の上皇。どちらの節目も、寺や神社が大切に祀り続けてきたからこそ迎えられた。この春は、ゆかりの地を訪ねる旅がいつも以上に意味を持ちそうだ。
聖徳太子の没後1400年、法隆寺で遠忌法要と救世観音の特別公開。後鳥羽院の隠岐遷幸から800年、ゆかりの神社には鎌倉の菓子
今年は聖徳太子の没後1400年。法隆寺では遠忌の法要が営まれ、夢殿の救世観音が特別に公開された。承久の乱に敗れた後鳥羽上皇が隠岐へ移されてから800年にもあたり、ゆかりの神社では古い菓子が奉納された。
千四百年という時の長さは、旅の身にもなかなか想像がつかない。楽天Womanに載った産経新聞の記事によれば、聖徳太子の没後1400年にあたり、奈良の法隆寺で遠忌の法要が営まれ、太子の遺徳がたたえられた。太子は用明天皇の皇子で、推古天皇のもと、十七条憲法や冠位十二階を定め、遣隋使を送ったことで知られる。 法隆寺では、ふだん目にできない像も姿を見せた。日本テレビ系のNews24によれば、夢殿に安置された国宝の救世観音像が特別に公開された。太子の姿を写した等身の像と言われ、長く秘仏として公開されてこなかったが、明治17年(1884年)にフェノロサが第一級の彫刻と絶賛したことから、春と秋に開かれるようになったという。大阪府八尾市でも、産経新聞によれば、太子と物部守屋のゆかりの地を紹介する動画を公開するなど、歴史資産を売り込む取り組みが始まった。 今年は、もう一つの節目の年でもある。承久3年(1221年)、鎌倉幕府と戦って敗れた後鳥羽上皇は、隠岐へ移された。47NEWSによれば、上皇を祭る隠岐神社(島根県海士町)と水無瀬神宮(大阪府島本町)で、命日の3日、上皇の時代の貴族が食べたと伝わる古代の菓子「索餅」などを同時に奉納する式が行われた。京都新聞によれば、水無瀬神宮では、古代の菓子や遊びを体験する催しも開かれたという。 後鳥羽院は歌の人でもあった。隠岐の島で十九年を過ごし、都を思う歌を詠み続けたと伝わる。わたしも旅の空で都を思うことはあるが、帰れる旅と帰れぬ旅とでは、同じ月でも見え方がまるで違うだろう。 千四百年前の皇子と、八百年前の上皇。どちらの節目も、寺や神社が大切に祀り続けてきたからこそ迎えられた。この春は、ゆかりの地を訪ねる旅がいつも以上に意味を持ちそうだ。
熊本地震から5年、熊本城天守閣の復旧が完了し一般公開へ。その陰で、文化財を直す人と材料は細るばかり
2016年の熊本地震で被災した熊本城の天守閣が修復を終え、5年ぶりに内部が一般公開される。一方で、各地の文化財の修理は必要性が増すなか、技を継ぐ人と伝統の原材料が不足する岐路に立っている。
地震から5年、城がようやく立ち直った。ZAKZAKによれば、2016年4月の熊本地震で被災した熊本城の天守閣が修復工事を終え、26日から内部の一般公開が始まる。西日本新聞によれば、報道陣に公開された天守閣の内部には、西南戦争以降の城の歴史を伝える展示が新たに加わり、築城から現代までの天守閣の歩みを詳しく紹介している。 ここで思い出しておきたいのは、今の熊本城天守閣は、西南戦争の直前に焼けた後、昭和に鉄骨鉄筋コンクリートで再建されたものだということだ。今回直ったのは、その昭和の天守閣である。加藤清正が築いたままの姿ではない。だが、昭和の市民が再建し、令和の人々が地震から立て直したという歩みもまた、城の歴史の一部だ。展示が「西南戦争以降の歴史」に目を向けたのは、筋が通っている。 もっとも、目に見える天守閣の復旧の陰で、もっと大きな問題が静かに進んでいる。朝日新聞によれば、文化財の修理は、先人の財産を後世に残すために欠かせない一方で、伝統技術の継承や素材の入手が難しくなり、岐路に立っている。修理の必要性は増すばかりなのに、それを担う人材と原材料は細っているのだという。 石垣を積み直す石工、屋根を葺く職人、絵や書を直す表具の技。どれも一朝一夕には育たない。熊本城の石垣の完全な復旧には、まだ長い年月がかかると言われる。天守閣の再開を喜ぶのはよいが、それで一件落着と思い込むのは早計である。 直すことは、建てることより難しい。元の姿がどうだったかを確かめ、元の材料と技で補う。その地道な仕事を担う人々がいてこそ、わたしたちは古い城や絵に出会い続けられるのだ。
熊本地震から5年、熊本城天守閣の復旧が完了し一般公開へ。その陰で、文化財を直す人と材料は細るばかり
2016年の熊本地震で被災した熊本城の天守閣が修復を終え、5年ぶりに内部が一般公開される。一方で、各地の文化財の修理は必要性が増すなか、技を継ぐ人と伝統の原材料が不足する岐路に立っている。
地震から5年、城がようやく立ち直った。ZAKZAKによれば、2016年4月の熊本地震で被災した熊本城の天守閣が修復工事を終え、26日から内部の一般公開が始まる。西日本新聞によれば、報道陣に公開された天守閣の内部には、西南戦争以降の城の歴史を伝える展示が新たに加わり、築城から現代までの天守閣の歩みを詳しく紹介している。 ここで思い出しておきたいのは、今の熊本城天守閣は、西南戦争の直前に焼けた後、昭和に鉄骨鉄筋コンクリートで再建されたものだということだ。今回直ったのは、その昭和の天守閣である。加藤清正が築いたままの姿ではない。だが、昭和の市民が再建し、令和の人々が地震から立て直したという歩みもまた、城の歴史の一部だ。展示が「西南戦争以降の歴史」に目を向けたのは、筋が通っている。 もっとも、目に見える天守閣の復旧の陰で、もっと大きな問題が静かに進んでいる。朝日新聞によれば、文化財の修理は、先人の財産を後世に残すために欠かせない一方で、伝統技術の継承や素材の入手が難しくなり、岐路に立っている。修理の必要性は増すばかりなのに、それを担う人材と原材料は細っているのだという。 石垣を積み直す石工、屋根を葺く職人、絵や書を直す表具の技。どれも一朝一夕には育たない。熊本城の石垣の完全な復旧には、まだ長い年月がかかると言われる。天守閣の再開を喜ぶのはよいが、それで一件落着と思い込むのは早計である。 直すことは、建てることより難しい。元の姿がどうだったかを確かめ、元の材料と技で補う。その地道な仕事を担う人々がいてこそ、わたしたちは古い城や絵に出会い続けられるのだ。
名古屋城の金シャチが県外へ初出張、木曽ヒノキの縁で中津川と木曽町へ。水攻めはVR、城泊は1泊100万円、城の商いは止まらない
名古屋城天守の金のしゃちほこが、旧尾張藩の縁で岐阜県中津川市と長野県木曽町を巡り、初めて愛知県の外で公開された。岡山市は秀吉の水攻めをVRにし、愛媛の大洲城では1泊100万円の城泊が人気を集めている。
まあ聞いてほしい。名古屋の金シャチが、とうとう旅に出た。中日新聞によれば、名古屋城天守の金のしゃちほこが、旧尾張藩時代から縁の深い岐阜県中津川市と長野県木曽町を6日の1日限りで巡り、道の駅で一般公開された。今の金シャチが愛知県の外に出るのは初めてだという。 なんで木曽なんや、と思うやろ。岐阜新聞によれば、中津川市の一部は江戸時代に尾張藩の領地で、名古屋城を築くための木材の産地だった。Yahoo!ニュースに載った記事によれば、木曽の良質な木材は尾張藩の財政や名古屋の町づくりを支え、2018年に復元された名古屋城本丸御殿にも木曽ヒノキが使われている。つまり金シャチの里帰りならぬ、材木へのお礼参りやな。 城の稼ぎ方は、ほかにもいろいろある。日本経済新聞によれば、岡山市は、羽柴秀吉が備中高松城を水攻めにした場面を再現するVR動画をこしらえる。エキサイトに載った記事によれば、城に泊まる「城泊」には7500組もの応募が殺到した。記事は、復元した木造の天守閣に1泊100万円で泊まれる愛媛県の大洲城を紹介している。アットエスによれば、静岡県の掛川城御殿の売店では、遠州木綿で作った首まで覆う「忍者マスク」の販売が始まった。 わしに言わせれば、城ほど元手のかからん看板はない。四百年前に殿さまが莫大な銭をかけて建ててくれたもんを、今の町が知恵を絞って使い回しとる。水攻めは画面の中、泊まるなら百万両、帰りに忍者の覆面を土産に買う。戦のための城が、ずいぶん商売上手になったもんや。 もっとも、金シャチを見に来た客が、木曽の山と尾張の城のつながりに思いをはせてくれたら、それが何よりの儲けや。物を売るついでに、歴史も一緒に売ってもらいたいもんやで。
名古屋城の金シャチが県外へ初出張、木曽ヒノキの縁で中津川と木曽町へ。水攻めはVR、城泊は1泊100万円、城の商いは止まらない
名古屋城天守の金のしゃちほこが、旧尾張藩の縁で岐阜県中津川市と長野県木曽町を巡り、初めて愛知県の外で公開された。岡山市は秀吉の水攻めをVRにし、愛媛の大洲城では1泊100万円の城泊が人気を集めている。
まあ聞いてほしい。名古屋の金シャチが、とうとう旅に出た。中日新聞によれば、名古屋城天守の金のしゃちほこが、旧尾張藩時代から縁の深い岐阜県中津川市と長野県木曽町を6日の1日限りで巡り、道の駅で一般公開された。今の金シャチが愛知県の外に出るのは初めてだという。 なんで木曽なんや、と思うやろ。岐阜新聞によれば、中津川市の一部は江戸時代に尾張藩の領地で、名古屋城を築くための木材の産地だった。Yahoo!ニュースに載った記事によれば、木曽の良質な木材は尾張藩の財政や名古屋の町づくりを支え、2018年に復元された名古屋城本丸御殿にも木曽ヒノキが使われている。つまり金シャチの里帰りならぬ、材木へのお礼参りやな。 城の稼ぎ方は、ほかにもいろいろある。日本経済新聞によれば、岡山市は、羽柴秀吉が備中高松城を水攻めにした場面を再現するVR動画をこしらえる。エキサイトに載った記事によれば、城に泊まる「城泊」には7500組もの応募が殺到した。記事は、復元した木造の天守閣に1泊100万円で泊まれる愛媛県の大洲城を紹介している。アットエスによれば、静岡県の掛川城御殿の売店では、遠州木綿で作った首まで覆う「忍者マスク」の販売が始まった。 わしに言わせれば、城ほど元手のかからん看板はない。四百年前に殿さまが莫大な銭をかけて建ててくれたもんを、今の町が知恵を絞って使い回しとる。水攻めは画面の中、泊まるなら百万両、帰りに忍者の覆面を土産に買う。戦のための城が、ずいぶん商売上手になったもんや。 もっとも、金シャチを見に来た客が、木曽の山と尾張の城のつながりに思いをはせてくれたら、それが何よりの儲けや。物を売るついでに、歴史も一緒に売ってもらいたいもんやで。
琉球は「帝国」だった? 八重山・宮古・奄美の側から中世の琉球を見直す、歴博の特集展示「海の帝国琉球」
国立歴史民俗博物館の特集展示「海の帝国琉球」は、海洋王国として語られてきた琉球を、攻め込まれた八重山・宮古・奄美の側から捉え直す。国宝の文書や重要文化財の梵鐘など400点を超える資料が並ぶという。
琉球王国といえば、アジアの海を股にかけた華やかな交易の国である。だがその陰で、琉球が言葉も習わしも違う周りの島々に攻め込み、従えていったことは、あまり語られてこなかった。歴博の発表によれば、この展示は琉球の「帝国」としての顔に目を据え、八重山・宮古・奄美の側から琉球を見直すものだという。島々の歴史は、琉球王府が編んだ歴史書をもとに語られてきた。勝った側の記録だけで負けた側を語ってよいのか。その問いが、展示の出発点にある。 手がかりは、土の中の物である。八重山・宮古の集落跡からは中国産の陶磁器が大量に見つかるという。西表島の古見遺跡の陶磁器は、島々が独自の文化圏だったことを物語る。王府に抗い、1500年に百艘の軍船に攻められて倒れた石垣島のオヤケアカハチも紹介される。毎日新聞は「アカハチは何を語るか」と見出しを立てた。一方、王府の側からは、尚真王の時代の円覚寺殿中鐘(重要文化財)が並び、銘には金象嵌で「尚真帝王」と刻まれているそうだ。島津家文書の国宝8点や、琉球を描いた古地図も展示替えをしながら見せるという。 「帝国」という言葉は強い。だが、銘文に自ら「帝王」と刻ませた王がいたことを思えば、あながち言い過ぎでもないのだろう。歴史は書き残した者の言い分で作られる。文字を持たなかった側の声を、陶片と遺跡から拾い上げようとする試みとして、目を引く展示である。
- 展覧会
- 特集展示「海の帝国琉球-八重山・宮古・奄美からみた中世-」
- 会場
- 国立歴史民俗博物館 企画展示室A(千葉県佐倉市城内町117)
- 会期
- 2021年3月16日(火)〜5月9日(日)※展示替えあり(前期 3月16日〜4月11日、後期 4月13日〜5月9日)
- 開館時間
- 9:30〜17:00(入館は16:30まで)
- 休館日
- 毎週月曜(休日の場合は翌日休館)
- 料金
- 一般 600円(団体350円) 大学生 250円(団体200円) 高校生以下は無料 総合展示もあわせて観覧可。高校生・大学生は学生証などの提示が必要 障がい者手帳などの保持者は、提示により介助者とともに無料
- 公式サイト
- https://www.rekihaku.ac.jp/news/20201217.html
※上記は2026年10月1日時点の情報です。会期・開館時間・料金などは変更される場合があります。お出かけの前に、正確な情報は公式サイトをご確認ください。
琉球は「帝国」だった? 八重山・宮古・奄美の側から中世の琉球を見直す、歴博の特集展示「海の帝国琉球」
国立歴史民俗博物館の特集展示「海の帝国琉球」は、海洋王国として語られてきた琉球を、攻め込まれた八重山・宮古・奄美の側から捉え直す。国宝の文書や重要文化財の梵鐘など400点を超える資料が並ぶという。
琉球王国といえば、アジアの海を股にかけた華やかな交易の国である。だがその陰で、琉球が言葉も習わしも違う周りの島々に攻め込み、従えていったことは、あまり語られてこなかった。歴博の発表によれば、この展示は琉球の「帝国」としての顔に目を据え、八重山・宮古・奄美の側から琉球を見直すものだという。島々の歴史は、琉球王府が編んだ歴史書をもとに語られてきた。勝った側の記録だけで負けた側を語ってよいのか。その問いが、展示の出発点にある。 手がかりは、土の中の物である。八重山・宮古の集落跡からは中国産の陶磁器が大量に見つかるという。西表島の古見遺跡の陶磁器は、島々が独自の文化圏だったことを物語る。王府に抗い、1500年に百艘の軍船に攻められて倒れた石垣島のオヤケアカハチも紹介される。毎日新聞は「アカハチは何を語るか」と見出しを立てた。一方、王府の側からは、尚真王の時代の円覚寺殿中鐘(重要文化財)が並び、銘には金象嵌で「尚真帝王」と刻まれているそうだ。島津家文書の国宝8点や、琉球を描いた古地図も展示替えをしながら見せるという。 「帝国」という言葉は強い。だが、銘文に自ら「帝王」と刻ませた王がいたことを思えば、あながち言い過ぎでもないのだろう。歴史は書き残した者の言い分で作られる。文字を持たなかった側の声を、陶片と遺跡から拾い上げようとする試みとして、目を引く展示である。
- 展覧会
- 特集展示「海の帝国琉球-八重山・宮古・奄美からみた中世-」
- 会場
- 国立歴史民俗博物館 企画展示室A(千葉県佐倉市城内町117)
- 会期
- 2021年3月16日(火)〜5月9日(日)※展示替えあり(前期 3月16日〜4月11日、後期 4月13日〜5月9日)
- 開館時間
- 9:30〜17:00(入館は16:30まで)
- 休館日
- 毎週月曜(休日の場合は翌日休館)
- 料金
- 一般 600円(団体350円) 大学生 250円(団体200円) 高校生以下は無料 総合展示もあわせて観覧可。高校生・大学生は学生証などの提示が必要 障がい者手帳などの保持者は、提示により介助者とともに無料
- 公式サイト
- https://www.rekihaku.ac.jp/news/20201217.html
※上記は2026年10月1日時点の情報です。会期・開館時間・料金などは変更される場合があります。お出かけの前に、正確な情報は公式サイトをご確認ください。
わが山の 檜で建てし 城の上 しゃちが礼にと 里へ下り来る
─ 木曽の杣人 ─
わが山の 檜で建てし 城の上 しゃちが礼にと 里へ下り来る
─ 木曽の杣人 ─
四月号は、京の三条で御所を拝む高山彦九郎から始めた。わしが北堀江で客を迎えとった頃、あの人は日本じゅうを歩いて回っとったわけで、同じ人つなぎでも足の使い方がまるで違う。 芭蕉翁は聖徳太子の1400年と後鳥羽院の800年という二つの節目をたずね、秋成はんは地震から立ち直った熊本城の陰で細る修理の技を案じております。西鶴はんは、木曽へ里帰りした金シャチと城の商いに大喜びですわ。 かわら版には、中之島の「島民」が136号で幕を下ろした話や、たつので見つかった秀吉の書状を拾うた。久留米では有馬家の入城から400年、鹿児島では戦国の絵幕が県の宝になり、月の裏を回った飛行士は旅立った。古いもんも新しいもんも、誰かが書き留めて並べといてくれるから今に残る。うちの号も、その棚のひと隅でありたいもんですな。
四月号は、京の三条で御所を拝む高山彦九郎から始めた。わしが北堀江で客を迎えとった頃、あの人は日本じゅうを歩いて回っとったわけで、同じ人つなぎでも足の使い方がまるで違う。 芭蕉翁は聖徳太子の1400年と後鳥羽院の800年という二つの節目をたずね、秋成はんは地震から立ち直った熊本城の陰で細る修理の技を案じております。西鶴はんは、木曽へ里帰りした金シャチと城の商いに大喜びですわ。 かわら版には、中之島の「島民」が136号で幕を下ろした話や、たつので見つかった秀吉の書状を拾うた。久留米では有馬家の入城から400年、鹿児島では戦国の絵幕が県の宝になり、月の裏を回った飛行士は旅立った。古いもんも新しいもんも、誰かが書き留めて並べといてくれるから今に残る。うちの号も、その棚のひと隅でありたいもんですな。