「尽未来際」の約束は雨に消えた——『青天を衝け』円四郎ロスと、慶喜の懐刀たち
5月30日放送の『青天を衝け』第16回で、堤真一さん演じる平岡円四郎が斬られた。「円四郎ロス」がネットを覆った週末、慶喜の側近たちが生きていたらという「もしも」を考える記事も出ている。
雨のなか、空へ伸ばされた一本の手。予告に映ったその手で、円四郎の運命を察していた視聴者も多かったらしい。それでも5月30日放送の『青天を衝け』第16回「恩人暗殺」は堪えた。堤真一さん演じる平岡円四郎の最期である。 シネマトゥデイによれば、放送が始まるや「円四郎ロス」を叫ぶ声があふれ、「平岡さま」がトレンド入りした。亡骸に駆け寄った草彅剛さんの慶喜が「尽未来際と申したではないか」と涙する場面には、「切なすぎる」「来週から円四郎さんがいないと思うと寂しすぎる」と声が相次いだという。 ドラマの円四郎は、栄一を一橋家に引き入れた恩人だ。前週の第15回を評したエンタメOVOのコラムは、薩摩に潜り込んだ栄一の掴んだ話が円四郎を通じて慶喜の耳に入り、慶喜が島津久光の野心に気づく流れを、主従と栄一のつながりとして巧みに描いたと評していた。その扇の要が、一週でぽっきり折れたわけである。 史実の円四郎が京で斬られたのは元治元年(1864)6月16日。サライ.jpの「青天を衝け 満喫リポート」で安田清人氏は、円四郎と、その後を継いで慶喜を支えた原市之進がともに生きていたら幕末はどう変わったか、を考えている。原は藤田東湖のいとこにあたる水戸藩きっての俊秀だが、兵庫開港の勅許に向けて根回しに動いたことが攘夷派の恨みを買い、やはり水戸藩士に殺された。二人が健在なら大政奉還から戊辰戦争への流れも違う形になり、パリにいた栄一が慶喜を首班とする政権の重要閣僚に迎えられたかもしれない、というのが安田氏の見立てだ。 商いの目で見れば、腕の立つ番頭を二人続けて失った店が傾かんはずがない。算盤の立つ奉公人ほど代わりはおらんもので、主人がどれほど賢うても、帳場を回す者がおらんでは店は持たん。ドラマの一橋家は、この穴をどう埋めるのか。円四郎に拾われた栄一の算盤が、いよいよ試されることになりそうだ。
「尽未来際」の約束は雨に消えた——『青天を衝け』円四郎ロスと、慶喜の懐刀たち
5月30日放送の『青天を衝け』第16回で、堤真一さん演じる平岡円四郎が斬られた。「円四郎ロス」がネットを覆った週末、慶喜の側近たちが生きていたらという「もしも」を考える記事も出ている。
雨のなか、空へ伸ばされた一本の手。予告に映ったその手で、円四郎の運命を察していた視聴者も多かったらしい。それでも5月30日放送の『青天を衝け』第16回「恩人暗殺」は堪えた。堤真一さん演じる平岡円四郎の最期である。 シネマトゥデイによれば、放送が始まるや「円四郎ロス」を叫ぶ声があふれ、「平岡さま」がトレンド入りした。亡骸に駆け寄った草彅剛さんの慶喜が「尽未来際と申したではないか」と涙する場面には、「切なすぎる」「来週から円四郎さんがいないと思うと寂しすぎる」と声が相次いだという。 ドラマの円四郎は、栄一を一橋家に引き入れた恩人だ。前週の第15回を評したエンタメOVOのコラムは、薩摩に潜り込んだ栄一の掴んだ話が円四郎を通じて慶喜の耳に入り、慶喜が島津久光の野心に気づく流れを、主従と栄一のつながりとして巧みに描いたと評していた。その扇の要が、一週でぽっきり折れたわけである。 史実の円四郎が京で斬られたのは元治元年(1864)6月16日。サライ.jpの「青天を衝け 満喫リポート」で安田清人氏は、円四郎と、その後を継いで慶喜を支えた原市之進がともに生きていたら幕末はどう変わったか、を考えている。原は藤田東湖のいとこにあたる水戸藩きっての俊秀だが、兵庫開港の勅許に向けて根回しに動いたことが攘夷派の恨みを買い、やはり水戸藩士に殺された。二人が健在なら大政奉還から戊辰戦争への流れも違う形になり、パリにいた栄一が慶喜を首班とする政権の重要閣僚に迎えられたかもしれない、というのが安田氏の見立てだ。 商いの目で見れば、腕の立つ番頭を二人続けて失った店が傾かんはずがない。算盤の立つ奉公人ほど代わりはおらんもので、主人がどれほど賢うても、帳場を回す者がおらんでは店は持たん。ドラマの一橋家は、この穴をどう埋めるのか。円四郎に拾われた栄一の算盤が、いよいよ試されることになりそうだ。
地の底を描いた筆、「世界の記憶」になって十年——山本作兵衛の炭坑記録画
筑豊の炭坑で働いた山本作兵衛の記録画が、日本で初めてユネスコ「世界の記憶」に登録されて10年。田川市美術館では、紙芝居の原画も並ぶ記念展が開かれている。
低い坑道に身を横たえるようにしてツルハシを振る男と、掘った石炭を運び出す女。絵の余白には、道具の名前や作業の段取りが細かな字でびっしり書き込まれている。筑豊の炭坑を描いた山本作兵衛(1892〜1984)の記録画である。 2011年5月、作兵衛の炭坑記録画を中心とする697点が、日本で初めてユネスコ「世界の記憶」に登録された。それから10年。田川市美術館では5月18日から、記念展「作兵衛さんと生きている」が開かれている。西日本新聞によると、作兵衛の紙芝居など27点が並ぶという。田川市石炭・歴史博物館、田川市立図書館と連携した催しで、会期は6月27日まで。 作兵衛は子どものころから親について坑内に入り、筑豊のあちこちのヤマを渡り歩きながら半世紀あまり働いた。本格的に絵筆を執ったのは60歳を過ぎてから。戦地で長男を亡くしたことを機に、「子や孫にヤマの生活や人情をのこしたい」と描きはじめた絵は、千点を超える。絵を習ったことはない。そのかわり、自分の目で見て体で覚えたことを、絵と文の両方で残した。記録画と呼ばれるゆえんである。 展示の目玉のひとつが、紙芝居『筑豊一代』の原画だ。2020年に飯塚市で見つかったもので、炭坑の事故で妻と長男を失う主人公の一代記を通して、ヤマに生きた人の苦しみを描いている。記録画とはまた違う、語りかける作兵衛がそこにいる。 旅の途中で「夏草や兵どもが夢の跡」と詠んだとき、目の前には草しか残っていなかった。夢の跡を描き残してくれる人は、たいていいないものだ。作兵衛は、ヤマが消えていくのを見ながら、自分の手でその跡を描き留めた。筑豊のボタ山がすっかり緑に覆われた今、あの細かな書き込みの一字一字が、何よりの道しるべになっている。
地の底を描いた筆、「世界の記憶」になって十年——山本作兵衛の炭坑記録画
筑豊の炭坑で働いた山本作兵衛の記録画が、日本で初めてユネスコ「世界の記憶」に登録されて10年。田川市美術館では、紙芝居の原画も並ぶ記念展が開かれている。
低い坑道に身を横たえるようにしてツルハシを振る男と、掘った石炭を運び出す女。絵の余白には、道具の名前や作業の段取りが細かな字でびっしり書き込まれている。筑豊の炭坑を描いた山本作兵衛(1892〜1984)の記録画である。 2011年5月、作兵衛の炭坑記録画を中心とする697点が、日本で初めてユネスコ「世界の記憶」に登録された。それから10年。田川市美術館では5月18日から、記念展「作兵衛さんと生きている」が開かれている。西日本新聞によると、作兵衛の紙芝居など27点が並ぶという。田川市石炭・歴史博物館、田川市立図書館と連携した催しで、会期は6月27日まで。 作兵衛は子どものころから親について坑内に入り、筑豊のあちこちのヤマを渡り歩きながら半世紀あまり働いた。本格的に絵筆を執ったのは60歳を過ぎてから。戦地で長男を亡くしたことを機に、「子や孫にヤマの生活や人情をのこしたい」と描きはじめた絵は、千点を超える。絵を習ったことはない。そのかわり、自分の目で見て体で覚えたことを、絵と文の両方で残した。記録画と呼ばれるゆえんである。 展示の目玉のひとつが、紙芝居『筑豊一代』の原画だ。2020年に飯塚市で見つかったもので、炭坑の事故で妻と長男を失う主人公の一代記を通して、ヤマに生きた人の苦しみを描いている。記録画とはまた違う、語りかける作兵衛がそこにいる。 旅の途中で「夏草や兵どもが夢の跡」と詠んだとき、目の前には草しか残っていなかった。夢の跡を描き残してくれる人は、たいていいないものだ。作兵衛は、ヤマが消えていくのを見ながら、自分の手でその跡を描き留めた。筑豊のボタ山がすっかり緑に覆われた今、あの細かな書き込みの一字一字が、何よりの道しるべになっている。
東大寺を望む丘に、類例のない円形の建物跡。大仏造立に尽くした行基の供養堂か、奈良の菅原遺跡に保存を求める声
奈良市の菅原遺跡で、8世紀半ばの類例のない円形建物と大規模な回廊の跡が見つかった。東大寺の大仏造立に尽くした高僧・行基ゆかりの寺の跡とみられ、研究者や市民は現地での保存を求めている。
奈良の丘の上から、これまでに例のない形の建物跡が出てきた。毎日新聞によれば、元興寺文化財研究所は20日、奈良市疋田町の菅原遺跡で、8世紀半ばの円形建物と大規模な回廊の跡を確認したと発表した。東大寺の大仏造立を指揮した奈良時代の高僧・行基(668〜749年)ゆかりの寺「長岡院」があったとされる場所で、行基を供養した建物ではないかとみられている。 さて、ここは慎重に読みたい。「行基の供養堂か」の「か」が肝心だ。円形の建物は、奈良時代の寺の建物としては類例がない。類例がないということは、比べて確かめる相手もないということである。文献に見える「長岡院」と、この建物跡とをどう結びつけるのか。その筋道を、報告できちんと示してもらいたい。 とはいえ、見つかったものの値打ちは疑いようがない。奈良新聞によれば、研究者や教員、市民らでつくる「文化財保存全国協議会」と「奈良歴史遺産市民ネットワーク」は24日付で、遺跡の現地保存を求める要望書を県などに出した。掘って記録を取ったら埋めてしまう、あるいは壊してしまうのでは、後の世の人が確かめ直すすべがなくなる。 東大寺でも、この月は大仏を造った人々がしのばれた。朝日新聞によれば、大仏建立に尽力した聖武天皇の命日とされる2日、東大寺で「聖武天皇祭」が営まれ、今年もコロナの終息が祈られた。聖武天皇が大仏を造ると決めたとき、民衆に慕われた行基を起用したことはよく知られている。 古い鏡も、来歴を語りはじめている。朝日新聞によれば、大塚山古墳から出た一見さびだらけの鉄の円板が、竜の象眼模様を隠した鏡だと分かり、古代東アジアの交流を映す品として注目されている。さびの下に何が隠れているか。確かめるまでは、決めつけないことである。
東大寺を望む丘に、類例のない円形の建物跡。大仏造立に尽くした行基の供養堂か、奈良の菅原遺跡に保存を求める声
奈良市の菅原遺跡で、8世紀半ばの類例のない円形建物と大規模な回廊の跡が見つかった。東大寺の大仏造立に尽くした高僧・行基ゆかりの寺の跡とみられ、研究者や市民は現地での保存を求めている。
奈良の丘の上から、これまでに例のない形の建物跡が出てきた。毎日新聞によれば、元興寺文化財研究所は20日、奈良市疋田町の菅原遺跡で、8世紀半ばの円形建物と大規模な回廊の跡を確認したと発表した。東大寺の大仏造立を指揮した奈良時代の高僧・行基(668〜749年)ゆかりの寺「長岡院」があったとされる場所で、行基を供養した建物ではないかとみられている。 さて、ここは慎重に読みたい。「行基の供養堂か」の「か」が肝心だ。円形の建物は、奈良時代の寺の建物としては類例がない。類例がないということは、比べて確かめる相手もないということである。文献に見える「長岡院」と、この建物跡とをどう結びつけるのか。その筋道を、報告できちんと示してもらいたい。 とはいえ、見つかったものの値打ちは疑いようがない。奈良新聞によれば、研究者や教員、市民らでつくる「文化財保存全国協議会」と「奈良歴史遺産市民ネットワーク」は24日付で、遺跡の現地保存を求める要望書を県などに出した。掘って記録を取ったら埋めてしまう、あるいは壊してしまうのでは、後の世の人が確かめ直すすべがなくなる。 東大寺でも、この月は大仏を造った人々がしのばれた。朝日新聞によれば、大仏建立に尽力した聖武天皇の命日とされる2日、東大寺で「聖武天皇祭」が営まれ、今年もコロナの終息が祈られた。聖武天皇が大仏を造ると決めたとき、民衆に慕われた行基を起用したことはよく知られている。 古い鏡も、来歴を語りはじめている。朝日新聞によれば、大塚山古墳から出た一見さびだらけの鉄の円板が、竜の象眼模様を隠した鏡だと分かり、古代東アジアの交流を映す品として注目されている。さびの下に何が隠れているか。確かめるまでは、決めつけないことである。
桶狭間に散った今川義元の葬儀の段取りを記した原本が臨済寺で見つかる。藤村『新生』の節子こと島崎こま子の手紙、川端康成の弔辞も
静岡市の臨済寺で、今川義元の葬儀の段取りを記した文書など新史料5点が見つかった。長野県諏訪市では島崎藤村の姪・こま子の自筆の手紙が、東京では川端康成が親友の大宅壮一に贈った弔辞が見つかっている。
紙一枚が、人の最期や心の揺れを生々しく伝えることがある。アットエスによれば、静岡市は18日、今川義元に関する新たな文書史料5点が、今川氏の菩提寺である葵区の臨済寺から見つかったと発表した。その一つは、永禄3年(1560年)6月5日に営まれた義元の葬儀の段取りを記したものだという。朝日新聞によれば、この文書は写しが知られていたが、今回のものは原本とみられる。 義元が桶狭間で織田信長に討たれたのは、その年の5月。わずかひと月足らずで、葬儀の手順を整えたことになる。大国の主を突然失った今川家が、どんな思いで葬儀を執り行ったのか。原本の筆づかいから、当時の人々の慌ただしさや悲しみを読み取れるかもしれない。 近代の文学史にかかわる手紙も出てきた。長野日報によれば、島崎藤村の小説『新生』に「節子」として登場する、藤村の姪・島崎こま子の自筆の手紙が、諏訪市の民家から見つかった。こま子と幼なじみだった人の家に伝わったものだという。叔父との関係を小説にされたこま子自身の言葉が、どんな形で残っているのか。興味は尽きない。 東京新聞によれば、川端康成が親友の大宅壮一に贈った直筆の弔辞も見つかった。見出しには「やさしさと気弱さと…」という言葉が見える。日本経済新聞によれば、京都では、上村松園の日本画が100年ぶりに見つかり、初めて公開されている。 わたしも古い書き付けや手紙を集めてきたが、名の知れた人の手紙ほど、表向きの顔とは違う素顔がのぞく。葬儀の段取り一枚、弔辞一通が、教科書の歴史と違う、人の息づかいの歴史を伝えてくれるのである。
桶狭間に散った今川義元の葬儀の段取りを記した原本が臨済寺で見つかる。藤村『新生』の節子こと島崎こま子の手紙、川端康成の弔辞も
静岡市の臨済寺で、今川義元の葬儀の段取りを記した文書など新史料5点が見つかった。長野県諏訪市では島崎藤村の姪・こま子の自筆の手紙が、東京では川端康成が親友の大宅壮一に贈った弔辞が見つかっている。
紙一枚が、人の最期や心の揺れを生々しく伝えることがある。アットエスによれば、静岡市は18日、今川義元に関する新たな文書史料5点が、今川氏の菩提寺である葵区の臨済寺から見つかったと発表した。その一つは、永禄3年(1560年)6月5日に営まれた義元の葬儀の段取りを記したものだという。朝日新聞によれば、この文書は写しが知られていたが、今回のものは原本とみられる。 義元が桶狭間で織田信長に討たれたのは、その年の5月。わずかひと月足らずで、葬儀の手順を整えたことになる。大国の主を突然失った今川家が、どんな思いで葬儀を執り行ったのか。原本の筆づかいから、当時の人々の慌ただしさや悲しみを読み取れるかもしれない。 近代の文学史にかかわる手紙も出てきた。長野日報によれば、島崎藤村の小説『新生』に「節子」として登場する、藤村の姪・島崎こま子の自筆の手紙が、諏訪市の民家から見つかった。こま子と幼なじみだった人の家に伝わったものだという。叔父との関係を小説にされたこま子自身の言葉が、どんな形で残っているのか。興味は尽きない。 東京新聞によれば、川端康成が親友の大宅壮一に贈った直筆の弔辞も見つかった。見出しには「やさしさと気弱さと…」という言葉が見える。日本経済新聞によれば、京都では、上村松園の日本画が100年ぶりに見つかり、初めて公開されている。 わたしも古い書き付けや手紙を集めてきたが、名の知れた人の手紙ほど、表向きの顔とは違う素顔がのぞく。葬儀の段取り一枚、弔辞一通が、教科書の歴史と違う、人の息づかいの歴史を伝えてくれるのである。
乱歩も横溝も井上靖もここから出た。伝説の雑誌『新青年』をたどる展覧会、乱歩賞は贈呈式を初公開、文豪の怪談展まで
江戸川乱歩や横溝正史を世に出した雑誌『新青年』の歴史をたどる展覧会とアンソロジーが話題だ。江戸川乱歩賞の贈呈式は初めて一般に公開されることになり、群馬の文学館では漱石や鴎外らの怪談を集めた企画展が開かれている。
まあ聞いてほしい。謎解きと怖い話は、いつの世も売れる。朝日新聞によれば、江戸川乱歩や横溝正史がデビューした雑誌『新青年』の歴史を概観する『「新青年」名作コレクション』(ちくま文庫)が出て、その歴史をたどる展覧会も開かれている。日本の探偵小説の文壇を引っ張る一方で、戦前のモダニズム文化を伝えた雑誌である。 神奈川新聞のカナロコは、展覧会にちなむ連載で、意外な顔ぶれを紹介している。井上靖の実質的なデビュー作は、冬木荒之介の名で『新青年』1932年3月号に載った探偵小説「謎の女」だったという。関東大震災の後、急速に復興する都市のモダン文化を映して、誌面にはおしゃれの欄まであったそうや。 乱歩の名は、今も生きとる。日本経済新聞によれば、日本推理作家協会は、11月に予定する江戸川乱歩賞の贈呈式を、東京都豊島区の協力を得て初めて一般に公開すると発表した。文学賞の贈呈式は、ふつうは関係者だけで開かれるものだという。 怖い話のほうも負けてへん。ライブドアニュースに載った記事によれば、群馬県立土屋文明記念文学館では、企画展「怪談―こわい話に花が咲く―」が開かれ、夏目漱石や森鴎外、芥川龍之介らの怪談作品を中心に紹介している。 わしも、裁きの話を集めた本を書いたことがある。人がなぜ罪を犯し、どう暴かれるのか。そういう話に客が飛びつくのは、三百年前も百年前も今も変わらん。探偵小説も怪談も、人の心の暗いところをのぞきたいという、しょうもない、けど正直な欲を満たす商売や。
乱歩も横溝も井上靖もここから出た。伝説の雑誌『新青年』をたどる展覧会、乱歩賞は贈呈式を初公開、文豪の怪談展まで
江戸川乱歩や横溝正史を世に出した雑誌『新青年』の歴史をたどる展覧会とアンソロジーが話題だ。江戸川乱歩賞の贈呈式は初めて一般に公開されることになり、群馬の文学館では漱石や鴎外らの怪談を集めた企画展が開かれている。
まあ聞いてほしい。謎解きと怖い話は、いつの世も売れる。朝日新聞によれば、江戸川乱歩や横溝正史がデビューした雑誌『新青年』の歴史を概観する『「新青年」名作コレクション』(ちくま文庫)が出て、その歴史をたどる展覧会も開かれている。日本の探偵小説の文壇を引っ張る一方で、戦前のモダニズム文化を伝えた雑誌である。 神奈川新聞のカナロコは、展覧会にちなむ連載で、意外な顔ぶれを紹介している。井上靖の実質的なデビュー作は、冬木荒之介の名で『新青年』1932年3月号に載った探偵小説「謎の女」だったという。関東大震災の後、急速に復興する都市のモダン文化を映して、誌面にはおしゃれの欄まであったそうや。 乱歩の名は、今も生きとる。日本経済新聞によれば、日本推理作家協会は、11月に予定する江戸川乱歩賞の贈呈式を、東京都豊島区の協力を得て初めて一般に公開すると発表した。文学賞の贈呈式は、ふつうは関係者だけで開かれるものだという。 怖い話のほうも負けてへん。ライブドアニュースに載った記事によれば、群馬県立土屋文明記念文学館では、企画展「怪談―こわい話に花が咲く―」が開かれ、夏目漱石や森鴎外、芥川龍之介らの怪談作品を中心に紹介している。 わしも、裁きの話を集めた本を書いたことがある。人がなぜ罪を犯し、どう暴かれるのか。そういう話に客が飛びつくのは、三百年前も百年前も今も変わらん。探偵小説も怪談も、人の心の暗いところをのぞきたいという、しょうもない、けど正直な欲を満たす商売や。
マキシミリアノ・マリア・コルベ
長崎で雑誌『聖母の騎士』を刷り、アウシュヴィッツで他人の身代わりとなった神父
1941年の夏、アウシュヴィッツ強制収容所。脱走者が出た連帯責任として、囚人の中から10人が餓死刑に選ばれた。その一人で妻子のある男の身代わりを名乗り出たのが、ポーランド人の神父コルベ(1894〜1941)である。 織物職人の家に生まれ、コンベンツァル聖フランシスコ会に入った。ローマで学んでいた頃、仲間とともに「無原罪の聖母の騎士会」を興している。1930年にはゼノ修道士らと長崎に上陸し、ひと月後には日本語の雑誌『聖母の騎士』を1万部刷り上げた。南山手で始めた拠点は、やがて彦山のふもと、本河内の斜面に建てた修道院へ移る。6年ほどの長崎暮らしののちポーランドへ戻り、第二次世界大戦のさなかに捕らえられて、冒頭の収容所へ送られた。餓死牢で2週間を生き延びた末、毒物を注射されて47歳で世を去った。1982年には聖人に列せられた。 本河内の修道院はいまも残り、聖コルベ記念館には長崎時代の日記や印刷機が並ぶ。かわら版で触れた小崎登明修道士は、被爆ののちこの修道院の門をくぐった人だ。その人が書き残したコルベ神父の本が、今度は英語になって海を渡る。記念館の印刷機、わたしもいっぺん間近で見てみたいもんやなあ。
マキシミリアノ・マリア・コルベ
長崎で雑誌『聖母の騎士』を刷り、アウシュヴィッツで他人の身代わりとなった神父
1941年の夏、アウシュヴィッツ強制収容所。脱走者が出た連帯責任として、囚人の中から10人が餓死刑に選ばれた。その一人で妻子のある男の身代わりを名乗り出たのが、ポーランド人の神父コルベ(1894〜1941)である。 織物職人の家に生まれ、コンベンツァル聖フランシスコ会に入った。ローマで学んでいた頃、仲間とともに「無原罪の聖母の騎士会」を興している。1930年にはゼノ修道士らと長崎に上陸し、ひと月後には日本語の雑誌『聖母の騎士』を1万部刷り上げた。南山手で始めた拠点は、やがて彦山のふもと、本河内の斜面に建てた修道院へ移る。6年ほどの長崎暮らしののちポーランドへ戻り、第二次世界大戦のさなかに捕らえられて、冒頭の収容所へ送られた。餓死牢で2週間を生き延びた末、毒物を注射されて47歳で世を去った。1982年には聖人に列せられた。 本河内の修道院はいまも残り、聖コルベ記念館には長崎時代の日記や印刷機が並ぶ。かわら版で触れた小崎登明修道士は、被爆ののちこの修道院の門をくぐった人だ。その人が書き残したコルベ神父の本が、今度は英語になって海を渡る。記念館の印刷機、わたしもいっぺん間近で見てみたいもんやなあ。
桶狭間 散りてひと月 葬儀の日 段取り記す 筆の震えよ
─ 臨済寺の筆耕 ─
桶狭間 散りてひと月 葬儀の日 段取り記す 筆の震えよ
─ 臨済寺の筆耕 ─
五月号は、雨の京で斃れた平岡円四郎から始めた。西鶴はんは「番頭を二人も失うたら店は傾く」と例によって勘定から入るけれど、ほんまにそのとおりで、人ひとりの穴は帳面の上だけでは埋まらん。 芭蕉はんが書いた山本作兵衛の記録画は、余白の書き込みがええ。絵だけでは分からんことを字で足し、字だけでは伝わらんことを絵で足す。うちの標本箱の札書きも、見習わんとあきませんな。秋成はんは菅原遺跡の円形建物跡に「行基の供養堂か、の『か』が肝心や」と釘を刺し、西鶴はんは『新青年』と探偵小説の人気に目を細めております。わたしは今川義元の葬儀の段取りや島崎こま子の手紙など、紙の新発見を担当しました。 かわら版には、百年前のスペイン風邪を病んだ朔太郎とムンクの話を並べて拾うた。手紙一本、自画像一枚が、流行り病の時代の空気をいまに運んでくる。書き留めて残すいうのは、やっぱり大事な仕事や。
五月号は、雨の京で斃れた平岡円四郎から始めた。西鶴はんは「番頭を二人も失うたら店は傾く」と例によって勘定から入るけれど、ほんまにそのとおりで、人ひとりの穴は帳面の上だけでは埋まらん。 芭蕉はんが書いた山本作兵衛の記録画は、余白の書き込みがええ。絵だけでは分からんことを字で足し、字だけでは伝わらんことを絵で足す。うちの標本箱の札書きも、見習わんとあきませんな。秋成はんは菅原遺跡の円形建物跡に「行基の供養堂か、の『か』が肝心や」と釘を刺し、西鶴はんは『新青年』と探偵小説の人気に目を細めております。わたしは今川義元の葬儀の段取りや島崎こま子の手紙など、紙の新発見を担当しました。 かわら版には、百年前のスペイン風邪を病んだ朔太郎とムンクの話を並べて拾うた。手紙一本、自画像一枚が、流行り病の時代の空気をいまに運んでくる。書き留めて残すいうのは、やっぱり大事な仕事や。