比叡の山に千二百年の灯——延暦寺で最澄の1200年大遠忌法要
天台宗の開祖・最澄が亡くなってから1200年。命日の6月4日、比叡山延暦寺で大遠忌の法要が営まれ、開祖の遺徳がしのばれた。
梅雨入り前の比叡の山は、杉の香りが濃い。その山上で6月4日、天台宗の開祖・最澄の1200年大遠忌法要が営まれた。 最澄が比叡山で亡くなったのは弘仁13年(822)の6月4日。つまりこの日は、ちょうど千二百回目の命日にあたる。延暦寺では開祖の遺徳をしのんで法要が勤められたと、朝日新聞や毎日新聞が伝えている。 最澄は近江の生まれで、若くして比叡山に草庵を結び、のちに唐へ渡って天台の教えを持ち帰った。比叡山に大乗戒壇を設けることを願い続けたが、その許しが出たのは亡くなった直後のことだったという。没後には朝廷から「伝教大師」の号が贈られ、これが日本で最初の大師号とされる。 比叡山からは、のちに法然、親鸞、道元、日蓮といった人々が巣立っていった。鎌倉時代の新しい仏教の祖師たちが、みなこの山で学んでいるのだから、「日本仏教の母山」と呼ばれるのもうなずける。一人の僧が開いた小さな草庵が、千二百年のあいだに、これほど大きな流れの源になったわけだ。 わたしが眠る大津の義仲寺からも、比叡の峰はよく見える。旅の途中、湖のほとりから何度あの山を仰いだことか。山上の根本中堂には、最澄がともしたと伝わる「不滅の法灯」が今も燃え続けているそうだ。千二百年消えずにきた灯と聞けば、それだけで一度は拝みに登ってみたくなる。 大遠忌の記念の行事は、これからも各地で続くらしい。山の上の灯に思いを寄せながら、秋にでも杖を向けてみたいものである。
比叡の山に千二百年の灯——延暦寺で最澄の1200年大遠忌法要
天台宗の開祖・最澄が亡くなってから1200年。命日の6月4日、比叡山延暦寺で大遠忌の法要が営まれ、開祖の遺徳がしのばれた。
梅雨入り前の比叡の山は、杉の香りが濃い。その山上で6月4日、天台宗の開祖・最澄の1200年大遠忌法要が営まれた。 最澄が比叡山で亡くなったのは弘仁13年(822)の6月4日。つまりこの日は、ちょうど千二百回目の命日にあたる。延暦寺では開祖の遺徳をしのんで法要が勤められたと、朝日新聞や毎日新聞が伝えている。 最澄は近江の生まれで、若くして比叡山に草庵を結び、のちに唐へ渡って天台の教えを持ち帰った。比叡山に大乗戒壇を設けることを願い続けたが、その許しが出たのは亡くなった直後のことだったという。没後には朝廷から「伝教大師」の号が贈られ、これが日本で最初の大師号とされる。 比叡山からは、のちに法然、親鸞、道元、日蓮といった人々が巣立っていった。鎌倉時代の新しい仏教の祖師たちが、みなこの山で学んでいるのだから、「日本仏教の母山」と呼ばれるのもうなずける。一人の僧が開いた小さな草庵が、千二百年のあいだに、これほど大きな流れの源になったわけだ。 わたしが眠る大津の義仲寺からも、比叡の峰はよく見える。旅の途中、湖のほとりから何度あの山を仰いだことか。山上の根本中堂には、最澄がともしたと伝わる「不滅の法灯」が今も燃え続けているそうだ。千二百年消えずにきた灯と聞けば、それだけで一度は拝みに登ってみたくなる。 大遠忌の記念の行事は、これからも各地で続くらしい。山の上の灯に思いを寄せながら、秋にでも杖を向けてみたいものである。
山が崩れ、海が襲った——「島原大変肥後迷惑」を島原図書館の企画展で読む
寛政4年(1792)、雲仙の眉山が崩れて有明海に大津波を起こした「島原大変」。その絵図や古文書を紹介する企画展が長崎県の島原図書館で開かれ、「人々の行動、現代と重なる」との声が上がっている。
寛政4年(1792)といえば、わたしがまだ大坂に住まいしていた頃の話である。その年、九州の島原で、日本の災害史に残る大惨事が起きた。世に「島原大変肥後迷惑」と呼ばれる出来事だ。 この年、雲仙の火山活動が続くなか、島原の城下の背後にそびえる眉山が大きく崩れ落ちた。土砂は有明海になだれ込んで大津波を起こし、島原の町だけでなく、海を隔てた対岸の肥後の村々まで襲った。犠牲者は1万5千人ほどにのぼったとされ、火山がらみの災害としては国内最大級といわれる。山が崩れたのが島原で、津波の被害を受けたのが肥後だったから「島原大変肥後迷惑」。言い得て妙だが、笑える話ではない。 その「島原大変」を、当時の絵図や古文書で紹介する企画展が、長崎県の島原図書館で開かれている。朝日新聞によれば、展示を通して見えてくる当時の人々の行動は「現代と重なる」のだという。 さて、何が重なるのか。記事の細部までは知らないが、災害の記録というものは、たいてい同じことを繰り返し書いている。前触れの地震に人々がどう動いたか。逃げた者と、残った者。噂が噂を呼んで、町がどう揺れたか。そういう記録を読むたびに思うのは、人は災いの前兆を、見たいようにしか見ないということだ。わたしが『雨月物語』に書いた怪異より、よほど恐ろしい。 しかも、この手の話は時がたつと美談か教訓話に丸められがちである。「先人はこうして災害を乗り越えた」とまとめてしまえば聞こえはよいが、本当にそうだったのか。絵図や古文書そのものに当たってこそ、丸められる前の生々しい姿が見えてくる。企画展の値打ちはそこにあるのだろう。 二百三十年前の島原の人々が、何を見落とし、何を記したのか。いま災害と隣り合わせに暮らす我々にとっても、一度は目を通しておくべき記録である。
山が崩れ、海が襲った——「島原大変肥後迷惑」を島原図書館の企画展で読む
寛政4年(1792)、雲仙の眉山が崩れて有明海に大津波を起こした「島原大変」。その絵図や古文書を紹介する企画展が長崎県の島原図書館で開かれ、「人々の行動、現代と重なる」との声が上がっている。
寛政4年(1792)といえば、わたしがまだ大坂に住まいしていた頃の話である。その年、九州の島原で、日本の災害史に残る大惨事が起きた。世に「島原大変肥後迷惑」と呼ばれる出来事だ。 この年、雲仙の火山活動が続くなか、島原の城下の背後にそびえる眉山が大きく崩れ落ちた。土砂は有明海になだれ込んで大津波を起こし、島原の町だけでなく、海を隔てた対岸の肥後の村々まで襲った。犠牲者は1万5千人ほどにのぼったとされ、火山がらみの災害としては国内最大級といわれる。山が崩れたのが島原で、津波の被害を受けたのが肥後だったから「島原大変肥後迷惑」。言い得て妙だが、笑える話ではない。 その「島原大変」を、当時の絵図や古文書で紹介する企画展が、長崎県の島原図書館で開かれている。朝日新聞によれば、展示を通して見えてくる当時の人々の行動は「現代と重なる」のだという。 さて、何が重なるのか。記事の細部までは知らないが、災害の記録というものは、たいてい同じことを繰り返し書いている。前触れの地震に人々がどう動いたか。逃げた者と、残った者。噂が噂を呼んで、町がどう揺れたか。そういう記録を読むたびに思うのは、人は災いの前兆を、見たいようにしか見ないということだ。わたしが『雨月物語』に書いた怪異より、よほど恐ろしい。 しかも、この手の話は時がたつと美談か教訓話に丸められがちである。「先人はこうして災害を乗り越えた」とまとめてしまえば聞こえはよいが、本当にそうだったのか。絵図や古文書そのものに当たってこそ、丸められる前の生々しい姿が見えてくる。企画展の値打ちはそこにあるのだろう。 二百三十年前の島原の人々が、何を見落とし、何を記したのか。いま災害と隣り合わせに暮らす我々にとっても、一度は目を通しておくべき記録である。
『平家物語』が名指しした男——安禄山は「逆臣」か、それとも「聖人」か
『平家物語』の冒頭で、国を傾けた者の一人に数えられる唐の安禄山。その人物像を「逆臣」か「聖人」かと問い直す読み物が、6月に上下2回で公開された。書物好きの目で、この問いを追ってみる。
祇園精舎の鐘の声、で始まる『平家物語』。あの冒頭には、続きがあるのをご存じだろうか。遠く異国を見れば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の禄山——と、主君に背いて天下を乱し、たちまち滅んだ者たちの名が並ぶ。その最後に名指しされているのが、唐の安禄山である。 その安禄山を「逆臣」か「聖人」かと問い直す読み物が、6月に上下2回に分けて公開された。『平家物語』のこの一節から書き起こし、安禄山という人物の実像に迫る内容だ。 記事によれば、安禄山は8世紀の初めに生まれたが、史料によって記録がまちまちで、正確な生年は分からない。漢字の姓名を持ちながら漢人ではなく、ソグド系の突厥人だった。生まれはモンゴル高原ともいわれるという。 ここで、うちのような物好きが身を乗り出すのは、若い頃の安禄山の商売のほうや。唐の正史には、彼がいくつもの異民族の言葉を操り、辺境の交易場で取引の仲立ちをする「互市牙郎」をしていたと記されている。言葉と商いで身を立てた男が、やがて玄宗皇帝の信任を得て節度使に取り立てられ、ついには755年に反乱を起こす。いわゆる安史の乱である。 日本では長く、楊貴妃と並ぶ唐の傾国の元凶として語られてきた。『平家物語』の書き手にとっても、安禄山は「おごれる者」の見本だったわけだ。けれど、その評価はあくまで唐の側、漢人の側から見たものでもある。国境の町で生まれ育ち、いくつもの言葉と文化のあいだを渡り歩いた男が、別の人々の目にはどう映っていたのか。「聖人」という言葉には、その問いが込められているのだろう。 同じ人物でも、どの書物を通して見るかで顔が変わる。だからこそ、書物は一冊では足りん。うちの書庫の唐土の本も、久しぶりに引っぱり出して読み比べてみとうなった。
『平家物語』が名指しした男——安禄山は「逆臣」か、それとも「聖人」か
『平家物語』の冒頭で、国を傾けた者の一人に数えられる唐の安禄山。その人物像を「逆臣」か「聖人」かと問い直す読み物が、6月に上下2回で公開された。書物好きの目で、この問いを追ってみる。
祇園精舎の鐘の声、で始まる『平家物語』。あの冒頭には、続きがあるのをご存じだろうか。遠く異国を見れば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の禄山——と、主君に背いて天下を乱し、たちまち滅んだ者たちの名が並ぶ。その最後に名指しされているのが、唐の安禄山である。 その安禄山を「逆臣」か「聖人」かと問い直す読み物が、6月に上下2回に分けて公開された。『平家物語』のこの一節から書き起こし、安禄山という人物の実像に迫る内容だ。 記事によれば、安禄山は8世紀の初めに生まれたが、史料によって記録がまちまちで、正確な生年は分からない。漢字の姓名を持ちながら漢人ではなく、ソグド系の突厥人だった。生まれはモンゴル高原ともいわれるという。 ここで、うちのような物好きが身を乗り出すのは、若い頃の安禄山の商売のほうや。唐の正史には、彼がいくつもの異民族の言葉を操り、辺境の交易場で取引の仲立ちをする「互市牙郎」をしていたと記されている。言葉と商いで身を立てた男が、やがて玄宗皇帝の信任を得て節度使に取り立てられ、ついには755年に反乱を起こす。いわゆる安史の乱である。 日本では長く、楊貴妃と並ぶ唐の傾国の元凶として語られてきた。『平家物語』の書き手にとっても、安禄山は「おごれる者」の見本だったわけだ。けれど、その評価はあくまで唐の側、漢人の側から見たものでもある。国境の町で生まれ育ち、いくつもの言葉と文化のあいだを渡り歩いた男が、別の人々の目にはどう映っていたのか。「聖人」という言葉には、その問いが込められているのだろう。 同じ人物でも、どの書物を通して見るかで顔が変わる。だからこそ、書物は一冊では足りん。うちの書庫の唐土の本も、久しぶりに引っぱり出して読み比べてみとうなった。
千二百年 消えずの灯の 番をせば 油の代は いかほどならむ
─ 油差し見習い ─
千二百年 消えずの灯の 番をせば 油の代は いかほどならむ
─ 油差し見習い ─
2021年6月号をお届けします。今月の特集は、芭蕉翁に最澄の1200年大遠忌を、秋成はんに寛政の「島原大変」を、うちは唐の安禄山を受け持ちました。千二百年前の僧、二百三十年前の災害、千三百年前の反乱と、今月はずいぶん時代の幅が広うなりました。かわら版には、長崎の「聖母の騎士」1000号、函館の碧血碑の慰霊祭、800年を迎えた承久の乱まで並べています。三菱の至宝展の話を読んでいたら、うちの蔵の品々も誰ぞに「文化投資」と呼んでもろうて、箔を付けたくなりました。梅雨のさなか、どうぞ家でゆっくりお読みください。
2021年6月号をお届けします。今月の特集は、芭蕉翁に最澄の1200年大遠忌を、秋成はんに寛政の「島原大変」を、うちは唐の安禄山を受け持ちました。千二百年前の僧、二百三十年前の災害、千三百年前の反乱と、今月はずいぶん時代の幅が広うなりました。かわら版には、長崎の「聖母の騎士」1000号、函館の碧血碑の慰霊祭、800年を迎えた承久の乱まで並べています。三菱の至宝展の話を読んでいたら、うちの蔵の品々も誰ぞに「文化投資」と呼んでもろうて、箔を付けたくなりました。梅雨のさなか、どうぞ家でゆっくりお読みください。