亡骸は囮にされた——油小路事件と、生き延びた御陵衛士・篠原泰之進
新選組を離れた伊東甲子太郎が暗殺され、その亡骸を囮に御陵衛士が斬り合いへ誘い出された油小路事件。9月は司馬遼太郎『新選組血風録』のマンガ版がこの事件を描き、単行本も最終巻を迎えた。
美談で語られがちな新選組にあって、これほど後味の悪い事件もない。慶応3年(1867)11月、京都の油小路で起きた、いわゆる油小路事件である。 新選組の参謀格だった伊東甲子太郎は、この年の春、同志を連れて隊を離れ、孝明天皇の御陵を守る「御陵衛士」を名乗った。その伊東が、近藤勇の妾宅に招かれる。酒を振る舞われ、ほろ酔いで帰る途中、待ち伏せていた隊士たちに斬られた。ここまでならよくある暗殺だが、新選組はさらに、伊東の亡骸を路上に置いたまま、引き取りに来る御陵衛士たちを待ち構えた。亡骸を囮にしたのである。 この9月、司馬遼太郎の『新選組血風録』をマンガにした連載が、ちょうどこの場面にさしかかっていた。「この死体をオトリにして」という台詞が見出しになり、土方歳三の非情な決断から組織の論理を読み解こうとする記事まで出た。単行本の『新選組血風録(三)』も9月15日に発売され、これが最終巻だという。 御陵衛士の一人、篠原泰之進も、この夜の斬り合いを生き延びた一人だ。連載では、篠原が祇園の茶屋でお運びをしていた「おけい」を見初める場面も描かれていた。血なまぐさい話のなかに、そうした色恋の一幕を挟むのが司馬の手際である。 ただ、ここで一つ釘を刺しておきたい。『血風録』はあくまで小説であり、それをもとにしたマンガである。篠原は明治まで生き延びて、当時のことを書き残してもいる。しかし、生き残った者の記録は、生き残った者の目で書かれる。土方がどこまで冷酷だったのか、伊東がどこまで無防備だったのか。小説の名場面を史実と取り違えないよう、読み手の側がいったん立ち止まる必要があるのだろう。 とはいえ、百五十年前の京の夜の冷たさを、紙の上から伝えてくる力は確かなものだ。読んだあとには、油小路の辻を一度歩いてみたくなる。
亡骸は囮にされた——油小路事件と、生き延びた御陵衛士・篠原泰之進
新選組を離れた伊東甲子太郎が暗殺され、その亡骸を囮に御陵衛士が斬り合いへ誘い出された油小路事件。9月は司馬遼太郎『新選組血風録』のマンガ版がこの事件を描き、単行本も最終巻を迎えた。
美談で語られがちな新選組にあって、これほど後味の悪い事件もない。慶応3年(1867)11月、京都の油小路で起きた、いわゆる油小路事件である。 新選組の参謀格だった伊東甲子太郎は、この年の春、同志を連れて隊を離れ、孝明天皇の御陵を守る「御陵衛士」を名乗った。その伊東が、近藤勇の妾宅に招かれる。酒を振る舞われ、ほろ酔いで帰る途中、待ち伏せていた隊士たちに斬られた。ここまでならよくある暗殺だが、新選組はさらに、伊東の亡骸を路上に置いたまま、引き取りに来る御陵衛士たちを待ち構えた。亡骸を囮にしたのである。 この9月、司馬遼太郎の『新選組血風録』をマンガにした連載が、ちょうどこの場面にさしかかっていた。「この死体をオトリにして」という台詞が見出しになり、土方歳三の非情な決断から組織の論理を読み解こうとする記事まで出た。単行本の『新選組血風録(三)』も9月15日に発売され、これが最終巻だという。 御陵衛士の一人、篠原泰之進も、この夜の斬り合いを生き延びた一人だ。連載では、篠原が祇園の茶屋でお運びをしていた「おけい」を見初める場面も描かれていた。血なまぐさい話のなかに、そうした色恋の一幕を挟むのが司馬の手際である。 ただ、ここで一つ釘を刺しておきたい。『血風録』はあくまで小説であり、それをもとにしたマンガである。篠原は明治まで生き延びて、当時のことを書き残してもいる。しかし、生き残った者の記録は、生き残った者の目で書かれる。土方がどこまで冷酷だったのか、伊東がどこまで無防備だったのか。小説の名場面を史実と取り違えないよう、読み手の側がいったん立ち止まる必要があるのだろう。 とはいえ、百五十年前の京の夜の冷たさを、紙の上から伝えてくる力は確かなものだ。読んだあとには、油小路の辻を一度歩いてみたくなる。
湿地の江戸、丘の上の千葉城——坂東の城を、誰が最初に見つけたのか
片田舎の湿地帯だった江戸に着目したのは太田道灌で、家康が幕府を開いたのは必然だった——作家と歴史学者の対談が話題に。月末には「千葉城は千葉常胤ゆかりの城なのか」と問う記事も出た。坂東の城の来歴をたどる。
わたしが庵を結んだ深川は、もとをたどれば水の多い低地である。江戸という町そのものが、海と川と湿地の上に築かれたと言ってよい。 その江戸について、作家の伊東潤さんと歴史学者の本郷和人さんが対談し、「湿地帯で片田舎の江戸に太田道灌が着目し、徳川家康が幕府を開いたのは必然だった」と語り合っている。太田道灌は室町時代の武将で、長禄元年(1457)に江戸城を築いたことで知られる。関東では長尾景春の乱などの戦が続き、道灌はその鎮圧に奔走した。そうした乱世のなかで、道灌が見込んだ土地に、百三十年あまりのちの天正18年(1590)、家康が入ることになるわけだ。 一方、月末には「千葉城は千葉常胤ゆかりの城なのか?」と問いかける記事も出た。千葉常胤は平安時代の終わりから鎌倉時代の初めにかけての武将で、挙兵した源頼朝をいち早く支えたことで名高い。千葉市の亥鼻の丘には、天守を持つ「千葉城」が建っている。ただ、この天守は昭和になって郷土博物館として建てられたもので、中世の城にもとからあったわけではない。記事は「天守だけじゃない、日本の城の楽しみ方」を副題に、その来歴を掘り下げている。 江戸城も千葉城も、今の姿だけを見れば、どちらも立派な「お城」である。けれど、その土地を最初に選んだ人、そこに暮らした人、あとから物語を重ねた人は、それぞれ違う。城を訪ねるなら、天守を仰ぐだけでなく、足もとの地形や、堀の跡、坂の向きにも目をやりたい。道灌がなぜこの湿地を選んだのか、常胤の一族がどの丘に拠ったのか。答えは案外、土の上に残っているものだ。 秋風の立つころ、坂東の城を一つ二つ、杖をついて歩いてみるのもよい。天守の外にこそ、五百年、八百年の時が眠っている。
湿地の江戸、丘の上の千葉城——坂東の城を、誰が最初に見つけたのか
片田舎の湿地帯だった江戸に着目したのは太田道灌で、家康が幕府を開いたのは必然だった——作家と歴史学者の対談が話題に。月末には「千葉城は千葉常胤ゆかりの城なのか」と問う記事も出た。坂東の城の来歴をたどる。
わたしが庵を結んだ深川は、もとをたどれば水の多い低地である。江戸という町そのものが、海と川と湿地の上に築かれたと言ってよい。 その江戸について、作家の伊東潤さんと歴史学者の本郷和人さんが対談し、「湿地帯で片田舎の江戸に太田道灌が着目し、徳川家康が幕府を開いたのは必然だった」と語り合っている。太田道灌は室町時代の武将で、長禄元年(1457)に江戸城を築いたことで知られる。関東では長尾景春の乱などの戦が続き、道灌はその鎮圧に奔走した。そうした乱世のなかで、道灌が見込んだ土地に、百三十年あまりのちの天正18年(1590)、家康が入ることになるわけだ。 一方、月末には「千葉城は千葉常胤ゆかりの城なのか?」と問いかける記事も出た。千葉常胤は平安時代の終わりから鎌倉時代の初めにかけての武将で、挙兵した源頼朝をいち早く支えたことで名高い。千葉市の亥鼻の丘には、天守を持つ「千葉城」が建っている。ただ、この天守は昭和になって郷土博物館として建てられたもので、中世の城にもとからあったわけではない。記事は「天守だけじゃない、日本の城の楽しみ方」を副題に、その来歴を掘り下げている。 江戸城も千葉城も、今の姿だけを見れば、どちらも立派な「お城」である。けれど、その土地を最初に選んだ人、そこに暮らした人、あとから物語を重ねた人は、それぞれ違う。城を訪ねるなら、天守を仰ぐだけでなく、足もとの地形や、堀の跡、坂の向きにも目をやりたい。道灌がなぜこの湿地を選んだのか、常胤の一族がどの丘に拠ったのか。答えは案外、土の上に残っているものだ。 秋風の立つころ、坂東の城を一つ二つ、杖をついて歩いてみるのもよい。天守の外にこそ、五百年、八百年の時が眠っている。
像は誰のために立つのか——南軍リー将軍、ルーズベルト元大統領の像がアメリカで去る
9月8日、米バージニア州リッチモンドで南軍のリー将軍の銅像が撤去された。6月にはニューヨークの博物館前に立つセオドア・ルーズベルト元大統領の像の撤去も報じられている。歴史上の人物の像をめぐる、アメリカの揺れを見る。
書画や彫り物を集める身として、像というものには少々うるさい。像は、その人を記憶するためにある。けれど、誰がどんな思いでその像を立てたのかによって、同じ像がまるで違う意味を帯びることがある。 9月8日、アメリカ南部バージニア州の州都リッチモンドで、南北戦争の南軍を率いたロバート・E・リー将軍の銅像が撤去された。リッチモンドは南部連合の首都が置かれた町で、リー将軍は長く南部の英雄としてたたえられてきた。一方で、その像は奴隷制を守ろうとした側の象徴でもある。台座から下ろされる将軍の姿は、アメリカが自らの歴史とどう向き合うかを、はっきりと映し出していた。 さかのぼって6月には、ニューヨークのアメリカ自然史博物館の前に立つ、セオドア・ルーズベルト元大統領の像の撤去も報じられた。馬に乗った大統領の両脇に、アメリカ先住民とアフリカ系の男性が徒歩で従う構図で、人種の上下を表しているとの批判が以前からあった像である。 どちらも、像の主が生きた時代には、それが当たり前の姿だったのかもしれない。だが、像は立てたときの価値観を、そのまま百年先まで運んでしまう。そこに痛みを覚える人がいるなら、置き場所を考え直すのは自然なことだろう。撤去は、歴史を消すことではなく、どこでどう語るかを選び直すことだ、と見ることもできる。 日本にも似た話はある。上野の西郷隆盛像が除幕されたとき、未亡人の糸子が「うちの人はこんな人ではなかった」と漏らしたという逸話は有名だ。像は本人そのものではなく、あくまで立てた人々の思いの形なのである。 うちの蔵にも古い肖像画が何幅かあるが、描かれた人がどう見られたかったのか、描いた者がどう見せたかったのか。像や絵を前にしたら、そこまで考えてみたい。
像は誰のために立つのか——南軍リー将軍、ルーズベルト元大統領の像がアメリカで去る
9月8日、米バージニア州リッチモンドで南軍のリー将軍の銅像が撤去された。6月にはニューヨークの博物館前に立つセオドア・ルーズベルト元大統領の像の撤去も報じられている。歴史上の人物の像をめぐる、アメリカの揺れを見る。
書画や彫り物を集める身として、像というものには少々うるさい。像は、その人を記憶するためにある。けれど、誰がどんな思いでその像を立てたのかによって、同じ像がまるで違う意味を帯びることがある。 9月8日、アメリカ南部バージニア州の州都リッチモンドで、南北戦争の南軍を率いたロバート・E・リー将軍の銅像が撤去された。リッチモンドは南部連合の首都が置かれた町で、リー将軍は長く南部の英雄としてたたえられてきた。一方で、その像は奴隷制を守ろうとした側の象徴でもある。台座から下ろされる将軍の姿は、アメリカが自らの歴史とどう向き合うかを、はっきりと映し出していた。 さかのぼって6月には、ニューヨークのアメリカ自然史博物館の前に立つ、セオドア・ルーズベルト元大統領の像の撤去も報じられた。馬に乗った大統領の両脇に、アメリカ先住民とアフリカ系の男性が徒歩で従う構図で、人種の上下を表しているとの批判が以前からあった像である。 どちらも、像の主が生きた時代には、それが当たり前の姿だったのかもしれない。だが、像は立てたときの価値観を、そのまま百年先まで運んでしまう。そこに痛みを覚える人がいるなら、置き場所を考え直すのは自然なことだろう。撤去は、歴史を消すことではなく、どこでどう語るかを選び直すことだ、と見ることもできる。 日本にも似た話はある。上野の西郷隆盛像が除幕されたとき、未亡人の糸子が「うちの人はこんな人ではなかった」と漏らしたという逸話は有名だ。像は本人そのものではなく、あくまで立てた人々の思いの形なのである。 うちの蔵にも古い肖像画が何幅かあるが、描かれた人がどう見られたかったのか、描いた者がどう見せたかったのか。像や絵を前にしたら、そこまで考えてみたい。
ほろ酔いで 帰る夜道は 気をつけよ 妾宅帰りの 伊東を思へ
─ ほろ酔い帰りの壬生狼ファン ─
ほろ酔いで 帰る夜道は 気をつけよ 妾宅帰りの 伊東を思へ
─ ほろ酔い帰りの壬生狼ファン ─
2021年9月号をお届けします。今月の特集は、秋成はんに油小路事件と御陵衛士を、芭蕉翁に太田道灌の江戸と千葉城を、うちはアメリカで相次ぐ銅像の撤去を受け持ちました。夜道の斬り合い、湿地に築かれた城、台座から下ろされる将軍と、どれも「誰の目で歴史を見るか」という話になった気がします。かわら版には、廃藩置県150年の高知、潜伏キリシタン遺産の登録3年、近江商人の三方よしまで並べました。6月号で取り上げた最澄の大遠忌も、10月からは特別展が始まるそうで、天台の宝物がどれほど並ぶのか、今から楽しみにしております。秋の夜長、ほろ酔いの帰り道にはくれぐれもお気をつけて。
2021年9月号をお届けします。今月の特集は、秋成はんに油小路事件と御陵衛士を、芭蕉翁に太田道灌の江戸と千葉城を、うちはアメリカで相次ぐ銅像の撤去を受け持ちました。夜道の斬り合い、湿地に築かれた城、台座から下ろされる将軍と、どれも「誰の目で歴史を見るか」という話になった気がします。かわら版には、廃藩置県150年の高知、潜伏キリシタン遺産の登録3年、近江商人の三方よしまで並べました。6月号で取り上げた最澄の大遠忌も、10月からは特別展が始まるそうで、天台の宝物がどれほど並ぶのか、今から楽しみにしております。秋の夜長、ほろ酔いの帰り道にはくれぐれもお気をつけて。