市民の寄付で建った大阪城天守閣が復興90年。登ったら記念証明書、記念展は「豊臣時代」を深掘り
昭和6年(1931年)11月7日、市民の寄付で再建された大阪城の今の天守閣が、復興から90年を迎えた。天守閣では訪れた人に記念の証明書を配り、秀吉の時代を掘り下げる記念展も開いている。
まあ聞いてほしい。大坂の城が、今年で九十の齢を重ねた。NHKによれば、大阪城の今の天守閣は、90年前の昭和6年11月7日に、市民の寄付金で3代目として再建された。天守閣は、大坂夏の陣や落雷によって、江戸時代に2度焼けている。その跡に、市民が金を出し合って建て直したのが、今の天守閣である。 日本海新聞によれば、この天守閣は、市民の全額の寄付で建った日本初の鉄骨鉄筋コンクリート造りの天守閣で、その後の戦火も乗り越えてきた。「市民の城」と呼ばれるゆえんや。わしら大坂の町人にとって、これほど誇らしい話はない。お上に頼らず、商人と町衆が銭を出して城を建てる。大坂の心意気そのものやないか。 記念の催しもにぎやかだ。NHKによれば、天守閣を訪れた観光客に記念の証明書が手渡され、その数は5000人分だという。日本海新聞によれば、博物館の顔も持つ天守閣では、復興記念展「豊臣時代」を開き、秀吉の時代を深く掘り下げている。 とはいえ、台所は楽やない。読売新聞によれば、コロナの影響で入館者が大きく減るなか、6、7日の記念イベントで、にぎわいを取り戻したいという期待がかかっている。大阪のシンボルとして親しまれてきた城も、客が来てこその城や。 わしに言わせれば、九十年前に銭を出した町衆は、ええ買い物をしたもんや。天守閣は九十年、大坂の空に立って、客を呼び、町を見守ってきた。次の百年に向けて、今度はわしらが足を運んで、木戸銭を払う番やで。
市民の寄付で建った大阪城天守閣が復興90年。登ったら記念証明書、記念展は「豊臣時代」を深掘り
昭和6年(1931年)11月7日、市民の寄付で再建された大阪城の今の天守閣が、復興から90年を迎えた。天守閣では訪れた人に記念の証明書を配り、秀吉の時代を掘り下げる記念展も開いている。
まあ聞いてほしい。大坂の城が、今年で九十の齢を重ねた。NHKによれば、大阪城の今の天守閣は、90年前の昭和6年11月7日に、市民の寄付金で3代目として再建された。天守閣は、大坂夏の陣や落雷によって、江戸時代に2度焼けている。その跡に、市民が金を出し合って建て直したのが、今の天守閣である。 日本海新聞によれば、この天守閣は、市民の全額の寄付で建った日本初の鉄骨鉄筋コンクリート造りの天守閣で、その後の戦火も乗り越えてきた。「市民の城」と呼ばれるゆえんや。わしら大坂の町人にとって、これほど誇らしい話はない。お上に頼らず、商人と町衆が銭を出して城を建てる。大坂の心意気そのものやないか。 記念の催しもにぎやかだ。NHKによれば、天守閣を訪れた観光客に記念の証明書が手渡され、その数は5000人分だという。日本海新聞によれば、博物館の顔も持つ天守閣では、復興記念展「豊臣時代」を開き、秀吉の時代を深く掘り下げている。 とはいえ、台所は楽やない。読売新聞によれば、コロナの影響で入館者が大きく減るなか、6、7日の記念イベントで、にぎわいを取り戻したいという期待がかかっている。大阪のシンボルとして親しまれてきた城も、客が来てこその城や。 わしに言わせれば、九十年前に銭を出した町衆は、ええ買い物をしたもんや。天守閣は九十年、大坂の空に立って、客を呼び、町を見守ってきた。次の百年に向けて、今度はわしらが足を運んで、木戸銭を払う番やで。
信玄を囲む家臣は24人ではなく88人。異例の絵図が見つかり、滋賀県は行方不明の「安土城図屏風」を6か国語で捜す
生誕500年を迎えた武田信玄を家臣88人が囲む江戸時代の絵図が確認され、横浜市歴史博物館で展示されている。滋賀県は、ローマ教皇に贈られた後に行方が分からなくなった安土城の屏風の情報を、6か国語で世界に求めている。
武田信玄の家臣団の絵といえば、「武田二十四将図」である。ところが読売新聞によれば、生誕500年を迎えた信玄を中心に、家臣88人が一堂に会する様子を描いた江戸時代の絵図が確認され、横浜市歴史博物館の企画展で展示されている。信玄の家臣の絵図は24人を描くのが一般的で、これほど多くの家臣を描いた例は珍しいという。 さて、ここで一つ釘を刺しておきたい。「二十四将」の顔ぶれは、絵によって入れ替わる。そもそも信玄が生きていた時代の絵ではなく、江戸時代に武田家の物語が人気を集めるなかで描かれ、広まったものだ。88人の絵図も、信玄の家臣団の実像というより、江戸の人々が武田家をどう思い描いていたかを伝える史料として読むのがよい。 行方の分からない絵もある。NHKによれば、織田信長が今の近江八幡市に築いた安土城の復元を目指す滋賀県は、当時のローマ教皇に贈られた後、所在が分からなくなっている安土城を描いた屏風について、6か国語で世界に情報を求めている。天正の遣欧使節が教皇に献じたと伝わる屏風で、信長の城の姿を描いた貴重な絵のはずだが、四百年以上、行方は知れない。 現に残る屏風には、新しい見せ方も生まれている。読売新聞によれば、岐阜県の関ケ原古戦場記念館では、関ケ原の戦いを描いた重要文化財「関ヶ原合戦図屏風」を動かして見せる映像の新展示が始まった。 絵は、見る者の心をつかむ。だからこそ、描かれたものをそのまま史実と取り違えやすい。88人の家臣も、幻の安土城も、動く合戦図も、誰がいつ何のために描いたのかを問いながら味わいたいものだ。
信玄を囲む家臣は24人ではなく88人。異例の絵図が見つかり、滋賀県は行方不明の「安土城図屏風」を6か国語で捜す
生誕500年を迎えた武田信玄を家臣88人が囲む江戸時代の絵図が確認され、横浜市歴史博物館で展示されている。滋賀県は、ローマ教皇に贈られた後に行方が分からなくなった安土城の屏風の情報を、6か国語で世界に求めている。
武田信玄の家臣団の絵といえば、「武田二十四将図」である。ところが読売新聞によれば、生誕500年を迎えた信玄を中心に、家臣88人が一堂に会する様子を描いた江戸時代の絵図が確認され、横浜市歴史博物館の企画展で展示されている。信玄の家臣の絵図は24人を描くのが一般的で、これほど多くの家臣を描いた例は珍しいという。 さて、ここで一つ釘を刺しておきたい。「二十四将」の顔ぶれは、絵によって入れ替わる。そもそも信玄が生きていた時代の絵ではなく、江戸時代に武田家の物語が人気を集めるなかで描かれ、広まったものだ。88人の絵図も、信玄の家臣団の実像というより、江戸の人々が武田家をどう思い描いていたかを伝える史料として読むのがよい。 行方の分からない絵もある。NHKによれば、織田信長が今の近江八幡市に築いた安土城の復元を目指す滋賀県は、当時のローマ教皇に贈られた後、所在が分からなくなっている安土城を描いた屏風について、6か国語で世界に情報を求めている。天正の遣欧使節が教皇に献じたと伝わる屏風で、信長の城の姿を描いた貴重な絵のはずだが、四百年以上、行方は知れない。 現に残る屏風には、新しい見せ方も生まれている。読売新聞によれば、岐阜県の関ケ原古戦場記念館では、関ケ原の戦いを描いた重要文化財「関ヶ原合戦図屏風」を動かして見せる映像の新展示が始まった。 絵は、見る者の心をつかむ。だからこそ、描かれたものをそのまま史実と取り違えやすい。88人の家臣も、幻の安土城も、動く合戦図も、誰がいつ何のために描いたのかを問いながら味わいたいものだ。
縄文遺跡のある17市町が青森に集い「縄文シティサミット」。記念切手に記念の新酒、御所野では縄文と漆がコラボ
縄文遺跡のある全国17の市町の首長が青森市に集まり、「縄文シティサミット」を開いた。世界遺産登録の年を記念して、切手や日本酒も登場。御所野遺跡では、隣町の浄法寺漆と縄文を結ぶ催しが開かれている。
世界遺産の年も、秋が深まってきた。東奥日報によれば、縄文遺跡がある全国17市町でつくる縄文都市連絡協議会などは6日、「縄文シティサミット」を青森市で開いた。加盟する市町のうち6市町の遺跡が、今年登録された「北海道・北東北の縄文遺跡群」に含まれている。北鹿新聞によれば、サミットでは世界遺産登録の価値や波及効果がテーマになった。 Yahoo!ニュースに載った記事によれば、首長たちは、縄文の魅力や歴史的な価値を生かしたまちづくりについて話し合ったという。遺跡を守ることと、町を元気にすること。その両方をどう結ぶかは、登録を果たした町にとっても、これから目指す町にとっても大きな課題だ。 祝いの品も続々と生まれている。東奥日報によれば、日本郵便は、構成資産の出土品などをデザインしたオリジナルフレーム切手の販売を始めた。青森県つがる市の竹浪酒造店は、市内の亀ケ岡石器時代遺跡と田小屋野貝塚の登録を記念して、新酒「岩木正宗つがるJOMON」を売り出した。 わたしが心ひかれたのは、岩手の話である。IBC岩手放送によれば、一戸町の御所野遺跡で、隣の二戸市の特産・浄法寺漆を知ってもらうイベントが開かれている。縄文の人々は、すでに漆を使って器や櫛を美しく仕上げていた。一万年の昔の技と、今も続く漆掻きの営みとが、同じ土地で手をつなぐわけだ。 旅をしていると、土地の産物がその土地の歴史と深く結びついていることに、しばしば気づかされる。遺跡の土の下にあるものと、今の人々の暮らしがつながったとき、世界遺産は本当の意味で、その土地の宝になるのだろう。
縄文遺跡のある17市町が青森に集い「縄文シティサミット」。記念切手に記念の新酒、御所野では縄文と漆がコラボ
縄文遺跡のある全国17の市町の首長が青森市に集まり、「縄文シティサミット」を開いた。世界遺産登録の年を記念して、切手や日本酒も登場。御所野遺跡では、隣町の浄法寺漆と縄文を結ぶ催しが開かれている。
世界遺産の年も、秋が深まってきた。東奥日報によれば、縄文遺跡がある全国17市町でつくる縄文都市連絡協議会などは6日、「縄文シティサミット」を青森市で開いた。加盟する市町のうち6市町の遺跡が、今年登録された「北海道・北東北の縄文遺跡群」に含まれている。北鹿新聞によれば、サミットでは世界遺産登録の価値や波及効果がテーマになった。 Yahoo!ニュースに載った記事によれば、首長たちは、縄文の魅力や歴史的な価値を生かしたまちづくりについて話し合ったという。遺跡を守ることと、町を元気にすること。その両方をどう結ぶかは、登録を果たした町にとっても、これから目指す町にとっても大きな課題だ。 祝いの品も続々と生まれている。東奥日報によれば、日本郵便は、構成資産の出土品などをデザインしたオリジナルフレーム切手の販売を始めた。青森県つがる市の竹浪酒造店は、市内の亀ケ岡石器時代遺跡と田小屋野貝塚の登録を記念して、新酒「岩木正宗つがるJOMON」を売り出した。 わたしが心ひかれたのは、岩手の話である。IBC岩手放送によれば、一戸町の御所野遺跡で、隣の二戸市の特産・浄法寺漆を知ってもらうイベントが開かれている。縄文の人々は、すでに漆を使って器や櫛を美しく仕上げていた。一万年の昔の技と、今も続く漆掻きの営みとが、同じ土地で手をつなぐわけだ。 旅をしていると、土地の産物がその土地の歴史と深く結びついていることに、しばしば気づかされる。遺跡の土の下にあるものと、今の人々の暮らしがつながったとき、世界遺産は本当の意味で、その土地の宝になるのだろう。
「徳川は敵といえど、ご支援を」。コロナで入館者が激減した徳川美術館を石田三成が応援、震災を越えて石巻市博物館が開館
尾張徳川家の国宝を収める名古屋の徳川美術館が、コロナ禍の入館者減を受けてクラウドファンディングを始め、石田三成が応援に加わった。宮城県石巻市では、震災で被災した資料も修復して展示する市博物館が開館した。
博物館の台所が苦しい。MSNに載った中日スポーツの記事によれば、尾張徳川家に伝わった品々を展示する名古屋市東区の徳川美術館が、コロナ禍で入館者が激減し、今後の運営費にあてるため、2日からクラウドファンディングを始めた。徳川美術館は、家康の九男・義直を初代とする尾張徳川家の重宝を収める美術館である。 面白いのは、そこに思わぬ加勢が現れたことだ。Yahoo!ニュースに載った記事によれば、石田三成が「徳川は敵といえど、何卒皆々のご支援をよろしく」と呼びかけ、「文化財の危機に東軍も西軍も、敵も味方もない」と語った。もちろん四百年前のご本人の言葉ではないが、なかなか粋な計らいではないか。 東北では、うれしい知らせがあった。毎日新聞によれば、宮城県の石巻市博物館が開館した。歴史文化の展示室では「大河と海」をテーマに、縄文時代の貝塚から石巻湊として栄えた近世、近現代の暮らしまでを、船の模型や漁具などでたどる。東日本大震災で被災した資料も、修復して展示しているという。 京都でも名品が出迎える。朝日新聞によれば、空海が「弘法大師」の名を贈られて今年で1100年になるのを記念し、醍醐寺霊宝館で特別展「弘法大師と醍醐寺」が開かれている。国宝18点を含む101点が並び、国宝の「稚児大師像」が初めて公開されている。 わたしも物を集めてきた身として、集めた物を守り続けることの難しさはよく分かる。建物を保ち、湿気や虫から守り、人を雇って手入れをする。その費えは、入館者の木戸銭と、志ある人の寄付で賄われる。敵も味方もなく支える。三成さんの言葉は、文化財を守る道理そのものである。
「徳川は敵といえど、ご支援を」。コロナで入館者が激減した徳川美術館を石田三成が応援、震災を越えて石巻市博物館が開館
尾張徳川家の国宝を収める名古屋の徳川美術館が、コロナ禍の入館者減を受けてクラウドファンディングを始め、石田三成が応援に加わった。宮城県石巻市では、震災で被災した資料も修復して展示する市博物館が開館した。
博物館の台所が苦しい。MSNに載った中日スポーツの記事によれば、尾張徳川家に伝わった品々を展示する名古屋市東区の徳川美術館が、コロナ禍で入館者が激減し、今後の運営費にあてるため、2日からクラウドファンディングを始めた。徳川美術館は、家康の九男・義直を初代とする尾張徳川家の重宝を収める美術館である。 面白いのは、そこに思わぬ加勢が現れたことだ。Yahoo!ニュースに載った記事によれば、石田三成が「徳川は敵といえど、何卒皆々のご支援をよろしく」と呼びかけ、「文化財の危機に東軍も西軍も、敵も味方もない」と語った。もちろん四百年前のご本人の言葉ではないが、なかなか粋な計らいではないか。 東北では、うれしい知らせがあった。毎日新聞によれば、宮城県の石巻市博物館が開館した。歴史文化の展示室では「大河と海」をテーマに、縄文時代の貝塚から石巻湊として栄えた近世、近現代の暮らしまでを、船の模型や漁具などでたどる。東日本大震災で被災した資料も、修復して展示しているという。 京都でも名品が出迎える。朝日新聞によれば、空海が「弘法大師」の名を贈られて今年で1100年になるのを記念し、醍醐寺霊宝館で特別展「弘法大師と醍醐寺」が開かれている。国宝18点を含む101点が並び、国宝の「稚児大師像」が初めて公開されている。 わたしも物を集めてきた身として、集めた物を守り続けることの難しさはよく分かる。建物を保ち、湿気や虫から守り、人を雇って手入れをする。その費えは、入館者の木戸銭と、志ある人の寄付で賄われる。敵も味方もなく支える。三成さんの言葉は、文化財を守る道理そのものである。
お上より 先に銭出す 町衆の 心意気建つ 九十年城
─ 天満の町衆の末裔 ─
お上より 先に銭出す 町衆の 心意気建つ 九十年城
─ 天満の町衆の末裔 ─
2021年11月号をお届けします。大阪城の天守閣が、市民の寄付で建ってから90年を迎えました。西鶴はんは、お上に頼らず銭を出した町衆の心意気を、わがことのように胸を張って書いております。 秋成はんは、信玄を囲む家臣88人の絵図や行方知れずの安土城の屏風に「描かれたものは史実と取り違えやすい」と念を押し、芭蕉翁は青森の縄文シティサミットと御所野の漆をたずねました。わたしは、コロナで苦しむ徳川美術館と、それを応援する三成さん、震災を越えて開館した石巻市博物館の話をまとめました。 かわら版には、ミューオンで探る造山古墳や、本多忠勝の名刀「中務正宗」などを並べました。朝晩めっきり冷えてまいりました。どうぞ温かくしてお過ごしください。
2021年11月号をお届けします。大阪城の天守閣が、市民の寄付で建ってから90年を迎えました。西鶴はんは、お上に頼らず銭を出した町衆の心意気を、わがことのように胸を張って書いております。 秋成はんは、信玄を囲む家臣88人の絵図や行方知れずの安土城の屏風に「描かれたものは史実と取り違えやすい」と念を押し、芭蕉翁は青森の縄文シティサミットと御所野の漆をたずねました。わたしは、コロナで苦しむ徳川美術館と、それを応援する三成さん、震災を越えて開館した石巻市博物館の話をまとめました。 かわら版には、ミューオンで探る造山古墳や、本多忠勝の名刀「中務正宗」などを並べました。朝晩めっきり冷えてまいりました。どうぞ温かくしてお過ごしください。