真珠湾攻撃から80年。「最後通告」はなぜ遅れたのか、重大局面を支配した「空気」、軍神から戦犯扱いに変わった青年
1941年12月8日(日本時間)の真珠湾攻撃から80年。米国への通告が攻撃開始の後になった経緯や、開戦へ向かった政府の空気を問い直す記事が相次いだ。特殊潜航艇の乗員たちの記録を伝える石碑も、訓練の地に完成した。
80年前のあの朝から、日本は3年8か月余りの戦争に入った。日本経済新聞によれば、1941年12月8日(現地時間7日)、旧日本軍は米ハワイ・オアフ島の真珠湾の米軍基地や艦隊を奇襲し、太平洋戦争が始まった。米側は約2400人が死亡し、戦艦アリゾナなどが沈んだ。日本側は航空機29機などを失い、約60人が死亡したとされる。 毎日新聞は、開戦の手続きを問い直している。日本側は攻撃の直前に「最後通告」の文書を米側に渡すつもりだったが、実際に渡したのは攻撃の開始後になった。国際法に反する行動であり、記事は、それをあえて選んだのではないかという問いを立てている。朝日新聞は、中国との戦争が泥沼化するなかで、国力に圧倒的な差がある米国との開戦に踏み切った重大局面を、「空気」が支配していたと振り返っている。 さて、「空気」という言葉には用心したい。誰も止められなかった、みなが流された、と言えば、決めた者の名がぼやける。空気を作ったのは誰で、それに乗って判を押したのは誰だったのか。史料をたどれば、その名はきちんと残っているはずである。 一人ひとりの運命も伝えられている。朝日新聞によれば、特殊潜航艇に乗り込んで真珠湾に散った青年は、開戦直後には「軍神」とたたえられ、戦後は「戦犯」のように扱われた。その妹は広島で被爆したという。中日新聞によれば、作戦の前に特殊潜航艇部隊が極秘の訓練をした愛媛県伊方町の佐田岬半島に、部隊の記録を伝える石碑が完成した。隊員10人のうち9人が戦死し、ただ一人生き残った酒巻和男さんは、米軍の「捕虜第1号」となった。 東京新聞によれば、栃木市の東善光寺には、戦前の金属類回収令で供出されながら、軍需品にされずに生き延びた釣り鐘が残っている。石川県の寺で見つかり、30年前に故郷へ戻ったものだ。80年たっても、戦争の記録は各地で掘り起こされ続けている。持ち上げるのでも、貶めるのでもなく、確かなことを一つずつ積み上げたい。
真珠湾攻撃から80年。「最後通告」はなぜ遅れたのか、重大局面を支配した「空気」、軍神から戦犯扱いに変わった青年
1941年12月8日(日本時間)の真珠湾攻撃から80年。米国への通告が攻撃開始の後になった経緯や、開戦へ向かった政府の空気を問い直す記事が相次いだ。特殊潜航艇の乗員たちの記録を伝える石碑も、訓練の地に完成した。
80年前のあの朝から、日本は3年8か月余りの戦争に入った。日本経済新聞によれば、1941年12月8日(現地時間7日)、旧日本軍は米ハワイ・オアフ島の真珠湾の米軍基地や艦隊を奇襲し、太平洋戦争が始まった。米側は約2400人が死亡し、戦艦アリゾナなどが沈んだ。日本側は航空機29機などを失い、約60人が死亡したとされる。 毎日新聞は、開戦の手続きを問い直している。日本側は攻撃の直前に「最後通告」の文書を米側に渡すつもりだったが、実際に渡したのは攻撃の開始後になった。国際法に反する行動であり、記事は、それをあえて選んだのではないかという問いを立てている。朝日新聞は、中国との戦争が泥沼化するなかで、国力に圧倒的な差がある米国との開戦に踏み切った重大局面を、「空気」が支配していたと振り返っている。 さて、「空気」という言葉には用心したい。誰も止められなかった、みなが流された、と言えば、決めた者の名がぼやける。空気を作ったのは誰で、それに乗って判を押したのは誰だったのか。史料をたどれば、その名はきちんと残っているはずである。 一人ひとりの運命も伝えられている。朝日新聞によれば、特殊潜航艇に乗り込んで真珠湾に散った青年は、開戦直後には「軍神」とたたえられ、戦後は「戦犯」のように扱われた。その妹は広島で被爆したという。中日新聞によれば、作戦の前に特殊潜航艇部隊が極秘の訓練をした愛媛県伊方町の佐田岬半島に、部隊の記録を伝える石碑が完成した。隊員10人のうち9人が戦死し、ただ一人生き残った酒巻和男さんは、米軍の「捕虜第1号」となった。 東京新聞によれば、栃木市の東善光寺には、戦前の金属類回収令で供出されながら、軍需品にされずに生き延びた釣り鐘が残っている。石川県の寺で見つかり、30年前に故郷へ戻ったものだ。80年たっても、戦争の記録は各地で掘り起こされ続けている。持ち上げるのでも、貶めるのでもなく、確かなことを一つずつ積み上げたい。
12月14日は討ち入りの日。発端から320年、川崎の寺は四十七士像を公開、ゆかりの「切腹最中」も売れ続ける
赤穂浪士が吉良邸に討ち入った12月14日を前に、ゆかりの寺では四十七士の像が公開され、出版社は忠臣蔵の魅力を語り尽くすオンライン催しを開く。松の廊下の刃傷から数えて320年、ゆかりの和菓子「切腹最中」も健在だ。
まあ聞いてほしい。師走になると、日本中がそわそわしだす。赤穂浪士の討ち入りの季節や。タウンニュースによれば、川崎市幸区の稱名寺では、討ち入りの日にあたる12月14日に毎年ゆかりの品を公開していて、今年は川崎市重要歴史記念物の「紙本着色四十七士像」1点を本堂で公開する。 出版社も黙ってへん。イザ!に載った発表によれば、KADOKAWAは、討ち入りの日の14日にオンラインイベント「いざ、討ち入り!“究極の作品”の秘密を大解剖」を開き、忠臣蔵の物語としての魅力を語り尽くすという。 食べ物もある。おたくま経済新聞によれば、元禄14年(1701年)の松の廊下の刃傷、つまり忠臣蔵の発端から320年を迎え、ゆかりの和菓子「切腹最中」を食べてみた記事が出ている。浅野内匠頭が切腹した田村邸の跡の近くの菓子屋が売る、名前からして強烈な最中や。京都の町なかにも、キョウトピが紹介するように、堀川通に「赤穂義士四十六士遺髪塔跡」が残っている。 わしに言わせれば、忠臣蔵ほど長う稼いでいる話はない。討ち入りのすぐ後から、芝居の作者たちは名前や時代を変えて舞台にかけた。本当の名前で書いたら、お上に睨まれるさかいな。それが『仮名手本忠臣蔵』になって大当たりし、三百年たっても本や芝居、菓子まで売れ続けとる。 仇討ちが正しかったかどうかは、昔から議論の種や。けど、そういう議論が尽きんことこそが、この話の強さなんやろ。わしも今年は最中をかじりながら、師走の芝居の番付でも眺めることにするわ。
12月14日は討ち入りの日。発端から320年、川崎の寺は四十七士像を公開、ゆかりの「切腹最中」も売れ続ける
赤穂浪士が吉良邸に討ち入った12月14日を前に、ゆかりの寺では四十七士の像が公開され、出版社は忠臣蔵の魅力を語り尽くすオンライン催しを開く。松の廊下の刃傷から数えて320年、ゆかりの和菓子「切腹最中」も健在だ。
まあ聞いてほしい。師走になると、日本中がそわそわしだす。赤穂浪士の討ち入りの季節や。タウンニュースによれば、川崎市幸区の稱名寺では、討ち入りの日にあたる12月14日に毎年ゆかりの品を公開していて、今年は川崎市重要歴史記念物の「紙本着色四十七士像」1点を本堂で公開する。 出版社も黙ってへん。イザ!に載った発表によれば、KADOKAWAは、討ち入りの日の14日にオンラインイベント「いざ、討ち入り!“究極の作品”の秘密を大解剖」を開き、忠臣蔵の物語としての魅力を語り尽くすという。 食べ物もある。おたくま経済新聞によれば、元禄14年(1701年)の松の廊下の刃傷、つまり忠臣蔵の発端から320年を迎え、ゆかりの和菓子「切腹最中」を食べてみた記事が出ている。浅野内匠頭が切腹した田村邸の跡の近くの菓子屋が売る、名前からして強烈な最中や。京都の町なかにも、キョウトピが紹介するように、堀川通に「赤穂義士四十六士遺髪塔跡」が残っている。 わしに言わせれば、忠臣蔵ほど長う稼いでいる話はない。討ち入りのすぐ後から、芝居の作者たちは名前や時代を変えて舞台にかけた。本当の名前で書いたら、お上に睨まれるさかいな。それが『仮名手本忠臣蔵』になって大当たりし、三百年たっても本や芝居、菓子まで売れ続けとる。 仇討ちが正しかったかどうかは、昔から議論の種や。けど、そういう議論が尽きんことこそが、この話の強さなんやろ。わしも今年は最中をかじりながら、師走の芝居の番付でも眺めることにするわ。
鬼が念仏を唱え、猫が鼠と酒を飲む。東海道の土産物「大津絵」は江戸のゆるキャラ、今も「疫病退散」を描き継ぐ
東海道の大津宿のはずれで江戸時代を通じて売られた庶民の絵「大津絵」。鬼や動物を擬人化した滑稽な絵が旅人の土産として人気を集めた。大津市歴史博物館では愛好家の現代大津絵展、岡山県高梁市では大津絵と浮世絵版画の展覧会が開かれている。
わたしの好きな絵に、大津絵がある。日本経済新聞によれば、東海道五十三次で最も西の宿場町・大津宿のはずれで、江戸時代を通じて「大津絵」と呼ばれる庶民の絵が売られた。はじめは仏画だったが、やがて鬼や動物を擬人化して滑稽に描く風刺画になり、100を超える画題が生まれた。土産物として人気を博したという。 中日新聞の記事によれば、大津絵は17世紀前半に東海道の大津・逢坂山のあたりの職人らが描いたのが始まりとされ、旅人が土産として持ち帰って広まった。大津市歴史博物館では、愛好家らが描いた「現代大津絵展」が開かれ、「疫病退散」を願う絵も並んでいる。日本テレビ系のNews24によれば、岡山県高梁市でも、旅の土産物として売られた大津絵と浮世絵版画を並べる展覧会が開かれている。 大津絵の魅力は、何といっても、その肩の力の抜けた筆である。衣を着た鬼が鉦を叩いて念仏を唱える「鬼の念仏」は、慈悲深い顔をして心は鬼、という偽善を笑う絵だと言われる。名もなき絵師が、同じ画題を何枚も何枚も手早く描いた。だからこそ、線に迷いがない。 うちの編集部の芭蕉翁には、「大津絵の筆のはじめは何仏」という句がある。新しい年、大津絵の絵師が筆はじめに描くのはどの仏さまだろうか、というほどの意味だ。仏画から始まった大津絵の来歴を、さらりと詠み込んだ一句である。 わたしも旅の土産の品をいくつも集めてきたが、名のある絵師の大作よりも、こういう庶民の絵のほうが、その時代の人の笑いや願いを素直に伝えてくれることがある。三百年前の鬼が、今も「疫病退散」の絵に描き継がれている。ゆるいようで、なかなかしぶとい絵なのである。
鬼が念仏を唱え、猫が鼠と酒を飲む。東海道の土産物「大津絵」は江戸のゆるキャラ、今も「疫病退散」を描き継ぐ
東海道の大津宿のはずれで江戸時代を通じて売られた庶民の絵「大津絵」。鬼や動物を擬人化した滑稽な絵が旅人の土産として人気を集めた。大津市歴史博物館では愛好家の現代大津絵展、岡山県高梁市では大津絵と浮世絵版画の展覧会が開かれている。
わたしの好きな絵に、大津絵がある。日本経済新聞によれば、東海道五十三次で最も西の宿場町・大津宿のはずれで、江戸時代を通じて「大津絵」と呼ばれる庶民の絵が売られた。はじめは仏画だったが、やがて鬼や動物を擬人化して滑稽に描く風刺画になり、100を超える画題が生まれた。土産物として人気を博したという。 中日新聞の記事によれば、大津絵は17世紀前半に東海道の大津・逢坂山のあたりの職人らが描いたのが始まりとされ、旅人が土産として持ち帰って広まった。大津市歴史博物館では、愛好家らが描いた「現代大津絵展」が開かれ、「疫病退散」を願う絵も並んでいる。日本テレビ系のNews24によれば、岡山県高梁市でも、旅の土産物として売られた大津絵と浮世絵版画を並べる展覧会が開かれている。 大津絵の魅力は、何といっても、その肩の力の抜けた筆である。衣を着た鬼が鉦を叩いて念仏を唱える「鬼の念仏」は、慈悲深い顔をして心は鬼、という偽善を笑う絵だと言われる。名もなき絵師が、同じ画題を何枚も何枚も手早く描いた。だからこそ、線に迷いがない。 うちの編集部の芭蕉翁には、「大津絵の筆のはじめは何仏」という句がある。新しい年、大津絵の絵師が筆はじめに描くのはどの仏さまだろうか、というほどの意味だ。仏画から始まった大津絵の来歴を、さらりと詠み込んだ一句である。 わたしも旅の土産の品をいくつも集めてきたが、名のある絵師の大作よりも、こういう庶民の絵のほうが、その時代の人の笑いや願いを素直に伝えてくれることがある。三百年前の鬼が、今も「疫病退散」の絵に描き継がれている。ゆるいようで、なかなかしぶとい絵なのである。
善光寺で正月の縁起物に「お魂入れ」、小田原城はすす払い、徳川園では江戸の作法で門松づくり。旅の空で迎える年の瀬
師走に入り、各地の寺社や城で正月を迎える支度が始まった。長野の善光寺では縁起物の開眼法要が営まれ、小田原城の天守閣ではすす払い、名古屋の徳川園では江戸時代から伝わる門松がつくられた。
年の瀬は、旅の身にとっても区切りの季節である。朝日新聞によれば、長野市の善光寺で10日、来年の開運や商売繁盛を祈る縁起物の開眼法要が営まれた。毎日新聞によれば、だるまや守護矢など約70種類の縁起物に魂が入れられ、同じ日から境内で頒布が始まった。参拝が難しい人のために、今年初めて寺のホームページでも扱うという。 城でも大掃除だ。読売新聞によれば、小田原城址公園で9日、師走恒例の「すす払い」が行われ、市の職員4人が長さ約5メートルの竹の先に付けたササの葉で、天守閣の屋根の下などのほこりを払った。ほこりと一緒に、コロナもまとめて払ってしまいたいところだ。 正月飾りにも古い作法が生きている。東海テレビによれば、名古屋市の徳川園では、名古屋城の慣習などをまとめた「金城温古録」に記された江戸時代の門松づくりが、今年も行われた。立てられた竹の高さは3.5メートルにもなる。47NEWSによれば、愛媛県伊予市の伊予稲荷神社では、2023年の鎮座1200年に向けた記念事業の皮切りとして、拝殿の大しめ縄が約30年ぶりに掛け替えられた。長崎市の諏訪神社では、正月用の破魔矢1万本を清める江戸時代からの「百手神事」も行われている。 わたしは旅の途中で年を越したことが何度もある。見知らぬ土地で、門松やしめ縄を見上げながら、一年の無事を思った。どこの土地でも、正月を迎える支度には、その土地の人の祈りが込められている。 今年も、思うように旅ができぬ一年だった。それでも、寺や城や神社が、変わらず年の瀬の支度を続けていることに、ほっとする。来年こそは、あちこちの門松を見て歩きたいものだ。
善光寺で正月の縁起物に「お魂入れ」、小田原城はすす払い、徳川園では江戸の作法で門松づくり。旅の空で迎える年の瀬
師走に入り、各地の寺社や城で正月を迎える支度が始まった。長野の善光寺では縁起物の開眼法要が営まれ、小田原城の天守閣ではすす払い、名古屋の徳川園では江戸時代から伝わる門松がつくられた。
年の瀬は、旅の身にとっても区切りの季節である。朝日新聞によれば、長野市の善光寺で10日、来年の開運や商売繁盛を祈る縁起物の開眼法要が営まれた。毎日新聞によれば、だるまや守護矢など約70種類の縁起物に魂が入れられ、同じ日から境内で頒布が始まった。参拝が難しい人のために、今年初めて寺のホームページでも扱うという。 城でも大掃除だ。読売新聞によれば、小田原城址公園で9日、師走恒例の「すす払い」が行われ、市の職員4人が長さ約5メートルの竹の先に付けたササの葉で、天守閣の屋根の下などのほこりを払った。ほこりと一緒に、コロナもまとめて払ってしまいたいところだ。 正月飾りにも古い作法が生きている。東海テレビによれば、名古屋市の徳川園では、名古屋城の慣習などをまとめた「金城温古録」に記された江戸時代の門松づくりが、今年も行われた。立てられた竹の高さは3.5メートルにもなる。47NEWSによれば、愛媛県伊予市の伊予稲荷神社では、2023年の鎮座1200年に向けた記念事業の皮切りとして、拝殿の大しめ縄が約30年ぶりに掛け替えられた。長崎市の諏訪神社では、正月用の破魔矢1万本を清める江戸時代からの「百手神事」も行われている。 わたしは旅の途中で年を越したことが何度もある。見知らぬ土地で、門松やしめ縄を見上げながら、一年の無事を思った。どこの土地でも、正月を迎える支度には、その土地の人の祈りが込められている。 今年も、思うように旅ができぬ一年だった。それでも、寺や城や神社が、変わらず年の瀬の支度を続けていることに、ほっとする。来年こそは、あちこちの門松を見て歩きたいものだ。
討ち入りの 夜から三百 二十年 最中の中まで 義理がつまりぬ
─ 堀川通の最中好き ─
討ち入りの 夜から三百 二十年 最中の中まで 義理がつまりぬ
─ 堀川通の最中好き ─
2021年12月号をお届けします。今年も押し詰まってまいりました。秋成はんは、開戦から80年の真珠湾攻撃を、「空気」という言葉でぼかさずに読み直し、西鶴はんは討ち入りの季節の忠臣蔵の商いに目を細めております。 芭蕉翁は、善光寺の縁起物や小田原城のすす払いなど、年の瀬の支度をたずねました。わたしは大津絵を担当し、芭蕉翁の「大津絵の筆のはじめは何仏」の句を引かせてもらいました。本人は、まだ覚えてくれとったんかと照れておりました。 かわら版には、彦根城天守を救った大隈重信、今城塚古墳の太鼓形埴輪、藤崎台のクスノキから出た西南戦争の銃弾などを並べました。一年のご愛読、ありがとうございました。どうぞよいお年をお迎えください。
2021年12月号をお届けします。今年も押し詰まってまいりました。秋成はんは、開戦から80年の真珠湾攻撃を、「空気」という言葉でぼかさずに読み直し、西鶴はんは討ち入りの季節の忠臣蔵の商いに目を細めております。 芭蕉翁は、善光寺の縁起物や小田原城のすす払いなど、年の瀬の支度をたずねました。わたしは大津絵を担当し、芭蕉翁の「大津絵の筆のはじめは何仏」の句を引かせてもらいました。本人は、まだ覚えてくれとったんかと照れておりました。 かわら版には、彦根城天守を救った大隈重信、今城塚古墳の太鼓形埴輪、藤崎台のクスノキから出た西南戦争の銃弾などを並べました。一年のご愛読、ありがとうございました。どうぞよいお年をお迎えください。