口から六体の阿弥陀仏——空也上人立像が半世紀ぶりに東京へ。疫病の都を歩いた「市聖」と六波羅の祈り
東京国立博物館で特別展「空也上人と六波羅蜜寺」が始まった。没後1050年の今年、口から六体の阿弥陀仏が現れる空也上人立像が、半世紀ぶりに東京で公開されている。
杖をつき、小さく一歩を踏み出す。わずかに開いた口からは、小さな阿弥陀仏が六体、連なって現れている。歴史の教科書で見覚えのあるあの像が、3月1日から東京国立博物館の特別展「空也上人と六波羅蜜寺」(5月8日まで)に出ている。東京での公開は半世紀ぶりだという。 空也(903〜972)は、平安京に疫病がはやった頃、市中を歩いて念仏を広め、「市聖」と慕われた僧である。951年に開いた西光寺が、いまの六波羅蜜寺だ。今年は没後1050年にあたる。立像は、その死から200年以上をへた鎌倉時代に、運慶の四男・康勝が刻んだとされる。像高117センチ。口から現れる六体の仏は、上人が唱える「南無阿弥陀仏」の声が、そのまま阿弥陀の姿になった様を表しているという。 会場にはほかに、10世紀の四天王立像や薬師如来坐像、定朝作と伝わる地蔵菩薩立像、伝平清盛坐像、伝運慶坐像・伝湛慶坐像など、寺の宝17点(うち重要文化財10点)が並ぶ。 六波羅という土地の話も興味深い。朝日新聞の紹介によれば、寺のあたりは平安京の葬送地・鳥辺野に隣り合い、冥界に通じる道とされた。末法思想が広がるなか、人々は地獄の裁きを下す閻魔王への取り次ぎを地蔵菩薩に願い、六波羅は地蔵信仰の中心地になった。手に頭髪を持つことから「鬘掛地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩立像には、今昔物語集に伝わる由来があるそうだ。 旅に生きた身として思うのは、空也の行脚が遊山の旅ではなかったということだ。疫病の都で人に声をかけ、念仏を置いて歩く旅だった。杖と草鞋のあの姿には、道を行く者の心細さと、それでも歩みを止めない強さが同居しているように見える。念仏の声が仏になるという造形は、声を届けたくて歩き続けた人の像だからこそ、生まれたものだろう。疫病の世がまだ明けないこの春、都を出てきた上人の口もとに、耳を澄ましてみたい。
口から六体の阿弥陀仏——空也上人立像が半世紀ぶりに東京へ。疫病の都を歩いた「市聖」と六波羅の祈り
東京国立博物館で特別展「空也上人と六波羅蜜寺」が始まった。没後1050年の今年、口から六体の阿弥陀仏が現れる空也上人立像が、半世紀ぶりに東京で公開されている。
杖をつき、小さく一歩を踏み出す。わずかに開いた口からは、小さな阿弥陀仏が六体、連なって現れている。歴史の教科書で見覚えのあるあの像が、3月1日から東京国立博物館の特別展「空也上人と六波羅蜜寺」(5月8日まで)に出ている。東京での公開は半世紀ぶりだという。 空也(903〜972)は、平安京に疫病がはやった頃、市中を歩いて念仏を広め、「市聖」と慕われた僧である。951年に開いた西光寺が、いまの六波羅蜜寺だ。今年は没後1050年にあたる。立像は、その死から200年以上をへた鎌倉時代に、運慶の四男・康勝が刻んだとされる。像高117センチ。口から現れる六体の仏は、上人が唱える「南無阿弥陀仏」の声が、そのまま阿弥陀の姿になった様を表しているという。 会場にはほかに、10世紀の四天王立像や薬師如来坐像、定朝作と伝わる地蔵菩薩立像、伝平清盛坐像、伝運慶坐像・伝湛慶坐像など、寺の宝17点(うち重要文化財10点)が並ぶ。 六波羅という土地の話も興味深い。朝日新聞の紹介によれば、寺のあたりは平安京の葬送地・鳥辺野に隣り合い、冥界に通じる道とされた。末法思想が広がるなか、人々は地獄の裁きを下す閻魔王への取り次ぎを地蔵菩薩に願い、六波羅は地蔵信仰の中心地になった。手に頭髪を持つことから「鬘掛地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩立像には、今昔物語集に伝わる由来があるそうだ。 旅に生きた身として思うのは、空也の行脚が遊山の旅ではなかったということだ。疫病の都で人に声をかけ、念仏を置いて歩く旅だった。杖と草鞋のあの姿には、道を行く者の心細さと、それでも歩みを止めない強さが同居しているように見える。念仏の声が仏になるという造形は、声を届けたくて歩き続けた人の像だからこそ、生まれたものだろう。疫病の世がまだ明けないこの春、都を出てきた上人の口もとに、耳を澄ましてみたい。
「後妻打ち」は嫉妬の暴挙だったのか——『鎌倉殿の13人』が描いた亀の前事件を史料で読む
大河『鎌倉殿の13人』で、北条政子が頼朝の愛人・亀の前の住まいを打ち壊させる「亀の前事件」が描かれた。嫉妬に狂った話として語られてきたこの一件、史料と研究をたどると別の顔が見えてくる。
3月の『鎌倉殿の13人』は、北条政子が頼朝の愛人・亀の前の住まいを打ち壊させる、いわゆる亀の前事件で盛り上がった。 経緯はこうだ。寿永元年(1182)、政子が第二子を身ごもっているあいだに、頼朝は伊豆から亀の前を呼び寄せ、小坪(いまの逗子市)の屋敷に住まわせた。8月12日に政子が男子(のちの頼家)を産んだあとも、頼朝の執心は半ば公然のものとなる。11月10日、これを知った政子は、亀の前が身を寄せていた伏見広綱の屋敷を襲わせ、打ち壊させた。亀の前は難を逃れている。怒った頼朝は、実行役の髻を自らの手で切り落とした。成人男子の証を奪う、最大の恥辱である。これに腹を立てた北条時政が、無断で伊豆へ引き揚げる騒ぎにまでなった。 さて、実行役は誰だったのか。『吾妻鏡』はこれを牧宗親と記す。ところがサライの記事によれば、歴史学者の野口実氏は、正しくは時政の後妻・牧の方の兄である大岡時親だろうと指摘し、山本みなみ氏もこの説を支持しているという。ドラマは『吾妻鏡』に従って宗親として描いた。幕府の記録とされる書物にも、人名の取り違えは起こりうる。史料は読むものであって、拝むものではない。 もう一つの問いは、政子の動機だ。この行為は「後妻打ち(うわなりうち)」と呼ばれ、夫を奪った後妻の家を先妻が襲う習わしだった。サライの記事は清水克行氏の研究を引き、平安時代中期から少なくとも江戸時代初めまで広く行われた習俗だとして、政子の行動を嫉妬の暴挙ではなく、妻の座と跡継ぎの母の座を守る「自衛戦争」と読む見方を紹介している。nippon.comの記事は、都育ちの牧の方が京の後妻打ちを政子に教えたと説明する。 嫉妬か、作法にのっとった制裁か。悍婦・政子という像は、後世の読み手が好んで膨らませたものではなかったか。とはいえ、習わしだったからといって、打ち壊された側の災難が軽くなるわけでもない。史料が語るのは、鎌倉の御家人たちもまた、家の中の揉めごとに右往左往する人間だったということである。
「後妻打ち」は嫉妬の暴挙だったのか——『鎌倉殿の13人』が描いた亀の前事件を史料で読む
大河『鎌倉殿の13人』で、北条政子が頼朝の愛人・亀の前の住まいを打ち壊させる「亀の前事件」が描かれた。嫉妬に狂った話として語られてきたこの一件、史料と研究をたどると別の顔が見えてくる。
3月の『鎌倉殿の13人』は、北条政子が頼朝の愛人・亀の前の住まいを打ち壊させる、いわゆる亀の前事件で盛り上がった。 経緯はこうだ。寿永元年(1182)、政子が第二子を身ごもっているあいだに、頼朝は伊豆から亀の前を呼び寄せ、小坪(いまの逗子市)の屋敷に住まわせた。8月12日に政子が男子(のちの頼家)を産んだあとも、頼朝の執心は半ば公然のものとなる。11月10日、これを知った政子は、亀の前が身を寄せていた伏見広綱の屋敷を襲わせ、打ち壊させた。亀の前は難を逃れている。怒った頼朝は、実行役の髻を自らの手で切り落とした。成人男子の証を奪う、最大の恥辱である。これに腹を立てた北条時政が、無断で伊豆へ引き揚げる騒ぎにまでなった。 さて、実行役は誰だったのか。『吾妻鏡』はこれを牧宗親と記す。ところがサライの記事によれば、歴史学者の野口実氏は、正しくは時政の後妻・牧の方の兄である大岡時親だろうと指摘し、山本みなみ氏もこの説を支持しているという。ドラマは『吾妻鏡』に従って宗親として描いた。幕府の記録とされる書物にも、人名の取り違えは起こりうる。史料は読むものであって、拝むものではない。 もう一つの問いは、政子の動機だ。この行為は「後妻打ち(うわなりうち)」と呼ばれ、夫を奪った後妻の家を先妻が襲う習わしだった。サライの記事は清水克行氏の研究を引き、平安時代中期から少なくとも江戸時代初めまで広く行われた習俗だとして、政子の行動を嫉妬の暴挙ではなく、妻の座と跡継ぎの母の座を守る「自衛戦争」と読む見方を紹介している。nippon.comの記事は、都育ちの牧の方が京の後妻打ちを政子に教えたと説明する。 嫉妬か、作法にのっとった制裁か。悍婦・政子という像は、後世の読み手が好んで膨らませたものではなかったか。とはいえ、習わしだったからといって、打ち壊された側の災難が軽くなるわけでもない。史料が語るのは、鎌倉の御家人たちもまた、家の中の揉めごとに右往左往する人間だったということである。
康勝
運慶の四男で、口から六体の仏が現れる「空也上人立像」を刻んだ鎌倉の仏師
口から六体の阿弥陀仏が現れる、あの空也上人立像。像は知っていても、刻んだ仏師の名まで言える人はそう多くないだろう。康勝(生没年不詳)、鎌倉時代の大仏師・運慶の四男である。兄の湛慶と同じく、慶派の仏師として腕をふるった。 空也上人立像がいつ作られたかははっきりしないが、法橋の位に就く前の作とみられている。1232年(貞永元年)には法隆寺金堂西の間の阿弥陀三尊像を手がけて「法橋康勝」の銘を残し、翌1233年(天福元年)には東寺御影堂の弘法大師坐像(国宝)を造った。1237年(嘉禎3年)より前には世を去っていたと推定される。 念仏の声を仏の姿で見せるという思い切った趣向は、写実を突きつめた慶派ならではの発想だろう。特集で芭蕉さんが書いたとおり、その立像がいま上野の東京国立博物館に来ている。わたしも細工ものには目がない口やから、あの小さな六体の仏は、ぜひとも間近で見ておきたいもんやなあ。
康勝
運慶の四男で、口から六体の仏が現れる「空也上人立像」を刻んだ鎌倉の仏師
口から六体の阿弥陀仏が現れる、あの空也上人立像。像は知っていても、刻んだ仏師の名まで言える人はそう多くないだろう。康勝(生没年不詳)、鎌倉時代の大仏師・運慶の四男である。兄の湛慶と同じく、慶派の仏師として腕をふるった。 空也上人立像がいつ作られたかははっきりしないが、法橋の位に就く前の作とみられている。1232年(貞永元年)には法隆寺金堂西の間の阿弥陀三尊像を手がけて「法橋康勝」の銘を残し、翌1233年(天福元年)には東寺御影堂の弘法大師坐像(国宝)を造った。1237年(嘉禎3年)より前には世を去っていたと推定される。 念仏の声を仏の姿で見せるという思い切った趣向は、写実を突きつめた慶派ならではの発想だろう。特集で芭蕉さんが書いたとおり、その立像がいま上野の東京国立博物館に来ている。わたしも細工ものには目がない口やから、あの小さな六体の仏は、ぜひとも間近で見ておきたいもんやなあ。
2022年3月号をお届けします。今月の目玉は、上野に半世紀ぶりにやって来た空也上人立像。芭蕉さんが、疫病の都を歩いた「市聖」の旅に思いを寄せて書いてくれました。こんな人のコーナーでは、その像を刻んだ運慶の四男・康勝を紹介しています。 秋成さんは、大河で描かれた亀の前事件を史料からたどり直しました。『吾妻鏡』にも人名の取り違えがあるかもしれん、という話には、記録というものの危うさを改めて感じます。 かわら版には、国芳と芳年の浮世絵展、武田軍の拠点・古宮城、飫肥の小村寿太郎記念館、そして為朝伝説と、西へ東へ話題が散らばりました。春の陽気に誘われて、どこか一つでも足を運んでもらえたらうれしい限りです。
2022年3月号をお届けします。今月の目玉は、上野に半世紀ぶりにやって来た空也上人立像。芭蕉さんが、疫病の都を歩いた「市聖」の旅に思いを寄せて書いてくれました。こんな人のコーナーでは、その像を刻んだ運慶の四男・康勝を紹介しています。 秋成さんは、大河で描かれた亀の前事件を史料からたどり直しました。『吾妻鏡』にも人名の取り違えがあるかもしれん、という話には、記録というものの危うさを改めて感じます。 かわら版には、国芳と芳年の浮世絵展、武田軍の拠点・古宮城、飫肥の小村寿太郎記念館、そして為朝伝説と、西へ東へ話題が散らばりました。春の陽気に誘われて、どこか一つでも足を運んでもらえたらうれしい限りです。