『光る君へ』に和泉式部が登場。紫式部日記の「けしからぬかた」評は、どこまで本音か
大河『光る君へ』第30回で、泉里香さん演じるあかね=のちの和泉式部が登場した。奔放な歌人を紫式部はどう評したのか、日記の一節から考えてみる。
「和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど和泉はけしからぬかたこそあれ」。『紫式部日記』のこの一節ほど、後世の人物像を決めてしまった寸評も珍しい。その和泉式部が、8月4日放送の大河ドラマ『光る君へ』第30回「つながる言の葉」でついに姿を見せた。演じるのは泉里香さん。劇中の名は「あかね」である。 よろず~ニュースの記事によれば、和泉式部は越前守・大江雅致の娘。和泉守・橘道貞の妻となり、のちに冷泉天皇の皇子・為尊親王と恋仲になる。親王の死後は弟の敦道親王から求愛され、晩年には道長の家司・藤原保昌と再婚した。本名は伝わっていない。婦人公論.jpやサライ.jpも、二人の親王に愛された「恋多き才女」としてその生涯をたどっている。 ドラマのあかねは、シースルーの単衣で酔ってふらつき、「何もかも脱いでしまいたい」と言い放つ。スポニチやイザ!の記事によれば、ネットは「平安のギャル」「なかなかフリーダム」と沸いたそうだ。 では、紫式部の評は本当に酷評だったのか。先の一節は「手紙のやりとりは実に趣がある」と認めたうえで、素行に難がある、と続く。歌についても、口をついて自然に歌が出てくる人ではあるが、古歌の知識や歌の理屈には通じておらず、こちらが気後れするほどの歌詠みとは思わない、という書き方をしている。才能は認める、しかし手放しには褒めない。文春オンラインの記事が紹介するように、式部は同じ日記で清少納言や赤染衛門も論評しており、和泉式部だけを狙い撃ちしたわけではない。 とはいえ、ここで一歩引いておきたい。この評が載るのは、日記の中でも誰かに宛てた手紙のような体裁で書かれた部分であり、同僚への評は多分に「身内向けの品定め」の色を帯びる。それを千年後の我々が性格判定の決定版として読むのは、少々素直すぎるのではないか。道長が彼女を「浮かれ女」と呼んだという逸話も同様で、名高い悪口ほど一人歩きするものだ。 第30回はまひろが『源氏物語』に筆を下ろす直前の回でもある。ライバルたちの歌と手紙に囲まれてこそ物語は生まれた、という描き方なら、式部の辛口もまた一つの「つながる言の葉」と言えるだろう。
『光る君へ』に和泉式部が登場。紫式部日記の「けしからぬかた」評は、どこまで本音か
大河『光る君へ』第30回で、泉里香さん演じるあかね=のちの和泉式部が登場した。奔放な歌人を紫式部はどう評したのか、日記の一節から考えてみる。
「和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど和泉はけしからぬかたこそあれ」。『紫式部日記』のこの一節ほど、後世の人物像を決めてしまった寸評も珍しい。その和泉式部が、8月4日放送の大河ドラマ『光る君へ』第30回「つながる言の葉」でついに姿を見せた。演じるのは泉里香さん。劇中の名は「あかね」である。 よろず~ニュースの記事によれば、和泉式部は越前守・大江雅致の娘。和泉守・橘道貞の妻となり、のちに冷泉天皇の皇子・為尊親王と恋仲になる。親王の死後は弟の敦道親王から求愛され、晩年には道長の家司・藤原保昌と再婚した。本名は伝わっていない。婦人公論.jpやサライ.jpも、二人の親王に愛された「恋多き才女」としてその生涯をたどっている。 ドラマのあかねは、シースルーの単衣で酔ってふらつき、「何もかも脱いでしまいたい」と言い放つ。スポニチやイザ!の記事によれば、ネットは「平安のギャル」「なかなかフリーダム」と沸いたそうだ。 では、紫式部の評は本当に酷評だったのか。先の一節は「手紙のやりとりは実に趣がある」と認めたうえで、素行に難がある、と続く。歌についても、口をついて自然に歌が出てくる人ではあるが、古歌の知識や歌の理屈には通じておらず、こちらが気後れするほどの歌詠みとは思わない、という書き方をしている。才能は認める、しかし手放しには褒めない。文春オンラインの記事が紹介するように、式部は同じ日記で清少納言や赤染衛門も論評しており、和泉式部だけを狙い撃ちしたわけではない。 とはいえ、ここで一歩引いておきたい。この評が載るのは、日記の中でも誰かに宛てた手紙のような体裁で書かれた部分であり、同僚への評は多分に「身内向けの品定め」の色を帯びる。それを千年後の我々が性格判定の決定版として読むのは、少々素直すぎるのではないか。道長が彼女を「浮かれ女」と呼んだという逸話も同様で、名高い悪口ほど一人歩きするものだ。 第30回はまひろが『源氏物語』に筆を下ろす直前の回でもある。ライバルたちの歌と手紙に囲まれてこそ物語は生まれた、という描き方なら、式部の辛口もまた一つの「つながる言の葉」と言えるだろう。
足で描いた画家・白髪一雄、生誕100年。故郷の尼崎で回顧展と記念事業が相次ぐ
天井から吊ったロープにつかまり、素足でカンバスを滑走して描いた白髪一雄。生誕100年の今年、生まれ故郷の尼崎で回顧展や関連企画が続いている。
絵筆を捨てて、足で描く。そう聞くと奇をてらった芸のように思えるが、白髪一雄(1924〜2008)の絵の前に立つと、そんな軽口は引っ込む。油絵具の厚い層に、滑った足の軌跡がそのまま残っている。描いたというより、格闘した跡やなあ、というのが正直な感想である。 その白髪一雄の生誕100年を記念する回顧展「生誕100年白髪一雄 行為にこそ総てをかけて」が、生まれ故郷の兵庫県尼崎市、尼崎市総合文化センター美術ホールで開かれている。産経新聞の記事によれば、作品と資料は120点を超え、地元が生んだアクション・ペインターの人生を振り返る内容だという。日本経済新聞の記事は、カンバスの上を素足で滑走して描く独創的な抽象表現がいかにして生まれたのかに迫る展示だと紹介している。 白髪は戦後、吉原治良が率いた関西の前衛美術集団「具体美術協会」の中心メンバーとして活躍した。のちに比叡山で得度しており、仏教的な主題の作品も手がけている。尼崎の文化施設A-LABでは、関連企画展「常行三昧 Jogyo Zanmai」も開かれているとKiss PRESSが伝えている。 面白いのは、記念事業が展覧会だけにとどまらないことだ。毎日新聞の記事によれば、尼崎市では展覧会に加えて、ゆかりの地を記した地図やロゴの制作など、多角的に「尼崎との縁」を掘り起こしているという。産経新聞の連載「アマ物語」では、少年時代の「赤」の記憶から、足で描き続けた画家の世界がたどられていた。 大坂の町なかで珍品を集めては人に見せていた手前としては、郷土の人がこうして一人の画家を丸ごと抱え込もうとする姿は、実にうれしい。尼崎は大坂のお隣、ちょっと足を延ばせば行ける距離である。できることなら、あの足跡の生々しい一枚を、自分の座敷に一晩だけでも掛けてみたいものや。
足で描いた画家・白髪一雄、生誕100年。故郷の尼崎で回顧展と記念事業が相次ぐ
天井から吊ったロープにつかまり、素足でカンバスを滑走して描いた白髪一雄。生誕100年の今年、生まれ故郷の尼崎で回顧展や関連企画が続いている。
絵筆を捨てて、足で描く。そう聞くと奇をてらった芸のように思えるが、白髪一雄(1924〜2008)の絵の前に立つと、そんな軽口は引っ込む。油絵具の厚い層に、滑った足の軌跡がそのまま残っている。描いたというより、格闘した跡やなあ、というのが正直な感想である。 その白髪一雄の生誕100年を記念する回顧展「生誕100年白髪一雄 行為にこそ総てをかけて」が、生まれ故郷の兵庫県尼崎市、尼崎市総合文化センター美術ホールで開かれている。産経新聞の記事によれば、作品と資料は120点を超え、地元が生んだアクション・ペインターの人生を振り返る内容だという。日本経済新聞の記事は、カンバスの上を素足で滑走して描く独創的な抽象表現がいかにして生まれたのかに迫る展示だと紹介している。 白髪は戦後、吉原治良が率いた関西の前衛美術集団「具体美術協会」の中心メンバーとして活躍した。のちに比叡山で得度しており、仏教的な主題の作品も手がけている。尼崎の文化施設A-LABでは、関連企画展「常行三昧 Jogyo Zanmai」も開かれているとKiss PRESSが伝えている。 面白いのは、記念事業が展覧会だけにとどまらないことだ。毎日新聞の記事によれば、尼崎市では展覧会に加えて、ゆかりの地を記した地図やロゴの制作など、多角的に「尼崎との縁」を掘り起こしているという。産経新聞の連載「アマ物語」では、少年時代の「赤」の記憶から、足で描き続けた画家の世界がたどられていた。 大坂の町なかで珍品を集めては人に見せていた手前としては、郷土の人がこうして一人の画家を丸ごと抱え込もうとする姿は、実にうれしい。尼崎は大坂のお隣、ちょっと足を延ばせば行ける距離である。できることなら、あの足跡の生々しい一枚を、自分の座敷に一晩だけでも掛けてみたいものや。
対馬の行列、相島の復元船、近江の朝鮮人街道——この夏、朝鮮通信使の道がにぎわった
江戸時代、朝鮮王朝から将軍のもとへ送られた外交使節・朝鮮通信使。この8月、対馬・福岡・滋賀と、その道筋の各地で足跡をたどる催しが続いた。
夏の海を渡り、陸路を踏みしめて江戸を目指した一行があった。江戸時代、朝鮮王朝が徳川将軍のもとへ送った外交使節、朝鮮通信使である。その道筋の上で、この8月、昔をしのぶ催しが相次いだ。 まずは玄関口の対馬。長崎新聞の記事によれば、日韓の市民約250人が朝鮮通信使の行列を再現し、華やかな装束で島の町を練り歩いたという。海峡を越えてきた一行を最初に迎えたのがこの島であったことを思えば、行列の先頭に立つ人々の胸中も格別であろう。 続いて玄界灘の相島(福岡県)。朝日新聞の記事によれば、朝鮮通信使の復元船が8月に相島へ来航し、一般公開もされるという。相島への来航は260年ぶりとのことである。通信使が江戸まで旅をしたのは宝暦14年(1764年)の一行が最後であり、ちょうどそこから数えての節目にあたる。小さな島の浜に、帆を上げた使節船が再び姿を見せる。潮の香りの中で見上げる船影は、さぞ見ものであったろう。 そして陸路の近江。駐大阪韓国文化院が8月28日に催した歴史ツアーでは、ユネスコ「世界の記憶」への「朝鮮通信使に関する記録」の登録7周年を記念して、32人の参加者が野洲から彦根まで続く朝鮮人街道の道筋をたどった。愛媛新聞に掲載された発表によれば、応募倍率は14倍。雨森芳洲庵、高月観音の里歴史民俗資料館、通信使の宿や休憩所となった彦根の宗安寺、本願寺八幡別院などを巡り、大阪歴史博物館の大澤研一館長が案内役を務めたという。雨森芳洲は対馬藩に仕えて通信使の応接にあたった儒者で、近江の高月の出身である。 海の島から湖のほとりまで、一本の道が今も人を呼び寄せている。私も若い頃は旅に身を置き、見知らぬ土地の人と言葉を交わすことに心を砕いた。言葉も衣も違う一行が、宿ごとに詩文を交わしながら進んだという道は、やはり一度自分の足で歩いてみたいものである。杖を止めて見る近江の湖面は、きっと通信使たちの目にも同じように光っていたに違いない。
対馬の行列、相島の復元船、近江の朝鮮人街道——この夏、朝鮮通信使の道がにぎわった
江戸時代、朝鮮王朝から将軍のもとへ送られた外交使節・朝鮮通信使。この8月、対馬・福岡・滋賀と、その道筋の各地で足跡をたどる催しが続いた。
夏の海を渡り、陸路を踏みしめて江戸を目指した一行があった。江戸時代、朝鮮王朝が徳川将軍のもとへ送った外交使節、朝鮮通信使である。その道筋の上で、この8月、昔をしのぶ催しが相次いだ。 まずは玄関口の対馬。長崎新聞の記事によれば、日韓の市民約250人が朝鮮通信使の行列を再現し、華やかな装束で島の町を練り歩いたという。海峡を越えてきた一行を最初に迎えたのがこの島であったことを思えば、行列の先頭に立つ人々の胸中も格別であろう。 続いて玄界灘の相島(福岡県)。朝日新聞の記事によれば、朝鮮通信使の復元船が8月に相島へ来航し、一般公開もされるという。相島への来航は260年ぶりとのことである。通信使が江戸まで旅をしたのは宝暦14年(1764年)の一行が最後であり、ちょうどそこから数えての節目にあたる。小さな島の浜に、帆を上げた使節船が再び姿を見せる。潮の香りの中で見上げる船影は、さぞ見ものであったろう。 そして陸路の近江。駐大阪韓国文化院が8月28日に催した歴史ツアーでは、ユネスコ「世界の記憶」への「朝鮮通信使に関する記録」の登録7周年を記念して、32人の参加者が野洲から彦根まで続く朝鮮人街道の道筋をたどった。愛媛新聞に掲載された発表によれば、応募倍率は14倍。雨森芳洲庵、高月観音の里歴史民俗資料館、通信使の宿や休憩所となった彦根の宗安寺、本願寺八幡別院などを巡り、大阪歴史博物館の大澤研一館長が案内役を務めたという。雨森芳洲は対馬藩に仕えて通信使の応接にあたった儒者で、近江の高月の出身である。 海の島から湖のほとりまで、一本の道が今も人を呼び寄せている。私も若い頃は旅に身を置き、見知らぬ土地の人と言葉を交わすことに心を砕いた。言葉も衣も違う一行が、宿ごとに詩文を交わしながら進んだという道は、やはり一度自分の足で歩いてみたいものである。杖を止めて見る近江の湖面は、きっと通信使たちの目にも同じように光っていたに違いない。
日本の 夜明けを待った 龍馬さえ 台風の夜は そそくさ避難
─ 土佐の雨男 ─
日本の 夜明けを待った 龍馬さえ 台風の夜は そそくさ避難
─ 土佐の雨男 ─
2024年8月号をお届けします。大河『光る君へ』にいよいよ和泉式部が現れ、秋成はんが紫式部の辛口評に辛口で応じる一本を寄せてくれました。お隣の尼崎では白髪一雄の生誕100年、芭蕉はんは対馬から近江まで朝鮮通信使の道を追いかけております。 かわら版には黒船の日記から台風で避難した龍馬像まで並べました。20世紀の権力と芸術の関わりを照らすヒトラーの美術展の検証記事も含め、真夏らしく幅の広い号になったなあと、団扇を片手に振り返っております。
2024年8月号をお届けします。大河『光る君へ』にいよいよ和泉式部が現れ、秋成はんが紫式部の辛口評に辛口で応じる一本を寄せてくれました。お隣の尼崎では白髪一雄の生誕100年、芭蕉はんは対馬から近江まで朝鮮通信使の道を追いかけております。 かわら版には黒船の日記から台風で避難した龍馬像まで並べました。20世紀の権力と芸術の関わりを照らすヒトラーの美術展の検証記事も含め、真夏らしく幅の広い号になったなあと、団扇を片手に振り返っております。