中津藩で育まれた学問の歴史と、福澤諭吉の思想形成——特別展「学問に凝る勿れ」
漢学・国学・蘭学が豊かに息づいた豊前中津藩。福澤諭吉の先進的な思想を育んだ城下の学問的土壌を、中津市歴史博物館の特別展とともに松尾芭蕉が辿る。
冬枯れの豊前路をゆく風に、かつてこの地から全国へと放たれた近代の息吹を思う。2024年12月、大分県中津市歴史博物館で開催された特別展「学問に凝る勿(なか)れ―中津の社会・学問・学者たち―」の報せに接し、一人の巨人を育んだ風土の深みに思いを馳せることとなった。中津といえば慶應義塾の創設者・福澤諭吉の出身地としてあまねく知られるが、本展が浮き彫りにしたのは、突如として天才が現れたのではなく、藩全体に漢学・国学・蘭学・洋学が重層的に根付いていた豊かな土壌の存在である。 中津藩奥平家といえば、江戸中期に『解体新書』の翻訳を主導した前野良沢を輩出した名門。良沢の蒔いた実証主義の種は、城下に脈々と受け継がれていた。慶應義塾大学の解説にも紹介されているように、幕末の藩士・奥平壱岐をはじめとする知識人たちが全国と広く文通し、長崎のオランダ通詞や上方・江戸の学者と結んだ人的ネットワークの厚みこそが、若き日の諭吉の視野を世界へと押し広げる跳躍台となったのだ。 とかく後世の評伝は、旧弊な封建制を打ち破った「孤高の英雄」として偉人を描きがちである。しかし、街道に杖を止め、その土地の古文書や史跡に耳を傾けるならば、どんな革新的な知性も、先人たちが丹念に耕した学問の沃野から芽吹いたものであることが深く納得されよう。豊前の山河に抱かれた城下町に立ち、学問への誠実な情熱をリレーのように繋いできた無数の名もなき学者たちの足跡を偲ぶ、感慨深い冬の旅路となった。
中津藩で育まれた学問の歴史と、福澤諭吉の思想形成——特別展「学問に凝る勿れ」
漢学・国学・蘭学が豊かに息づいた豊前中津藩。福澤諭吉の先進的な思想を育んだ城下の学問的土壌を、中津市歴史博物館の特別展とともに松尾芭蕉が辿る。
冬枯れの豊前路をゆく風に、かつてこの地から全国へと放たれた近代の息吹を思う。2024年12月、大分県中津市歴史博物館で開催された特別展「学問に凝る勿(なか)れ―中津の社会・学問・学者たち―」の報せに接し、一人の巨人を育んだ風土の深みに思いを馳せることとなった。中津といえば慶應義塾の創設者・福澤諭吉の出身地としてあまねく知られるが、本展が浮き彫りにしたのは、突如として天才が現れたのではなく、藩全体に漢学・国学・蘭学・洋学が重層的に根付いていた豊かな土壌の存在である。 中津藩奥平家といえば、江戸中期に『解体新書』の翻訳を主導した前野良沢を輩出した名門。良沢の蒔いた実証主義の種は、城下に脈々と受け継がれていた。慶應義塾大学の解説にも紹介されているように、幕末の藩士・奥平壱岐をはじめとする知識人たちが全国と広く文通し、長崎のオランダ通詞や上方・江戸の学者と結んだ人的ネットワークの厚みこそが、若き日の諭吉の視野を世界へと押し広げる跳躍台となったのだ。 とかく後世の評伝は、旧弊な封建制を打ち破った「孤高の英雄」として偉人を描きがちである。しかし、街道に杖を止め、その土地の古文書や史跡に耳を傾けるならば、どんな革新的な知性も、先人たちが丹念に耕した学問の沃野から芽吹いたものであることが深く納得されよう。豊前の山河に抱かれた城下町に立ち、学問への誠実な情熱をリレーのように繋いできた無数の名もなき学者たちの足跡を偲ぶ、感慨深い冬の旅路となった。
『光る君へ』が完結。刀伊の入寇、道長の最期、そして院政へ——ドラマの外側にある史実
大河『光る君へ』が12月15日の最終回で幕を下ろした。刀伊の入寇、道長の死、紫式部のその後。史料が語ることと語らないことを、最後に仕分けておきたい。
一年かけて紫式部の生涯を描いてきた大河ドラマ『光る君へ』が、12月15日の最終回で完結した。終盤の見せ場は、12月1日放送の第46回だろう。寛仁3年(1019年)、大陸の女真族とみられる一団が対馬・壱岐から筑前へ攻め寄せた「刀伊の入寇」である。 サライ.jpの記事は、この危機に大宰権帥として居合わせた藤原隆家に光を当てている。かつて花山院に矢を射かけて左遷された暴れ者が、今度は国を守る側に立って賊を退けた。togetterのまとめを見ると、視聴者は想像以上に本格的な合戦描写に驚いたようだ。 ただし、ここは一歩引いておきたい。ドラマではまひろ(紫式部)が大宰府に下り、この騒ぎに巻き込まれる。だが紫式部が九州へ旅したという記録はない。晩年の消息も、没年も、はっきりしないのが実際のところだ。現代ビジネスの記事で時代考証担当者が道長の最期と紫式部のその後を解説しているのも、史料の空白をどう埋めたかを知るうえで参考になる。 道長は万寿4年(1027年)に世を去る。東洋経済の記事が言うように、その後の世は摂関政治の終わりと院政の始まりへ向かっていく。ダイヤモンド・オンラインによれば、院政を始めた白河上皇もまた道長の子孫だった。栄華の頂点は、そのまま次の時代の入口でもあったわけだ。 サライ.jpには、道長の直系の子孫である近衞忠大さんがこの一年を振り返る記事も載った。千年前の人物の子孫が、ドラマの感想を語る。それもまた、この大河らしい幕切れと言えるかもしれない。 物語は史実の空白に宿る。その空白がどこにあるのかを知っておくことは、物語を楽しむ妨げにはならないはずだ。
『光る君へ』が完結。刀伊の入寇、道長の最期、そして院政へ——ドラマの外側にある史実
大河『光る君へ』が12月15日の最終回で幕を下ろした。刀伊の入寇、道長の死、紫式部のその後。史料が語ることと語らないことを、最後に仕分けておきたい。
一年かけて紫式部の生涯を描いてきた大河ドラマ『光る君へ』が、12月15日の最終回で完結した。終盤の見せ場は、12月1日放送の第46回だろう。寛仁3年(1019年)、大陸の女真族とみられる一団が対馬・壱岐から筑前へ攻め寄せた「刀伊の入寇」である。 サライ.jpの記事は、この危機に大宰権帥として居合わせた藤原隆家に光を当てている。かつて花山院に矢を射かけて左遷された暴れ者が、今度は国を守る側に立って賊を退けた。togetterのまとめを見ると、視聴者は想像以上に本格的な合戦描写に驚いたようだ。 ただし、ここは一歩引いておきたい。ドラマではまひろ(紫式部)が大宰府に下り、この騒ぎに巻き込まれる。だが紫式部が九州へ旅したという記録はない。晩年の消息も、没年も、はっきりしないのが実際のところだ。現代ビジネスの記事で時代考証担当者が道長の最期と紫式部のその後を解説しているのも、史料の空白をどう埋めたかを知るうえで参考になる。 道長は万寿4年(1027年)に世を去る。東洋経済の記事が言うように、その後の世は摂関政治の終わりと院政の始まりへ向かっていく。ダイヤモンド・オンラインによれば、院政を始めた白河上皇もまた道長の子孫だった。栄華の頂点は、そのまま次の時代の入口でもあったわけだ。 サライ.jpには、道長の直系の子孫である近衞忠大さんがこの一年を振り返る記事も載った。千年前の人物の子孫が、ドラマの感想を語る。それもまた、この大河らしい幕切れと言えるかもしれない。 物語は史実の空白に宿る。その空白がどこにあるのかを知っておくことは、物語を楽しむ妨げにはならないはずだ。
近衞文麿の旧宅「荻外荘」が復原、公開へ。昭和の政治の裏舞台だった荻窪の邸
首相・近衞文麿が暮らした東京・荻窪の「荻外荘」が復原され、12月に公開が始まった。設計は築地本願寺で知られる伊東忠太。昭和の政治の舞台になった邸をたどる。
荻窪の住宅街に、昭和の政治を動かした一軒の邸がある。近衞文麿の旧宅「荻外荘」だ。杉並区が進めてきた復原が終わり、12月に公開が始まった。 産経新聞によれば、内部の公開は12月9日から。前日の8日には、開園を祝う催しが開かれたという。邸を設計したのは、築地本願寺や平安神宮で知られる建築家・伊東忠太。timeout.jpの記事は、建てられてから100年の時を経ての復原と紹介している。 近衞文麿は、戦前に三度首相を務めた人物である。荻外荘という名は、元老・西園寺公望が付けたと伝わる。首相時代の近衞はここで要人たちと会談を重ね、邸は「政治の裏舞台」とも呼ばれた。そして敗戦後の1945年12月、戦犯容疑者として出頭を命じられた近衞は、この邸で自ら命を絶っている。華やかな会談の場と、一人の政治家の最期の場が、同じ屋根の下にあるわけやね。 偶然にも、今月完結した大河『光る君へ』の主人公格・藤原道長の直系の子孫が近衞家である。千年前の摂関家の栄華と、昭和の首相の苦悩。一つの家の歴史をたどると、時代の振れ幅の大きさに目が回りそうになる。 書画骨董を集めてきた身としては、邸に残る調度や書にも目が行く。建物は、住んだ人の好みを映す器でもある。伊東忠太の意匠のなかに、近衞という人の趣味がどう表れているのか。いずれ自分の目で確かめてみたいものや。
近衞文麿の旧宅「荻外荘」が復原、公開へ。昭和の政治の裏舞台だった荻窪の邸
首相・近衞文麿が暮らした東京・荻窪の「荻外荘」が復原され、12月に公開が始まった。設計は築地本願寺で知られる伊東忠太。昭和の政治の舞台になった邸をたどる。
荻窪の住宅街に、昭和の政治を動かした一軒の邸がある。近衞文麿の旧宅「荻外荘」だ。杉並区が進めてきた復原が終わり、12月に公開が始まった。 産経新聞によれば、内部の公開は12月9日から。前日の8日には、開園を祝う催しが開かれたという。邸を設計したのは、築地本願寺や平安神宮で知られる建築家・伊東忠太。timeout.jpの記事は、建てられてから100年の時を経ての復原と紹介している。 近衞文麿は、戦前に三度首相を務めた人物である。荻外荘という名は、元老・西園寺公望が付けたと伝わる。首相時代の近衞はここで要人たちと会談を重ね、邸は「政治の裏舞台」とも呼ばれた。そして敗戦後の1945年12月、戦犯容疑者として出頭を命じられた近衞は、この邸で自ら命を絶っている。華やかな会談の場と、一人の政治家の最期の場が、同じ屋根の下にあるわけやね。 偶然にも、今月完結した大河『光る君へ』の主人公格・藤原道長の直系の子孫が近衞家である。千年前の摂関家の栄華と、昭和の首相の苦悩。一つの家の歴史をたどると、時代の振れ幅の大きさに目が回りそうになる。 書画骨董を集めてきた身としては、邸に残る調度や書にも目が行く。建物は、住んだ人の好みを映す器でもある。伊東忠太の意匠のなかに、近衞という人の趣味がどう表れているのか。いずれ自分の目で確かめてみたいものや。
来年の大河は『べらぼう』。吉原と江戸の出版界、蔦屋重三郎の商いをそろばんで予習する
2025年の大河ドラマは、江戸の出版人・蔦屋重三郎が主人公の『べらぼう』。舞台は吉原と本屋の世界だ。放送を前に出てきた記事から、江戸の色と銭の話を拾ってみた。
『光る君へ』が終われば、次は江戸の町人の番である。2025年の大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』の主人公は、喜多川歌麿や東洲斎写楽を世に出した出版人・蔦屋重三郎。平安の貴族から一転、主役は吉原生まれの本屋だ。 舞台の半分は吉原である。PRESIDENT Onlineは、遊女の値段が「人参10本分」のこともあれば、美少年なら30万円にもなったという、江戸の色町の階級社会を取り上げている。値段の幅がそのまま身分の幅というわけで、色町の勘定ほど世の中を正直に映すものはない。モデルプレスによれば、制作陣は吉原を描くうえで気をつけている点についても語っているという。華やかさだけでは済まない場所だけに、どう描くかは見ものだろう。 もう半分は本の世界だ。ダイヤモンド・オンラインは、蔦重が躍動した江戸の出版事情と、欧米列強を驚かせた日本人の読み書きの力を紹介している。本が売れるには、まず読める客が要る。江戸の出版が商いとして成り立ったのは、字の読める町人が大勢いたからや。 出版の苦労話なら、ちょうど新刊も出た。PR TIMESによれば、直木賞作家の木内昇さんが、鈴木牧之の『北越雪譜』が原稿の完成から刊行まで40年かかった舞台裏を描く小説『雪夢往来』を12月16日に刊行した。見出しには山東京伝や十返舎一九、滝沢馬琴の名も並んでいて、江戸の本屋の世界は、書き手も版元も一筋縄ではいかない。 わしも浮世草子で稼いだ口やから言うが、本は書くより売るほうがよっぽど難しい。蔦重がどうやって当てたのか。大河の一年、商いの手並みをじっくり拝見させてもらおう。
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2025年の大河ドラマは、江戸の出版人・蔦屋重三郎が主人公の『べらぼう』。舞台は吉原と本屋の世界だ。放送を前に出てきた記事から、江戸の色と銭の話を拾ってみた。
『光る君へ』が終われば、次は江戸の町人の番である。2025年の大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』の主人公は、喜多川歌麿や東洲斎写楽を世に出した出版人・蔦屋重三郎。平安の貴族から一転、主役は吉原生まれの本屋だ。 舞台の半分は吉原である。PRESIDENT Onlineは、遊女の値段が「人参10本分」のこともあれば、美少年なら30万円にもなったという、江戸の色町の階級社会を取り上げている。値段の幅がそのまま身分の幅というわけで、色町の勘定ほど世の中を正直に映すものはない。モデルプレスによれば、制作陣は吉原を描くうえで気をつけている点についても語っているという。華やかさだけでは済まない場所だけに、どう描くかは見ものだろう。 もう半分は本の世界だ。ダイヤモンド・オンラインは、蔦重が躍動した江戸の出版事情と、欧米列強を驚かせた日本人の読み書きの力を紹介している。本が売れるには、まず読める客が要る。江戸の出版が商いとして成り立ったのは、字の読める町人が大勢いたからや。 出版の苦労話なら、ちょうど新刊も出た。PR TIMESによれば、直木賞作家の木内昇さんが、鈴木牧之の『北越雪譜』が原稿の完成から刊行まで40年かかった舞台裏を描く小説『雪夢往来』を12月16日に刊行した。見出しには山東京伝や十返舎一九、滝沢馬琴の名も並んでいて、江戸の本屋の世界は、書き手も版元も一筋縄ではいかない。 わしも浮世草子で稼いだ口やから言うが、本は書くより売るほうがよっぽど難しい。蔦重がどうやって当てたのか。大河の一年、商いの手並みをじっくり拝見させてもらおう。
広瀬宰平
土佐藩から別子銅山を理論闘争で守り抜いた、住友財閥の実質的な創業者

今号の「こんな人」はこの御仁、広瀬宰平(1828〜1914)。近江の生まれで、九歳のとき別子銅山の支配人やった叔父に連れられて山に入り、十一歳から鉱山奉公を始めたという叩き上げの人である。慶応四年(1868年)、御一新の混乱に乗じて土佐藩が別子銅山の接収に乗り込んできた際、宰平は接収役人・川田小一郎に真っ向から理論闘争を挑んだ。この山は幕府領やが住友家が独力で見出し経営してきたもの、経験なき者に任せるは国益に反すると訴え、ついに継続経営を認めさせたというから胆力がすごい。 その後は総支配人としてフランス人技師を招き、製錬所や鉱山鉄道を築いて別子を近代化、住友家法を制定して海運・製糸・製鉄にまで手を広げ、今日の住友グループの土台を一人で築き上げた。しかし明治二十七年(1894年)、自らが興した新居浜の製錬所が引き起こした煙害問題の責を負って総理人を辞任。甥の伊庭貞剛に後を託し、大正三年(1914年)、八十五歳で世を去った。功も罪も背負い切った、豪気な明治人である。
広瀬宰平
土佐藩から別子銅山を理論闘争で守り抜いた、住友財閥の実質的な創業者

今号の「こんな人」はこの御仁、広瀬宰平(1828〜1914)。近江の生まれで、九歳のとき別子銅山の支配人やった叔父に連れられて山に入り、十一歳から鉱山奉公を始めたという叩き上げの人である。慶応四年(1868年)、御一新の混乱に乗じて土佐藩が別子銅山の接収に乗り込んできた際、宰平は接収役人・川田小一郎に真っ向から理論闘争を挑んだ。この山は幕府領やが住友家が独力で見出し経営してきたもの、経験なき者に任せるは国益に反すると訴え、ついに継続経営を認めさせたというから胆力がすごい。 その後は総支配人としてフランス人技師を招き、製錬所や鉱山鉄道を築いて別子を近代化、住友家法を制定して海運・製糸・製鉄にまで手を広げ、今日の住友グループの土台を一人で築き上げた。しかし明治二十七年(1894年)、自らが興した新居浜の製錬所が引き起こした煙害問題の責を負って総理人を辞任。甥の伊庭貞剛に後を託し、大正三年(1914年)、八十五歳で世を去った。功も罪も背負い切った、豪気な明治人である。
道長の 望月欠けて 年の暮れ 来週からは 吉原の月
─ 年越し大河難民 ─
道長の 望月欠けて 年の暮れ 来週からは 吉原の月
─ 年越し大河難民 ─
2024年12月号をお届けします。芭蕉翁の中津藩の学問の話に加えて、年の瀬らしく三本の特集を足しました。 一年続いた大河『光る君へ』が完結し、秋成はんは刀伊の入寇から道長の死、院政の始まりまでを、史料のあるところとないところに仕分けてくれました。わたしは近衞文麿の旧宅・荻外荘の復原を取り上げましたが、道長の子孫の家の昭和の話を書いていると、千年があっという間に感じられて妙な気分でした。西鶴はんは来年の大河『べらぼう』を、早くもそろばん片手に待ち構えております。 かわら版には、売茶翁の生誕350年、岩宿遺跡の相沢忠洋の映画化、元寇750年の企画展などを並べました。平安から江戸へ、大河の舞台も年をまたいで大きく動きます。また来年もぼちぼちやっていきます。
2024年12月号をお届けします。芭蕉翁の中津藩の学問の話に加えて、年の瀬らしく三本の特集を足しました。 一年続いた大河『光る君へ』が完結し、秋成はんは刀伊の入寇から道長の死、院政の始まりまでを、史料のあるところとないところに仕分けてくれました。わたしは近衞文麿の旧宅・荻外荘の復原を取り上げましたが、道長の子孫の家の昭和の話を書いていると、千年があっという間に感じられて妙な気分でした。西鶴はんは来年の大河『べらぼう』を、早くもそろばん片手に待ち構えております。 かわら版には、売茶翁の生誕350年、岩宿遺跡の相沢忠洋の映画化、元寇750年の企画展などを並べました。平安から江戸へ、大河の舞台も年をまたいで大きく動きます。また来年もぼちぼちやっていきます。