「御所も危なかった」——GHQに占領された知られざる京都の暗黒史
秋尾沙戸子著『京都占領』の書評から、戦後京都がGHQの管理下に置かれていた知られざる実態が明らかに。
千年の都・京都は、先の大戦において米軍の空爆リストから外され、「文化財を守るため戦災を免れた奇跡の古都」として語られることが多い。だが、そうした甘美な俗説に安住し、戦争の爪痕から遠かったかのように思い做すのは、歴史の考証を怠る者の浅薄な思い込みにすぎない。nippon.comに掲載された秋尾沙戸子著『京都占領』の書評を読み進めながら、占領という過酷な統治がこの古都に落とした深い影に、改めて背筋を正される思いがした。 終戦直後の昭和二十年秋、進駐してきた米陸軍第六軍は、京都御所の目と鼻の先にある京都府庁や商工会議所、さらには名門ホテルや寺社に至るまで次々と接収し、軍政司令部を設置した。書評の表題にある「御所も危なかった」という警鐘は、決して大げさな煽り文句ではない。天皇制の存廃や象徴化をめぐってGHQ内部で激論が交わされていた時期、皇室の故郷である京都御所周辺にも占領軍の冷徹な監視の網が張り巡らされ、一歩間違えれば皇室の尊厳そのものが解体されかねない緊迫した政治的駆け引きが繰り広げられていたのである。 大坂や京都で文筆を執り、朝廷の故実や古記録を調べてきた秋成から見れば、京都が抱える「被占領の記憶」の風化こそ、厳しく問われねばならない。古建築が奇跡的に焼け残ったことと、そこに暮らす人々が主権を奪われ、異国の軍靴に怯えながら過ごした占領の実相とは、まったく別の次元の歴史である。東京中心のGHQ論にとどまらず、古都の路地に刻まれた占領統治の生々しい記録を掘り起こすこと。これこそが、神話化された「京都像」を解体し、真の近現代史と向き合うための確かな道筋といえよう。
「御所も危なかった」——GHQに占領された知られざる京都の暗黒史
秋尾沙戸子著『京都占領』の書評から、戦後京都がGHQの管理下に置かれていた知られざる実態が明らかに。
千年の都・京都は、先の大戦において米軍の空爆リストから外され、「文化財を守るため戦災を免れた奇跡の古都」として語られることが多い。だが、そうした甘美な俗説に安住し、戦争の爪痕から遠かったかのように思い做すのは、歴史の考証を怠る者の浅薄な思い込みにすぎない。nippon.comに掲載された秋尾沙戸子著『京都占領』の書評を読み進めながら、占領という過酷な統治がこの古都に落とした深い影に、改めて背筋を正される思いがした。 終戦直後の昭和二十年秋、進駐してきた米陸軍第六軍は、京都御所の目と鼻の先にある京都府庁や商工会議所、さらには名門ホテルや寺社に至るまで次々と接収し、軍政司令部を設置した。書評の表題にある「御所も危なかった」という警鐘は、決して大げさな煽り文句ではない。天皇制の存廃や象徴化をめぐってGHQ内部で激論が交わされていた時期、皇室の故郷である京都御所周辺にも占領軍の冷徹な監視の網が張り巡らされ、一歩間違えれば皇室の尊厳そのものが解体されかねない緊迫した政治的駆け引きが繰り広げられていたのである。 大坂や京都で文筆を執り、朝廷の故実や古記録を調べてきた秋成から見れば、京都が抱える「被占領の記憶」の風化こそ、厳しく問われねばならない。古建築が奇跡的に焼け残ったことと、そこに暮らす人々が主権を奪われ、異国の軍靴に怯えながら過ごした占領の実相とは、まったく別の次元の歴史である。東京中心のGHQ論にとどまらず、古都の路地に刻まれた占領統治の生々しい記録を掘り起こすこと。これこそが、神話化された「京都像」を解体し、真の近現代史と向き合うための確かな道筋といえよう。
大富豪・鳥山検校が吉原へ、将軍家基は日光社参で田沼をいびる。『べらぼう』2月の見どころを、吉原の銭勘定から読む
大河『べらぼう』は2月、盲目の大金持ち・鳥山検校が吉原に現れ、身請け騒動の幕が開いた。火事を本気で消さない吉原の事情や、蔦重の「届ける商売」まで、各紙の解説を勘定目線でたどる。
身請けの話が出たら、わしはまず値段が気になる。サライ.jpの満喫リポートによれば、2月の『べらぼう』には大富豪の鳥山検校が吉原にやってきた。検校は目の見えない人たちの最高位の官職で、幕府に認められた金貸しで大きな財を築いた者もいた。見出しにある「将軍を激怒させた大名による身請け騒動」は、八代将軍吉宗の頃、姫路藩主の榊原政岑が吉原の高尾太夫を身請けして咎められた一件のことやろう。今度は大名やなく、金貸しの検校が花魁を落籍す。身分より銭がものを言う時代が来た、いうわけや。 同じくサライ.jpは、ドラマに登場した将軍の世継ぎ・徳川家基と日光社参の場面も取り上げている。「馬に乗れる家臣がいるか?」と田沼意次をいびる家基の陰湿さが怖い、とのこと。日光社参は将軍が家康の霊廟に詣でる一大行事で、供の行列だけで莫大な費用がかかった。いびる側もいびられる側も、帳尻を合わせるのは結局、田沼の仕事やったんやないか。 ダイヤモンド・オンラインの解説も勘定の話や。吉原では「火事を本気で消すのはバカ」と言われたらしい。焼けると妓楼は町なかの仮宅で商いを許され、これが手軽でかえって繁盛したからやと言う。火事で儲かる町とは、なんとも因果な商売や。同じ連載によれば、吉原育ちの蔦屋重三郎は「デリバリーシステム」をフル活用したという。本を担いで得意先を回る貸本の商いは、蔦重の出発点でもあった。客の足を待たずに、こちらから届けに行く。これは今でも通じる商法やで。 NEWSポストセブンでは、歴女の堀口茉純さんが吉原大門跡や見返り柳、吉原神社といったゆかりの地を案内している。ドラマで見た町を、今の地図の上で歩いてみる。観光客が増えて地元の店が潤うなら、それもまた大河の経済効果や。もっとも、遊女たちが外へ出られなかった町を、わしらは気軽に出入りできる。そこは忘れんようにしたい。
大富豪・鳥山検校が吉原へ、将軍家基は日光社参で田沼をいびる。『べらぼう』2月の見どころを、吉原の銭勘定から読む
大河『べらぼう』は2月、盲目の大金持ち・鳥山検校が吉原に現れ、身請け騒動の幕が開いた。火事を本気で消さない吉原の事情や、蔦重の「届ける商売」まで、各紙の解説を勘定目線でたどる。
身請けの話が出たら、わしはまず値段が気になる。サライ.jpの満喫リポートによれば、2月の『べらぼう』には大富豪の鳥山検校が吉原にやってきた。検校は目の見えない人たちの最高位の官職で、幕府に認められた金貸しで大きな財を築いた者もいた。見出しにある「将軍を激怒させた大名による身請け騒動」は、八代将軍吉宗の頃、姫路藩主の榊原政岑が吉原の高尾太夫を身請けして咎められた一件のことやろう。今度は大名やなく、金貸しの検校が花魁を落籍す。身分より銭がものを言う時代が来た、いうわけや。 同じくサライ.jpは、ドラマに登場した将軍の世継ぎ・徳川家基と日光社参の場面も取り上げている。「馬に乗れる家臣がいるか?」と田沼意次をいびる家基の陰湿さが怖い、とのこと。日光社参は将軍が家康の霊廟に詣でる一大行事で、供の行列だけで莫大な費用がかかった。いびる側もいびられる側も、帳尻を合わせるのは結局、田沼の仕事やったんやないか。 ダイヤモンド・オンラインの解説も勘定の話や。吉原では「火事を本気で消すのはバカ」と言われたらしい。焼けると妓楼は町なかの仮宅で商いを許され、これが手軽でかえって繁盛したからやと言う。火事で儲かる町とは、なんとも因果な商売や。同じ連載によれば、吉原育ちの蔦屋重三郎は「デリバリーシステム」をフル活用したという。本を担いで得意先を回る貸本の商いは、蔦重の出発点でもあった。客の足を待たずに、こちらから届けに行く。これは今でも通じる商法やで。 NEWSポストセブンでは、歴女の堀口茉純さんが吉原大門跡や見返り柳、吉原神社といったゆかりの地を案内している。ドラマで見た町を、今の地図の上で歩いてみる。観光客が増えて地元の店が潤うなら、それもまた大河の経済効果や。もっとも、遊女たちが外へ出られなかった町を、わしらは気軽に出入りできる。そこは忘れんようにしたい。
恭仁宮跡に国分寺初の「食堂院」、富雄丸山古墳の主は弟と皇位を争った兄か、奄美では最古の鉄鋤。早春の発掘だより
京都・木津川市の恭仁宮跡で、国分寺跡として全国で初めて「食堂院」とみられる礎石が見つかった。奈良の富雄丸山古墳の被葬者をめぐる議論や、奄美・沖縄で最古の鉄の鋤の確認など、各地の便りをまとめた。
まだ風の冷たい二月、発掘の便りは途切れない。京都新聞によれば、京都府木津川市加茂町の恭仁宮跡(山城国分寺跡)で、僧たちが食事をとる「食堂(じきどう)院」を構成する礎石などが見つかった。国分寺跡で食堂院とみられる建物跡が見つかったのは全国で初めてで、古代の寺院の同じような施設としては最大級の規模だという。恭仁宮は聖武天皇が都を置いた宮で、都が移ったあと、その大極殿が国分寺に譲られた。宮の跡が寺になり、そこで大勢の僧が箸をとっていたのだと思うと、田畑の広がる今の景色が少し違って見える。 奈良でも議論が熱い。朝日新聞によれば、蛇行剣や盾形の銅鏡が相次いで見つかった奈良市の富雄丸山古墳に、誰が葬られたのかをめぐって、弟と皇位を争った兄ではないか、という見方が出ている。『日本書紀』で、応神天皇と皇位を争ったとされる異母兄の麛坂王を当てる説で、Togetterでも「ヤマトタケルの孫の墓か」と話題になった。ただし、考古学で証明するのは簡単ではない。伝承の名前と土の中の遺物は、そうたやすく結びつかないものである。 南の島からも知らせが届いた。南海日日新聞によれば、鹿児島県伊仙町の才上遺跡で、奄美・沖縄で最古となる鉄の鋤が確認された。貝塚時代から農具として使われていた可能性があるという。徳之島の土に鋤を入れた人は、どこから鉄を手に入れたのだろうか。 毎日新聞によれば、「飛鳥・藤原の宮都」は世界文化遺産の候補として推薦された。価値が伝わる整備や復元が求められるという。かつて「夏草や兵どもが夢の跡」と詠んだが、宮都の跡も、草の下に眠るだけでは人に伝わらない。掘り、守り、見せる。その積み重ねの先に、千三百年前の都の姿がよみがえるのだろう。
恭仁宮跡に国分寺初の「食堂院」、富雄丸山古墳の主は弟と皇位を争った兄か、奄美では最古の鉄鋤。早春の発掘だより
京都・木津川市の恭仁宮跡で、国分寺跡として全国で初めて「食堂院」とみられる礎石が見つかった。奈良の富雄丸山古墳の被葬者をめぐる議論や、奄美・沖縄で最古の鉄の鋤の確認など、各地の便りをまとめた。
まだ風の冷たい二月、発掘の便りは途切れない。京都新聞によれば、京都府木津川市加茂町の恭仁宮跡(山城国分寺跡)で、僧たちが食事をとる「食堂(じきどう)院」を構成する礎石などが見つかった。国分寺跡で食堂院とみられる建物跡が見つかったのは全国で初めてで、古代の寺院の同じような施設としては最大級の規模だという。恭仁宮は聖武天皇が都を置いた宮で、都が移ったあと、その大極殿が国分寺に譲られた。宮の跡が寺になり、そこで大勢の僧が箸をとっていたのだと思うと、田畑の広がる今の景色が少し違って見える。 奈良でも議論が熱い。朝日新聞によれば、蛇行剣や盾形の銅鏡が相次いで見つかった奈良市の富雄丸山古墳に、誰が葬られたのかをめぐって、弟と皇位を争った兄ではないか、という見方が出ている。『日本書紀』で、応神天皇と皇位を争ったとされる異母兄の麛坂王を当てる説で、Togetterでも「ヤマトタケルの孫の墓か」と話題になった。ただし、考古学で証明するのは簡単ではない。伝承の名前と土の中の遺物は、そうたやすく結びつかないものである。 南の島からも知らせが届いた。南海日日新聞によれば、鹿児島県伊仙町の才上遺跡で、奄美・沖縄で最古となる鉄の鋤が確認された。貝塚時代から農具として使われていた可能性があるという。徳之島の土に鋤を入れた人は、どこから鉄を手に入れたのだろうか。 毎日新聞によれば、「飛鳥・藤原の宮都」は世界文化遺産の候補として推薦された。価値が伝わる整備や復元が求められるという。かつて「夏草や兵どもが夢の跡」と詠んだが、宮都の跡も、草の下に眠るだけでは人に伝わらない。掘り、守り、見せる。その積み重ねの先に、千三百年前の都の姿がよみがえるのだろう。
慈円の「幻の自筆本」、上杉景勝が死生観をつづった書状、高松藩の幕末の手紙。新たに現れた文書を読む
鎌倉初期の高僧・慈円の自筆本が青蓮院で見つかり、米沢では上杉景勝の書状が新たに収蔵された。高松では幕末の手紙から藩の危機を読み解く展示も。この冬、紙の上の言葉が相次いで姿を見せた。
紙は、人より長生きする。京都新聞によれば、『愚管抄』の著者として知られる鎌倉初期の高僧・慈円(1155〜1225年)の自筆本「夢想記」が、慈円が門主を務めた京都・青蓮院で見つかったと、龍谷大学などが発表した。長く行方の分からなかった「幻の原本」で、これと一体とみられる別の自筆本はすでに重要文化財になっているという。見出しには「愚管抄の原点」とある。 慈円は、歴史を「道理」で読み解こうとした人である。だが、その出発点が夢の記録だったとすれば、話は単純ではない。『愚管抄』の理屈と、夢に見たものとは、どうつながっていたのか。「原点」という言葉は分かりやすいが、それは本当だろうか。自筆本の中身がこれから読み込まれていく中で、確かめていきたいところだ。 山形からも書状の話が届いた。47NEWSによれば、米沢市上杉博物館で新収蔵品展が始まり、米沢藩初代藩主・上杉景勝が自らの死生観をつづった書状や、幕末の米沢藩士・雲井龍雄が家族に送った手紙など、新たに確認された資料を含む61点が並んでいるという。寡黙で知られる景勝が、死について何を書いたのか。一通の手紙が、武将の内面に触れる数少ない手がかりになる。 香川では、朝日新聞やcoolkagawa.jpによれば、高松市歴史資料館で収蔵品展「高松注目地域からみる幕末史」が開かれている(3月16日まで)。安政の地震や禁門の変など、災害や内戦が続いた幕末に、高松藩が直面した危機や状況を手紙から読み解くという。 書状や日記は、書いた本人の都合で書かれている。夢の記録はなおさらだ。だから鵜呑みにはできない。けれど、都合ごと読めば、その人がどこを見ていたかが分かる。紙の上の言葉は、読み手が問いを持って向き合ったときに初めて語り出すものである。
慈円の「幻の自筆本」、上杉景勝が死生観をつづった書状、高松藩の幕末の手紙。新たに現れた文書を読む
鎌倉初期の高僧・慈円の自筆本が青蓮院で見つかり、米沢では上杉景勝の書状が新たに収蔵された。高松では幕末の手紙から藩の危機を読み解く展示も。この冬、紙の上の言葉が相次いで姿を見せた。
紙は、人より長生きする。京都新聞によれば、『愚管抄』の著者として知られる鎌倉初期の高僧・慈円(1155〜1225年)の自筆本「夢想記」が、慈円が門主を務めた京都・青蓮院で見つかったと、龍谷大学などが発表した。長く行方の分からなかった「幻の原本」で、これと一体とみられる別の自筆本はすでに重要文化財になっているという。見出しには「愚管抄の原点」とある。 慈円は、歴史を「道理」で読み解こうとした人である。だが、その出発点が夢の記録だったとすれば、話は単純ではない。『愚管抄』の理屈と、夢に見たものとは、どうつながっていたのか。「原点」という言葉は分かりやすいが、それは本当だろうか。自筆本の中身がこれから読み込まれていく中で、確かめていきたいところだ。 山形からも書状の話が届いた。47NEWSによれば、米沢市上杉博物館で新収蔵品展が始まり、米沢藩初代藩主・上杉景勝が自らの死生観をつづった書状や、幕末の米沢藩士・雲井龍雄が家族に送った手紙など、新たに確認された資料を含む61点が並んでいるという。寡黙で知られる景勝が、死について何を書いたのか。一通の手紙が、武将の内面に触れる数少ない手がかりになる。 香川では、朝日新聞やcoolkagawa.jpによれば、高松市歴史資料館で収蔵品展「高松注目地域からみる幕末史」が開かれている(3月16日まで)。安政の地震や禁門の変など、災害や内戦が続いた幕末に、高松藩が直面した危機や状況を手紙から読み解くという。 書状や日記は、書いた本人の都合で書かれている。夢の記録はなおさらだ。だから鵜呑みにはできない。けれど、都合ごと読めば、その人がどこを見ていたかが分かる。紙の上の言葉は、読み手が問いを持って向き合ったときに初めて語り出すものである。
敵味方の別なく救う、を貫いた顔 ― 佐賀で佐野常民の胸像を訪ねて
敵も味方も分け隔てなく手当てする、を貫いた男の胸像に佐賀で対面。日本赤十字社の生みの親は思いのほか穏やかな面持ちであった。

佐賀まで足を運び、日本赤十字社佐賀県支部の前に立つ佐野常民の胸像を訪ねてきた。「佐賀の七賢人」の一人に数えられるこの人、幕末には藩の精煉方で科学技術の導入に尽力し、明治六年(1873年)のウィーン万国博覧会には日本政府の代表委員として渡欧しているというから、その活動範囲はなかなかに広い。 しかし何といっても最大の功績は、明治十年(1877年)の西南戦争のさなか、敵味方の別なく負傷者を救護する「博愛社」を立ち上げたことだろう。「敵であっても傷ついた者は救う」という理念は当時としては相当に先進的で、これがのちの明治二十年(1887年)、日本赤十字社へと発展し、彼はその初代社長に就いている。 木立の下でひっそりと佇む胸像は、その事績の大きさに比してどこまでも物静かな面持ちで、道行く人の誰もが名を知る顔でもない。杖を止めて見上げれば、静かな眼差しの奥に、敵も味方もない博愛の志がなお息づいているように思われた。
敵味方の別なく救う、を貫いた顔 ― 佐賀で佐野常民の胸像を訪ねて
敵も味方も分け隔てなく手当てする、を貫いた男の胸像に佐賀で対面。日本赤十字社の生みの親は思いのほか穏やかな面持ちであった。

佐賀まで足を運び、日本赤十字社佐賀県支部の前に立つ佐野常民の胸像を訪ねてきた。「佐賀の七賢人」の一人に数えられるこの人、幕末には藩の精煉方で科学技術の導入に尽力し、明治六年(1873年)のウィーン万国博覧会には日本政府の代表委員として渡欧しているというから、その活動範囲はなかなかに広い。 しかし何といっても最大の功績は、明治十年(1877年)の西南戦争のさなか、敵味方の別なく負傷者を救護する「博愛社」を立ち上げたことだろう。「敵であっても傷ついた者は救う」という理念は当時としては相当に先進的で、これがのちの明治二十年(1887年)、日本赤十字社へと発展し、彼はその初代社長に就いている。 木立の下でひっそりと佇む胸像は、その事績の大きさに比してどこまでも物静かな面持ちで、道行く人の誰もが名を知る顔でもない。杖を止めて見上げれば、静かな眼差しの奥に、敵も味方もない博愛の志がなお息づいているように思われた。
2025年2月号をお届けします。GHQ占領下の京都という意外な切り口を軸に、中津の学問の系譜を紹介する展覧会や浄安寺の大涅槃図、岡本太郎記念館の企画展まで、地味やけど掘り甲斐のあるネタが揃いました。取材コーナーでは、佐賀で佐野常民の胸像を訪ねてもらいました。敵味方の別なく傷ついた人を救う、という志は、占領の話と並べて読むと、またひとしお胸に迫ります。京都の御所まで接収の危機にあったとは、調べるほどに冷や汗が出ました。後から、べらぼうの鳥山検校、恭仁宮跡の食堂院、慈円の幻の自筆本の特集も足しておきました。寒い月やけど、資料を読み込む手だけは温まります。次号もどうぞよろしゅうお頼み申します。
2025年2月号をお届けします。GHQ占領下の京都という意外な切り口を軸に、中津の学問の系譜を紹介する展覧会や浄安寺の大涅槃図、岡本太郎記念館の企画展まで、地味やけど掘り甲斐のあるネタが揃いました。取材コーナーでは、佐賀で佐野常民の胸像を訪ねてもらいました。敵味方の別なく傷ついた人を救う、という志は、占領の話と並べて読むと、またひとしお胸に迫ります。京都の御所まで接収の危機にあったとは、調べるほどに冷や汗が出ました。後から、べらぼうの鳥山検校、恭仁宮跡の食堂院、慈円の幻の自筆本の特集も足しておきました。寒い月やけど、資料を読み込む手だけは温まります。次号もどうぞよろしゅうお頼み申します。