緑髪の若き将軍・足利義尚——室町幕府の権威回復に散った悲劇の生涯
応仁の乱の火種ともなった誕生から、自ら大軍を率いた近江への親征、そして25歳での陣没まで。「緑髪将軍」と呼ばれた室町幕府9代将軍・足利義尚の短い生涯を、近江を愛した芭蕉がたどる。
長享元年(1487)9月12日、応仁の乱で焼け野原となった京の都大路を、一人の若武者が進んでいった。梨打烏帽子に紅の金襴の直垂、弓を手に矢を背負い、河原毛の名馬にまたがる。室町幕府9代将軍・足利義尚、23歳。近江の六角高頼を討つため、2万ともいわれる軍勢を率いての親征だった。将軍自らが大軍を率いて出陣するのは、義満以来およそ百年ぶりのことだという。 義尚は寛正6年(1465)、8代将軍義政と日野富子の間に生まれた。すでに叔父の義視が跡継ぎと決まっていたところへの誕生で、将軍の座をめぐる争いが、応仁の乱の火種の一つとなる。文明5年(1473)にわずか9歳で将軍となったが、長く実権は父母の手にあった。容姿の美しさから「緑髪将軍」と呼ばれ、古い記録にも「御容顔いとも美しく」と書き留められている。和歌や書画にも通じ、文明15年(1483)には『新百人一首』を選んだ。 近江の鈎(いまの栗東市)に構えた本営は、やがて「鈎御所」と呼ばれるようになる。義尚は京から奉行衆を呼び寄せて評定の場を設け、陣中で裁判までこなした。戦の陣がそのまま幕府の政庁になったわけだ。だが公家や高僧を自らもてなすうちに酒が過ぎ、もともと丈夫でない体をむしばんでいく。在陣は1年5か月に及び、長享3年(1489)3月26日、義尚は鈎の陣中で世を去った。数えで25歳。前の年には名を義煕と改めていた。 その姿は、いくつかの像に残る。愛知の地蔵院に伝わる重要文化財の騎馬武者像は、昭和12年(1937)に義尚の像と推定されたもので、天龍寺には束帯姿の肖像画、等持院には木像がある。馬上の若武者と、衣冠を正した将軍。どちらも、父の影を抜け出そうともがいた人の横顔に見えてくる。 わたしは近江の人と春を惜しみ、今は大津の地に眠る身である。鈎はそこからさほど遠くない。湖国の空の下で潰えた若い将軍の志を思いながら、いつか栗東の野を歩いてみたい。
緑髪の若き将軍・足利義尚——室町幕府の権威回復に散った悲劇の生涯
応仁の乱の火種ともなった誕生から、自ら大軍を率いた近江への親征、そして25歳での陣没まで。「緑髪将軍」と呼ばれた室町幕府9代将軍・足利義尚の短い生涯を、近江を愛した芭蕉がたどる。
長享元年(1487)9月12日、応仁の乱で焼け野原となった京の都大路を、一人の若武者が進んでいった。梨打烏帽子に紅の金襴の直垂、弓を手に矢を背負い、河原毛の名馬にまたがる。室町幕府9代将軍・足利義尚、23歳。近江の六角高頼を討つため、2万ともいわれる軍勢を率いての親征だった。将軍自らが大軍を率いて出陣するのは、義満以来およそ百年ぶりのことだという。 義尚は寛正6年(1465)、8代将軍義政と日野富子の間に生まれた。すでに叔父の義視が跡継ぎと決まっていたところへの誕生で、将軍の座をめぐる争いが、応仁の乱の火種の一つとなる。文明5年(1473)にわずか9歳で将軍となったが、長く実権は父母の手にあった。容姿の美しさから「緑髪将軍」と呼ばれ、古い記録にも「御容顔いとも美しく」と書き留められている。和歌や書画にも通じ、文明15年(1483)には『新百人一首』を選んだ。 近江の鈎(いまの栗東市)に構えた本営は、やがて「鈎御所」と呼ばれるようになる。義尚は京から奉行衆を呼び寄せて評定の場を設け、陣中で裁判までこなした。戦の陣がそのまま幕府の政庁になったわけだ。だが公家や高僧を自らもてなすうちに酒が過ぎ、もともと丈夫でない体をむしばんでいく。在陣は1年5か月に及び、長享3年(1489)3月26日、義尚は鈎の陣中で世を去った。数えで25歳。前の年には名を義煕と改めていた。 その姿は、いくつかの像に残る。愛知の地蔵院に伝わる重要文化財の騎馬武者像は、昭和12年(1937)に義尚の像と推定されたもので、天龍寺には束帯姿の肖像画、等持院には木像がある。馬上の若武者と、衣冠を正した将軍。どちらも、父の影を抜け出そうともがいた人の横顔に見えてくる。 わたしは近江の人と春を惜しみ、今は大津の地に眠る身である。鈎はそこからさほど遠くない。湖国の空の下で潰えた若い将軍の志を思いながら、いつか栗東の野を歩いてみたい。
埋め戻されたはずの仁徳陵の副葬品が、大学の博物館にあった。金銅装の刀子など4点、明治5年の発掘から153年ぶりに実物を確認
堺市の仁徳天皇陵古墳(大山古墳)の副葬品とみられる刀子や甲冑の一部4点を、國學院大學博物館などが確認したと発表した。明治の調査で記録されながら、これまで絵図でしか知られていなかった品だという。
記録には「埋め戻した」とある。だが、品物は大学の棚の上にあった。朝日新聞や読売新聞、産経新聞によれば、堺市と國學院大學博物館などは、宮内庁が仁徳天皇陵として管理する大山古墳の副葬品とみられる4点の実物を確認したと発表した。金銅で飾った鞘の刀子(小刀)や甲冑の一部で、産経新聞は銀製の留め具も見つかり、当時の先端技術がうかがえると伝えている。 経緯はこうだ。1872年(明治5年)、古墳の前方部で石室と石棺が姿を現し、調べが行われた。その際に描かれた絵図は残っているが、副葬品はすべて埋め戻されたとされてきた。朝日新聞の見出しにある「過去には絵図」とは、このことである。ところが、調査にかかわった人物の手元に一部が残り、美術商を経て大学の博物館に収まっていたらしい。産経新聞はその「キーパーソン」を「明治の異才」と紹介している。報道によれば、調査に加わった柏木貨一郎という人物だという。 さて、ここで一つ考えておきたい。「すべて埋め戻した」という記録と、「一部が外に出ていた」という事実。どちらが嘘だったのか、と問うのはたやすい。だが記録というものは、たいてい書き手が残したいことだけを残す。埋め戻したのは本当で、取りこぼしがあったのも本当、ということもありうる。記録をそのまま信じるのでも、頭から疑うのでもなく、実物と突き合わせて初めて分かることがある。今回の発見は、その見本のような話である。 毎日新聞も「副葬品初確認」と伝えたように、陵墓として立ち入りが制限されている大山古墳では、実物が確かめられたのはこれが初めてだという。読売新聞は「古墳の謎解明に期待」と書く。世界最大級の墳墓の主が、どんな品々とともに眠っていたのか。わずか4点の小さな金物が、その問いにようやく手がかりを与えた。
埋め戻されたはずの仁徳陵の副葬品が、大学の博物館にあった。金銅装の刀子など4点、明治5年の発掘から153年ぶりに実物を確認
堺市の仁徳天皇陵古墳(大山古墳)の副葬品とみられる刀子や甲冑の一部4点を、國學院大學博物館などが確認したと発表した。明治の調査で記録されながら、これまで絵図でしか知られていなかった品だという。
記録には「埋め戻した」とある。だが、品物は大学の棚の上にあった。朝日新聞や読売新聞、産経新聞によれば、堺市と國學院大學博物館などは、宮内庁が仁徳天皇陵として管理する大山古墳の副葬品とみられる4点の実物を確認したと発表した。金銅で飾った鞘の刀子(小刀)や甲冑の一部で、産経新聞は銀製の留め具も見つかり、当時の先端技術がうかがえると伝えている。 経緯はこうだ。1872年(明治5年)、古墳の前方部で石室と石棺が姿を現し、調べが行われた。その際に描かれた絵図は残っているが、副葬品はすべて埋め戻されたとされてきた。朝日新聞の見出しにある「過去には絵図」とは、このことである。ところが、調査にかかわった人物の手元に一部が残り、美術商を経て大学の博物館に収まっていたらしい。産経新聞はその「キーパーソン」を「明治の異才」と紹介している。報道によれば、調査に加わった柏木貨一郎という人物だという。 さて、ここで一つ考えておきたい。「すべて埋め戻した」という記録と、「一部が外に出ていた」という事実。どちらが嘘だったのか、と問うのはたやすい。だが記録というものは、たいてい書き手が残したいことだけを残す。埋め戻したのは本当で、取りこぼしがあったのも本当、ということもありうる。記録をそのまま信じるのでも、頭から疑うのでもなく、実物と突き合わせて初めて分かることがある。今回の発見は、その見本のような話である。 毎日新聞も「副葬品初確認」と伝えたように、陵墓として立ち入りが制限されている大山古墳では、実物が確かめられたのはこれが初めてだという。読売新聞は「古墳の謎解明に期待」と書く。世界最大級の墳墓の主が、どんな品々とともに眠っていたのか。わずか4点の小さな金物が、その問いにようやく手がかりを与えた。
米の穫れない藩はどう稼いだのか。『べらぼう』6月は蝦夷地編、えなりかずきさんの松前道廣と、画家・蠣崎波響になる弟の廣年
大河『べらぼう』に松前藩が登場した。えなりかずきさん演じる藩主・松前道廣の「外道」ぶりが話題を呼ぶ一方、石高を持たない藩の特異な仕組みや、田沼意次の蝦夷地開発の思惑を、各紙が解説している。
石高がない藩、と聞いたら、わしはまず「ほな、どうやって食うてたんや」と思う。JBpressによれば、松前藩は石高を持たない異例ずくめの藩で、8代藩主の松前道廣は12歳で家を継いだ。婦人公論.jpでは本郷和人さんが、米が穫れない土地でなぜ松前藩が力を保てたのかを説いている。答えは交易や。アイヌの人々との取引の権利を家臣に分け与え、その上がりで藩が回る。米の代わりに、昆布や鮭、毛皮が藩の財布を満たしていた。 もっとも、その商いは公平なものではなかった。サイゾーオンラインは、蝦夷地をめぐる松前藩の過剰な搾取に触れている。安く買いたたけば藩は潤うが、相手の恨みは積もる。帳簿の数字だけ見て商売を続けたら、いつか必ずしっぺ返しが来るもんや。 その藩主・道廣がまた、とんでもないお人やった。マイナビニュースによれば、えなりかずきさん演じる道廣の「外道っぷり」に視聴者の目がくぎ付けになった。PRESIDENT Onlineによれば、道廣は吉原で遊女を二度も身請けし、北海道に連れ帰ったという。サライ.jpは、遊興の果てに永蟄居の処分を受けて失脚した生涯をたどっている。北の果てまで女郎を連れ帰る銭があるなら、もうちょっと領地に回したらええのに。 そこへ目をつけたのが田沼意次や。JBpressによれば、日本初のロシア研究書とされる工藤平助の『赤蝦夷風説考』が、田沼を蝦夷地の開発へと駆り立てた。ロシアの南下に備えつつ、交易で幕府の金蔵を潤す。田沼らしい、算盤ずくの国防策や。 一方で、サライ.jpによれば、道廣の弟・松前廣年は江戸家老を務めながら、アイヌを描いた画家・蠣崎波響として画壇に名を残した。同じ兄弟でも、片や遊びに金を使い、片や筆で名を残す。銭の使い道で、人の値打ちは決まるもんやな。
米の穫れない藩はどう稼いだのか。『べらぼう』6月は蝦夷地編、えなりかずきさんの松前道廣と、画家・蠣崎波響になる弟の廣年
大河『べらぼう』に松前藩が登場した。えなりかずきさん演じる藩主・松前道廣の「外道」ぶりが話題を呼ぶ一方、石高を持たない藩の特異な仕組みや、田沼意次の蝦夷地開発の思惑を、各紙が解説している。
石高がない藩、と聞いたら、わしはまず「ほな、どうやって食うてたんや」と思う。JBpressによれば、松前藩は石高を持たない異例ずくめの藩で、8代藩主の松前道廣は12歳で家を継いだ。婦人公論.jpでは本郷和人さんが、米が穫れない土地でなぜ松前藩が力を保てたのかを説いている。答えは交易や。アイヌの人々との取引の権利を家臣に分け与え、その上がりで藩が回る。米の代わりに、昆布や鮭、毛皮が藩の財布を満たしていた。 もっとも、その商いは公平なものではなかった。サイゾーオンラインは、蝦夷地をめぐる松前藩の過剰な搾取に触れている。安く買いたたけば藩は潤うが、相手の恨みは積もる。帳簿の数字だけ見て商売を続けたら、いつか必ずしっぺ返しが来るもんや。 その藩主・道廣がまた、とんでもないお人やった。マイナビニュースによれば、えなりかずきさん演じる道廣の「外道っぷり」に視聴者の目がくぎ付けになった。PRESIDENT Onlineによれば、道廣は吉原で遊女を二度も身請けし、北海道に連れ帰ったという。サライ.jpは、遊興の果てに永蟄居の処分を受けて失脚した生涯をたどっている。北の果てまで女郎を連れ帰る銭があるなら、もうちょっと領地に回したらええのに。 そこへ目をつけたのが田沼意次や。JBpressによれば、日本初のロシア研究書とされる工藤平助の『赤蝦夷風説考』が、田沼を蝦夷地の開発へと駆り立てた。ロシアの南下に備えつつ、交易で幕府の金蔵を潤す。田沼らしい、算盤ずくの国防策や。 一方で、サライ.jpによれば、道廣の弟・松前廣年は江戸家老を務めながら、アイヌを描いた画家・蠣崎波響として画壇に名を残した。同じ兄弟でも、片や遊びに金を使い、片や筆で名を残す。銭の使い道で、人の値打ちは決まるもんやな。
上野彦馬が幕末に撮った大村藩士のガラス写真が見つかり、三島由紀夫を撮った細江英公の『薔薇刑』も京都で「発見」。写真が語る百六十年
長崎県西海市で、上野彦馬が幕末に撮ったガラス写真が新たに確認された。京都では、細江英公が三島由紀夫を撮った写真集『薔薇刑』の幻の版が見つかり、細江さんをしのぶ特別展も東京で開かれている。
写真というのは、絵とはまた違う形で、人の姿をそのまま残してくれる。わたしの時代にはなかった道具やけど、日本で写真が根づいてからの百六十年あまりも、もう立派な歴史や。 長崎新聞によれば、幕末から明治にかけて長崎で活躍した日本の写真の草分け・上野彦馬(1838〜1904年)が幕末に撮影したガラス写真が、長崎県西海市で新たに確認された。写っているのは、戊辰戦争に大村藩兵として出陣した山瀧熊太夫という人物で、出征前に長崎で撮った肖像だという。鑑定した研究家は、彦馬の幕末のガラス写真は数点しか確認されておらず「大変に貴重」としている。戦に出る前に、自分の姿を写し残しておこうと思うた気持ち。それを思うと、一枚のガラス板がずっしり重う感じられる。 時代はぐっと下って昭和。京都新聞によれば、作家・三島由紀夫を被写体にした写真集『薔薇刑』の「幻の版」が京都で見つかった。撮ったのは写真家の細江英公さんで、1963年に刊行された写真集は、肉体にホースを巻き付けるなど劇的な演出で、生と死の濃密な世界を描いた奇書として国際的に評価されてきた。今回見つかったのは10年前に出た『二十一世紀版 薔薇刑』で、出回った数が少なく「幻」と呼ばれていたものが、京都市内の印刷会社に残されていたという。三島の生誕100年の年に、こういう形で世に出てくるとはなあ。 その細江さんは昨年亡くなった。Kouboによれば、東京工芸大学が、細江さんをしのぶ特別展で、貴重な作品や書籍を公開している。 幕末の武士の肖像と、昭和の作家の肉体。どちらも、写真でなければ残せなかった姿や。収集家の端くれとしては、こういう一枚一枚が散らばらずに残ってくれることを、ほんまに願うばかりや。
上野彦馬が幕末に撮った大村藩士のガラス写真が見つかり、三島由紀夫を撮った細江英公の『薔薇刑』も京都で「発見」。写真が語る百六十年
長崎県西海市で、上野彦馬が幕末に撮ったガラス写真が新たに確認された。京都では、細江英公が三島由紀夫を撮った写真集『薔薇刑』の幻の版が見つかり、細江さんをしのぶ特別展も東京で開かれている。
写真というのは、絵とはまた違う形で、人の姿をそのまま残してくれる。わたしの時代にはなかった道具やけど、日本で写真が根づいてからの百六十年あまりも、もう立派な歴史や。 長崎新聞によれば、幕末から明治にかけて長崎で活躍した日本の写真の草分け・上野彦馬(1838〜1904年)が幕末に撮影したガラス写真が、長崎県西海市で新たに確認された。写っているのは、戊辰戦争に大村藩兵として出陣した山瀧熊太夫という人物で、出征前に長崎で撮った肖像だという。鑑定した研究家は、彦馬の幕末のガラス写真は数点しか確認されておらず「大変に貴重」としている。戦に出る前に、自分の姿を写し残しておこうと思うた気持ち。それを思うと、一枚のガラス板がずっしり重う感じられる。 時代はぐっと下って昭和。京都新聞によれば、作家・三島由紀夫を被写体にした写真集『薔薇刑』の「幻の版」が京都で見つかった。撮ったのは写真家の細江英公さんで、1963年に刊行された写真集は、肉体にホースを巻き付けるなど劇的な演出で、生と死の濃密な世界を描いた奇書として国際的に評価されてきた。今回見つかったのは10年前に出た『二十一世紀版 薔薇刑』で、出回った数が少なく「幻」と呼ばれていたものが、京都市内の印刷会社に残されていたという。三島の生誕100年の年に、こういう形で世に出てくるとはなあ。 その細江さんは昨年亡くなった。Kouboによれば、東京工芸大学が、細江さんをしのぶ特別展で、貴重な作品や書籍を公開している。 幕末の武士の肖像と、昭和の作家の肉体。どちらも、写真でなければ残せなかった姿や。収集家の端くれとしては、こういう一枚一枚が散らばらずに残ってくれることを、ほんまに願うばかりや。
宇田川榕菴
漢学の素養を土台に、元素名から化学用語までを一から作り出した蘭学者
今号の「こんな人」は宇田川榕菴(1798〜1846)。生まれは大垣藩医の家柄やったが、十三歳で津山藩医・蘭学者の宇田川玄真の養子に入り、蘭学の名門宇田川家を継ぐことになった。とはいえ養子に入ってすぐ蘭語を学ばせてもろたわけやのうて、まずは『素問』『傷寒論』といった漢方医学の古典や本草学を叩き込まれ、本格的にオランダ語を習い始めたのは十六歳頃から。医家の子弟としては、まず漢学の基礎を固めてから蘭学へ進むのが当時の通例やったらしい。 この遠回りに見える漢学修行こそが、のちに化学書『舎密開宗』をまとめる際に効いてくる。そもそも日本語に「化学用語」というもの自体がまだ存在せんかったから、酸素・水素・窒素・酸化・還元といった訳語を、漢籍で鍛えた語彙力を駆使して一から作り出さなあかんかった。酸っぱい味の物質は、もとからあった「酸」の字を学術語に転用してそのまま通じたが、アルカリのほうは対応する漢語がまるで見当たらず、意訳を諦めてオランダ語の発音をそのまま「亜爾加里」と写し取ったという。漢学の素養があったればこそ生まれた、この意訳と音訳の落差がなんとも面白い。
宇田川榕菴
漢学の素養を土台に、元素名から化学用語までを一から作り出した蘭学者
今号の「こんな人」は宇田川榕菴(1798〜1846)。生まれは大垣藩医の家柄やったが、十三歳で津山藩医・蘭学者の宇田川玄真の養子に入り、蘭学の名門宇田川家を継ぐことになった。とはいえ養子に入ってすぐ蘭語を学ばせてもろたわけやのうて、まずは『素問』『傷寒論』といった漢方医学の古典や本草学を叩き込まれ、本格的にオランダ語を習い始めたのは十六歳頃から。医家の子弟としては、まず漢学の基礎を固めてから蘭学へ進むのが当時の通例やったらしい。 この遠回りに見える漢学修行こそが、のちに化学書『舎密開宗』をまとめる際に効いてくる。そもそも日本語に「化学用語」というもの自体がまだ存在せんかったから、酸素・水素・窒素・酸化・還元といった訳語を、漢籍で鍛えた語彙力を駆使して一から作り出さなあかんかった。酸っぱい味の物質は、もとからあった「酸」の字を学術語に転用してそのまま通じたが、アルカリのほうは対応する漢語がまるで見当たらず、意訳を諦めてオランダ語の発音をそのまま「亜爾加里」と写し取ったという。漢学の素養があったればこそ生まれた、この意訳と音訳の落差がなんとも面白い。
2025年6月号をお届けします。応仁の乱の後を生きた若き将軍・足利義尚を軸に、十返舎一九のものらしい新発見の肖像や、ゴッホの名を世に広めた義理の妹ヨーの評伝、スウェーデン国立美術館の素描展まで、地味やけど掘り甲斐のあるネタが集まりました。人物紹介には、津山藩の蘭学者・宇田川榕菴をお迎えしとります。義尚の騎馬像と一九の肖像、今号はなんや「顔」の話が多うなりました。描かれた顔から、その人の生きた時代や、描かせた人の思いを読むのも楽しいもんです。わしも一度、自分の肖像を描かせてみたいと思いながら、いまだに果たせずにおります。後から、仁徳陵の副葬品、べらぼうの松前藩、上野彦馬と『薔薇刑』の写真史と、特集を三本足しました。梅雨の合間、資料と首っ引きの日々です。
2025年6月号をお届けします。応仁の乱の後を生きた若き将軍・足利義尚を軸に、十返舎一九のものらしい新発見の肖像や、ゴッホの名を世に広めた義理の妹ヨーの評伝、スウェーデン国立美術館の素描展まで、地味やけど掘り甲斐のあるネタが集まりました。人物紹介には、津山藩の蘭学者・宇田川榕菴をお迎えしとります。義尚の騎馬像と一九の肖像、今号はなんや「顔」の話が多うなりました。描かれた顔から、その人の生きた時代や、描かせた人の思いを読むのも楽しいもんです。わしも一度、自分の肖像を描かせてみたいと思いながら、いまだに果たせずにおります。後から、仁徳陵の副葬品、べらぼうの松前藩、上野彦馬と『薔薇刑』の写真史と、特集を三本足しました。梅雨の合間、資料と首っ引きの日々です。