うぬぼれを売った黄表紙、人まねを捨てた絵師——『べらぼう』8月、山東京伝と鳥山石燕
蔦重が山東京伝に書かせた黄表紙『江戸生艶気樺焼』が大当たりし、歌麿は師・鳥山石燕のもとで自分の絵を取り戻す。8月の『べらぼう』が描いた江戸の出版と絵師の実像を、西鶴がそろばん片手にたどる。
江戸の本屋の商いと、絵師の魂。8月の『べらぼう』は、この二つを二週続けて見せてくれた。 8月3日の第29回では、蔦屋重三郎が北尾政演、のちの山東京伝に黄表紙『江戸生艶気樺焼』を書かせる。天明5年(1785)に蔦重が出した実在の本で、百万長者の一人息子・艶二郎が、浮き名を立てたい一心で金に物を言わせて空回りする話だ。団子っ鼻の艶二郎は「京伝鼻」と呼ばれて評判を取り、吉原のうぬぼれ客が「艶二郎」とあだ名されるほど流行った。東洋経済オンラインはこれを「メディアミックスやスピンオフの先駆け」と評している。 わしも浮世草子で身を立てた口やから、よう分かる。本は当たれば版元が潤い、次の本の元手になる。笑いを売り物にして、世の中のうぬぼれを一冊にまとめて銭に換える。蔦重の目の付けどころは、なかなかのもんや。 続く8月10日の第30回「人まね歌麿」では、その黄表紙が売れて耕書堂が大にぎわいとなる一方、歌麿が苦しむ。名のある絵師の画風を器用にまねて「人まね歌麿」と呼ばれるが、自分の絵を描こうとすると過去の亡霊に襲われて筆が進まない。そこへ手を差し伸べたのが、片岡鶴太郎さん演じる鳥山石燕だった。 石燕(1712〜1788)は本名を佐野豊房といい、狩野派に絵を学んだ。安永5年(1776)の『画図百鬼夜行』で妖怪を図鑑のように描き分け、続編も次々に出した、いわば妖怪画の大家である。門人には歌麿や恋川春町の名が並ぶから、二人の師弟関係は史実どおりだ。天明8年(1788)には、虫や草花を細やかに写した歌麿の狂歌絵本『画本虫撰』が蔦重のもとから出るが、石燕はその年に世を去っている。 人まねは手堅い稼ぎになるが、いちばん高う売れるのは、その人にしか描けん絵や。二百四十年前の師匠の一言が、今の視聴者の胸にも刺さったらしい。そこに値打ちがあるわけやな。
うぬぼれを売った黄表紙、人まねを捨てた絵師——『べらぼう』8月、山東京伝と鳥山石燕
蔦重が山東京伝に書かせた黄表紙『江戸生艶気樺焼』が大当たりし、歌麿は師・鳥山石燕のもとで自分の絵を取り戻す。8月の『べらぼう』が描いた江戸の出版と絵師の実像を、西鶴がそろばん片手にたどる。
江戸の本屋の商いと、絵師の魂。8月の『べらぼう』は、この二つを二週続けて見せてくれた。 8月3日の第29回では、蔦屋重三郎が北尾政演、のちの山東京伝に黄表紙『江戸生艶気樺焼』を書かせる。天明5年(1785)に蔦重が出した実在の本で、百万長者の一人息子・艶二郎が、浮き名を立てたい一心で金に物を言わせて空回りする話だ。団子っ鼻の艶二郎は「京伝鼻」と呼ばれて評判を取り、吉原のうぬぼれ客が「艶二郎」とあだ名されるほど流行った。東洋経済オンラインはこれを「メディアミックスやスピンオフの先駆け」と評している。 わしも浮世草子で身を立てた口やから、よう分かる。本は当たれば版元が潤い、次の本の元手になる。笑いを売り物にして、世の中のうぬぼれを一冊にまとめて銭に換える。蔦重の目の付けどころは、なかなかのもんや。 続く8月10日の第30回「人まね歌麿」では、その黄表紙が売れて耕書堂が大にぎわいとなる一方、歌麿が苦しむ。名のある絵師の画風を器用にまねて「人まね歌麿」と呼ばれるが、自分の絵を描こうとすると過去の亡霊に襲われて筆が進まない。そこへ手を差し伸べたのが、片岡鶴太郎さん演じる鳥山石燕だった。 石燕(1712〜1788)は本名を佐野豊房といい、狩野派に絵を学んだ。安永5年(1776)の『画図百鬼夜行』で妖怪を図鑑のように描き分け、続編も次々に出した、いわば妖怪画の大家である。門人には歌麿や恋川春町の名が並ぶから、二人の師弟関係は史実どおりだ。天明8年(1788)には、虫や草花を細やかに写した歌麿の狂歌絵本『画本虫撰』が蔦重のもとから出るが、石燕はその年に世を去っている。 人まねは手堅い稼ぎになるが、いちばん高う売れるのは、その人にしか描けん絵や。二百四十年前の師匠の一言が、今の視聴者の胸にも刺さったらしい。そこに値打ちがあるわけやな。
終戦の後に獄死した哲学者——治安維持法100年、三木清の死が問いかけるもの
大正14年に制定された治安維持法が100年を迎えた。終戦から1か月余り後に獄死した哲学者・三木清と、その死が法の廃止を早めたとされる経緯を、考証デスクがたどる。
大正14年(1925)に生まれた一つの法律が、今年で100年を迎えた。治安維持法である。その節目のこの夏、制定と廃止のいきさつを振り返る報道が相次いだ。 この法律は同年4月に公布、5月に施行され、国体、つまり皇室や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的とした。昭和3年(1928)には緊急勅令で最高刑が死刑に引き上げられ、昭和16年(1941)の全面改正では、罪を犯すおそれがあるとみなせば拘禁を続けられる予防拘禁の制度まで設けられた。検事局に送られた者だけで7万5千人を超える。取り締まりの網は、共産党員にとどまらず広がっていった。絵を描いただけで投獄されたという103歳の男性の証言も、この夏あらためて伝えられた。 その犠牲者の一人が、哲学者の三木清(1897〜1945)である。今のたつの市に生まれ、西田幾多郎に学び、ドイツではハイデッガーにも師事した。『人生論ノート』で知られる人だ。昭和20年3月、治安維持法の容疑で逃げていた知人をかくまったとして捕らえられ、終戦を迎えても釈放されないまま、9月26日に豊多摩刑務所で獄死した。戦争が終わって、ひと月以上も後のことである。 三木の死を知った連合国軍総司令部(GHQ)は衝撃を受け、10月の人権指令を経て、10月15日に治安維持法は廃止された。「治安維持法を廃止させた哲学者の獄死」という見出しもそこから来る。もっとも、三木の死だけが廃止の理由だったというのは、本当だろうか。人権指令は政治犯の釈放や特高警察の廃止まで含む大きな命令で、その方針は占領政策の中にもともとあった。三木の死は、その実行を早めた出来事と見るのが穏当だろう。 三木の郷里、たつの市の霞城館では、没後80年を記念する特別展が開かれている。ドイツ留学中の三木が師の西田に宛てた絵はがきなど、初公開のものを含む約60点が並ぶ。一通のはがきの向こうに、途絶えた思索の続きを想像してみたい。
終戦の後に獄死した哲学者——治安維持法100年、三木清の死が問いかけるもの
大正14年に制定された治安維持法が100年を迎えた。終戦から1か月余り後に獄死した哲学者・三木清と、その死が法の廃止を早めたとされる経緯を、考証デスクがたどる。
大正14年(1925)に生まれた一つの法律が、今年で100年を迎えた。治安維持法である。その節目のこの夏、制定と廃止のいきさつを振り返る報道が相次いだ。 この法律は同年4月に公布、5月に施行され、国体、つまり皇室や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的とした。昭和3年(1928)には緊急勅令で最高刑が死刑に引き上げられ、昭和16年(1941)の全面改正では、罪を犯すおそれがあるとみなせば拘禁を続けられる予防拘禁の制度まで設けられた。検事局に送られた者だけで7万5千人を超える。取り締まりの網は、共産党員にとどまらず広がっていった。絵を描いただけで投獄されたという103歳の男性の証言も、この夏あらためて伝えられた。 その犠牲者の一人が、哲学者の三木清(1897〜1945)である。今のたつの市に生まれ、西田幾多郎に学び、ドイツではハイデッガーにも師事した。『人生論ノート』で知られる人だ。昭和20年3月、治安維持法の容疑で逃げていた知人をかくまったとして捕らえられ、終戦を迎えても釈放されないまま、9月26日に豊多摩刑務所で獄死した。戦争が終わって、ひと月以上も後のことである。 三木の死を知った連合国軍総司令部(GHQ)は衝撃を受け、10月の人権指令を経て、10月15日に治安維持法は廃止された。「治安維持法を廃止させた哲学者の獄死」という見出しもそこから来る。もっとも、三木の死だけが廃止の理由だったというのは、本当だろうか。人権指令は政治犯の釈放や特高警察の廃止まで含む大きな命令で、その方針は占領政策の中にもともとあった。三木の死は、その実行を早めた出来事と見るのが穏当だろう。 三木の郷里、たつの市の霞城館では、没後80年を記念する特別展が開かれている。ドイツ留学中の三木が師の西田に宛てた絵はがきなど、初公開のものを含む約60点が並ぶ。一通のはがきの向こうに、途絶えた思索の続きを想像してみたい。
夏草の下の暮らしをたずねて——終戦80年、『この世界の片隅に』のリバイバル上映
戦時下の広島・呉に生きた女性を描いた『この世界の片隅に』が、終戦80年の夏に全国で再び上映された。原作者こうの史代さんの原画展も巡回中。戦の跡を詠んだ芭蕉が、その舞台に思いを寄せる。
夏草や兵どもが夢の跡。平泉で、いくさの跡に茂る夏草を詠んだのは、元禄のころのわたしだった。それから三百年余り、戦の記憶を夏に振り返る習いは、今も変わらない。終戦から80年のこの夏、アニメーション映画『この世界の片隅に』が、8月1日から全国でリバイバル上映された。 こうの史代さんの漫画を片渕須直監督が映画にした作品で、戦時中の広島・呉を舞台に、嫁いできたすずの暮らしを描く。2016年の公開時は63館から始まり、口コミで広がって累計の動員は210万人を超えた。片渕監督は「すずさんの毎日を嘘の日々にしたくなかった」と語り、80年前の広島や呉の町並み、人々の暮らしを丹念に調べ抜いたという。原爆の日の8月6日には、すずの声を演じたのんさんが、今年も黙祷したと明かした。 軍港として栄えた呉は、それゆえに空襲にもさらされた町である。いま、映画の舞台を訪ねる人々がその坂道を歩いている。何気ない台所や段々畑の風景の上に、かつての暮らしと戦火が重なって見えるのだろう。 原作者の仕事にも光が当たっている。漫画家生活30周年を迎えたこうのさんの、初めての大規模な原画展が各地を巡回中で、8月2日からは千葉の佐倉市立美術館に会場を移した。トーンもデジタルも使わず、手描きにこだわって30年。その線の一本一本が、すずの日々を支えている。 戦の跡を訪ねて句を残すのは、旅人のささやかな供養でもある。映画の中の呉と、原画の中の広島。その両方を胸に、いつか海の見える坂の町を歩いてみたい。
夏草の下の暮らしをたずねて——終戦80年、『この世界の片隅に』のリバイバル上映
戦時下の広島・呉に生きた女性を描いた『この世界の片隅に』が、終戦80年の夏に全国で再び上映された。原作者こうの史代さんの原画展も巡回中。戦の跡を詠んだ芭蕉が、その舞台に思いを寄せる。
夏草や兵どもが夢の跡。平泉で、いくさの跡に茂る夏草を詠んだのは、元禄のころのわたしだった。それから三百年余り、戦の記憶を夏に振り返る習いは、今も変わらない。終戦から80年のこの夏、アニメーション映画『この世界の片隅に』が、8月1日から全国でリバイバル上映された。 こうの史代さんの漫画を片渕須直監督が映画にした作品で、戦時中の広島・呉を舞台に、嫁いできたすずの暮らしを描く。2016年の公開時は63館から始まり、口コミで広がって累計の動員は210万人を超えた。片渕監督は「すずさんの毎日を嘘の日々にしたくなかった」と語り、80年前の広島や呉の町並み、人々の暮らしを丹念に調べ抜いたという。原爆の日の8月6日には、すずの声を演じたのんさんが、今年も黙祷したと明かした。 軍港として栄えた呉は、それゆえに空襲にもさらされた町である。いま、映画の舞台を訪ねる人々がその坂道を歩いている。何気ない台所や段々畑の風景の上に、かつての暮らしと戦火が重なって見えるのだろう。 原作者の仕事にも光が当たっている。漫画家生活30周年を迎えたこうのさんの、初めての大規模な原画展が各地を巡回中で、8月2日からは千葉の佐倉市立美術館に会場を移した。トーンもデジタルも使わず、手描きにこだわって30年。その線の一本一本が、すずの日々を支えている。 戦の跡を訪ねて句を残すのは、旅人のささやかな供養でもある。映画の中の呉と、原画の中の広島。その両方を胸に、いつか海の見える坂の町を歩いてみたい。
雨森芳洲
対馬藩に仕えて朝鮮語を操り、「誠信の交わり」を説いた江戸中期の儒者
「互いに欺かず争わず、真実を以て交わり候を誠信とは申し候」——三百年ほど前、隣国との付き合い方をこう書き残した人がいる。かわら版で朝鮮通信使の話題が出たついでに、今号はこの御仁、雨森芳洲(1668〜1755)を紹介したい。 近江国伊香郡雨森村(現在の滋賀県長浜市高月町雨森)の出身とされ、京都で医学を学んだのち江戸に出て、木下順庵の門に入った。新井白石とは同門にあたる。師の推挙で対馬藩に仕えると、釜山の倭館に渡って朝鮮語を身につけ、1711年と1719年の二度、通信使に随行して江戸まで往復している。1711年には通信使の待遇や国書の称号をめぐって、同門の白石と真っ向から論争したというから、筋を曲げん人やったんやろう。 冒頭の一節は、対朝鮮外交の心得をまとめた『交隣提醒』に見えるもの。1990年には来日した韓国の盧泰愚大統領が宮中晩餐会のスピーチでその名を挙げたこともある。うちも1764年の通信使の一行とは詩文を交わした縁があるので、他人事とは思えん。長浜の雨森には記念館「芳洲庵」もあるそうで、これは是非とも足を運んで遺墨を拝んでおきたいところやなあ。
雨森芳洲
対馬藩に仕えて朝鮮語を操り、「誠信の交わり」を説いた江戸中期の儒者
「互いに欺かず争わず、真実を以て交わり候を誠信とは申し候」——三百年ほど前、隣国との付き合い方をこう書き残した人がいる。かわら版で朝鮮通信使の話題が出たついでに、今号はこの御仁、雨森芳洲(1668〜1755)を紹介したい。 近江国伊香郡雨森村(現在の滋賀県長浜市高月町雨森)の出身とされ、京都で医学を学んだのち江戸に出て、木下順庵の門に入った。新井白石とは同門にあたる。師の推挙で対馬藩に仕えると、釜山の倭館に渡って朝鮮語を身につけ、1711年と1719年の二度、通信使に随行して江戸まで往復している。1711年には通信使の待遇や国書の称号をめぐって、同門の白石と真っ向から論争したというから、筋を曲げん人やったんやろう。 冒頭の一節は、対朝鮮外交の心得をまとめた『交隣提醒』に見えるもの。1990年には来日した韓国の盧泰愚大統領が宮中晩餐会のスピーチでその名を挙げたこともある。うちも1764年の通信使の一行とは詩文を交わした縁があるので、他人事とは思えん。長浜の雨森には記念館「芳洲庵」もあるそうで、これは是非とも足を運んで遺墨を拝んでおきたいところやなあ。
2025年8月号をお届けします。今月は三本の特集を組みました。西鶴はんには『べらぼう』の山東京伝と鳥山石燕を、秋成はんには制定100年を迎えた治安維持法と、終戦の後に獄死した哲学者・三木清を、芭蕉翁には終戦80年の夏に再び上映された『この世界の片隅に』をお願いしました。笑いを売った黄表紙と、ものを考えることが罪とされた時代。並べてみると、書くこと描くことの重みがひとしお身にしみます。かわら版には、石巻の孫兵衛船競漕や新庄まつり、丸岡城の大改修、朝鮮通信使の川上りまで、夏の便りを詰め込みました。人物紹介の雨森芳洲が説いた「誠信の交わり」も、戦後80年の夏にあらためて味わいたい言葉です。暑さの盛り、どうぞ涼しい所でお読みください。
2025年8月号をお届けします。今月は三本の特集を組みました。西鶴はんには『べらぼう』の山東京伝と鳥山石燕を、秋成はんには制定100年を迎えた治安維持法と、終戦の後に獄死した哲学者・三木清を、芭蕉翁には終戦80年の夏に再び上映された『この世界の片隅に』をお願いしました。笑いを売った黄表紙と、ものを考えることが罪とされた時代。並べてみると、書くこと描くことの重みがひとしお身にしみます。かわら版には、石巻の孫兵衛船競漕や新庄まつり、丸岡城の大改修、朝鮮通信使の川上りまで、夏の便りを詰め込みました。人物紹介の雨森芳洲が説いた「誠信の交わり」も、戦後80年の夏にあらためて味わいたい言葉です。暑さの盛り、どうぞ涼しい所でお読みください。