「画家ボナール ピエールとマルト」——光と色彩の画家が描き続けた愛と日常
映画『画家ボナール』配信と美術解説が話題に。「ナビ派」の異才が妻マルトと描いた光あふれる日常と絵画の奥深さ。
男と女の腐れ縁というものは、古今東西、理屈では割り切れぬ不思議な味わいがある。『好色一代男』を書いた西鶴としても、フランス近代絵画の巨匠ピエール・ボナール(1867〜1947)とその生涯の伴侶マルトをめぐる物語には、思わず前のめりに見入ってしまう。映画『画家ボナール ピエールとマルト』の配信が始まり、美術界隈で改めて二人の特異な愛の軌跡が語られている。 パリの路上で出会った自称貴族の娘マルト。だがその正体は偽名を名乗る貧しいお針子であった。世間体を気にするブルジョワ階級のボナールにとって、身分も素性も偽った女との暮らしは本来なら厄介事の極みのはずだが、男はこの謎多き女に骨抜きにされ、三十年ものあいだ同棲を続け、最後は正式に夫婦となった。しかも驚くべきは、ボナールが描いた膨大な油彩画のなかで、マルトがどれほど年老いても、キャンバスのなかでは常に出会った頃の若々しい肢体のまま描かれ続けたことだ。 代表作『浴槽の裸婦』にみられるように、湯船に身を沈める妻の姿を上から見下ろす大胆な構図は、かつて海を渡った日本の浮世絵春画や鳥瞰図の呼吸を完璧に呑み込んでいる。光が反射するタイルの煌めきと、日常のぬくもりに溶け込む女の肌。女房の裸ばかりを何十年も嬉々として描き続けたボナールの姿は、町人の目から見れば「えらい惚れ込みようやなあ」と呆れ半分、感服半分といったところか。虚飾にまみれた浮世の恋路を突き抜け、光と色彩のなかに妻の永遠を閉じ込めた画人の執念。男女の深淵を覗かせる、実におもしろい人間ドラマである。
「画家ボナール ピエールとマルト」——光と色彩の画家が描き続けた愛と日常
映画『画家ボナール』配信と美術解説が話題に。「ナビ派」の異才が妻マルトと描いた光あふれる日常と絵画の奥深さ。
男と女の腐れ縁というものは、古今東西、理屈では割り切れぬ不思議な味わいがある。『好色一代男』を書いた西鶴としても、フランス近代絵画の巨匠ピエール・ボナール(1867〜1947)とその生涯の伴侶マルトをめぐる物語には、思わず前のめりに見入ってしまう。映画『画家ボナール ピエールとマルト』の配信が始まり、美術界隈で改めて二人の特異な愛の軌跡が語られている。 パリの路上で出会った自称貴族の娘マルト。だがその正体は偽名を名乗る貧しいお針子であった。世間体を気にするブルジョワ階級のボナールにとって、身分も素性も偽った女との暮らしは本来なら厄介事の極みのはずだが、男はこの謎多き女に骨抜きにされ、三十年ものあいだ同棲を続け、最後は正式に夫婦となった。しかも驚くべきは、ボナールが描いた膨大な油彩画のなかで、マルトがどれほど年老いても、キャンバスのなかでは常に出会った頃の若々しい肢体のまま描かれ続けたことだ。 代表作『浴槽の裸婦』にみられるように、湯船に身を沈める妻の姿を上から見下ろす大胆な構図は、かつて海を渡った日本の浮世絵春画や鳥瞰図の呼吸を完璧に呑み込んでいる。光が反射するタイルの煌めきと、日常のぬくもりに溶け込む女の肌。女房の裸ばかりを何十年も嬉々として描き続けたボナールの姿は、町人の目から見れば「えらい惚れ込みようやなあ」と呆れ半分、感服半分といったところか。虚飾にまみれた浮世の恋路を突き抜け、光と色彩のなかに妻の永遠を閉じ込めた画人の執念。男女の深淵を覗かせる、実におもしろい人間ドラマである。
一度きりの非公開の裁きが奪った命——大逆事件の犠牲者・森近運平の故郷、井原でサミット
明治末期の大逆事件で刑死した井原出身の社会活動家・森近運平。その故郷で初めての「大逆事件サミット」が開かれ、特別展も始まった。明治番の主筆が、事件と一人の青年の歩みをたどる。
明治という時代の最後に、国じゅうの新聞が息をひそめて書いた事件がある。わしが筆を置いてこの世を去った4年の後、明治43年(1910)の大逆事件だ。その犠牲者の一人、森近運平(1881〜1911)の故郷である岡山県井原市で10月25日、「第6回大逆事件サミットinいばら」が開かれた。2011年からゆかりの地を巡って開かれてきた催しで、井原での開催は初めてだという。 森近は後月郡高屋村、いまの井原市の生まれ。岡山県の農事講習所を出て県の職員となり、農政に携わるうちに社会の矛盾に目を向けるようになった。日露戦争のさなか、戦時国債を買うなと説いて職を追われ、明治39年には日本社会党の結成に加わる。翌年には宮武外骨の後ろ盾を得て『大阪平民新聞』を起こした。のちに郷里へ戻り、ガラス温室での栽培など農業の改良に打ち込んでいたところを、事件に連座して捕らえられる。 事件では、明治天皇の暗殺を企てたとして26人が起訴され、大審院のただ一度の、しかも非公開の裁判で24人に死刑が言い渡された。翌日、半数は恩赦で無期に減じられたが、残る12人は1週間ほどのうちに刑場へ送られた。森近もその一人で、無実を訴えながら明治44年1月24日に命を絶たれた。戦後の1961年、生き残った坂本清馬と森近の妹・栄子が再審を求めたが、1965年に棄却されている。 今回のサミットは「再審請求棄却と顕彰運動—真実の伝達と継承」を掲げ、犠牲者の人権回復を求める全国連絡会の代表らが語り合った。あわせて井原市芳井歴史民俗資料館では、12月7日まで特別展「明治時代の社会主義と森近運平」が開かれ、森近の活動や発言、岡山の友人・仲間たちを紹介している。 西洋の法廷を見聞した身からすれば、一度きりの非公開の裁きで十二の命を奪った手続きには、首をかしげざるを得ない。新聞もまた、それを十分に問えなかった。百年余りを経て、郷里が一人の青年の歩みを掘り起こそうとしている。その営みを、明治の記録として重く受け止めるべきだと論ずる次第である。
一度きりの非公開の裁きが奪った命——大逆事件の犠牲者・森近運平の故郷、井原でサミット
明治末期の大逆事件で刑死した井原出身の社会活動家・森近運平。その故郷で初めての「大逆事件サミット」が開かれ、特別展も始まった。明治番の主筆が、事件と一人の青年の歩みをたどる。
明治という時代の最後に、国じゅうの新聞が息をひそめて書いた事件がある。わしが筆を置いてこの世を去った4年の後、明治43年(1910)の大逆事件だ。その犠牲者の一人、森近運平(1881〜1911)の故郷である岡山県井原市で10月25日、「第6回大逆事件サミットinいばら」が開かれた。2011年からゆかりの地を巡って開かれてきた催しで、井原での開催は初めてだという。 森近は後月郡高屋村、いまの井原市の生まれ。岡山県の農事講習所を出て県の職員となり、農政に携わるうちに社会の矛盾に目を向けるようになった。日露戦争のさなか、戦時国債を買うなと説いて職を追われ、明治39年には日本社会党の結成に加わる。翌年には宮武外骨の後ろ盾を得て『大阪平民新聞』を起こした。のちに郷里へ戻り、ガラス温室での栽培など農業の改良に打ち込んでいたところを、事件に連座して捕らえられる。 事件では、明治天皇の暗殺を企てたとして26人が起訴され、大審院のただ一度の、しかも非公開の裁判で24人に死刑が言い渡された。翌日、半数は恩赦で無期に減じられたが、残る12人は1週間ほどのうちに刑場へ送られた。森近もその一人で、無実を訴えながら明治44年1月24日に命を絶たれた。戦後の1961年、生き残った坂本清馬と森近の妹・栄子が再審を求めたが、1965年に棄却されている。 今回のサミットは「再審請求棄却と顕彰運動—真実の伝達と継承」を掲げ、犠牲者の人権回復を求める全国連絡会の代表らが語り合った。あわせて井原市芳井歴史民俗資料館では、12月7日まで特別展「明治時代の社会主義と森近運平」が開かれ、森近の活動や発言、岡山の友人・仲間たちを紹介している。 西洋の法廷を見聞した身からすれば、一度きりの非公開の裁きで十二の命を奪った手続きには、首をかしげざるを得ない。新聞もまた、それを十分に問えなかった。百年余りを経て、郷里が一人の青年の歩みを掘り起こそうとしている。その営みを、明治の記録として重く受け止めるべきだと論ずる次第である。
石の樋に三百年、水は流れた——細川忠興が開いた中津の「御水道」、企画展で紹介
元和6年、隠居した細川忠興が中津城下に引いた上水道「御水道」。九州最初期の近世水道は、昭和の初めまで300年あまり使われた。神田上水の工事に関わった芭蕉が、その石樋をのぞく。
水の道と聞くと、他人事には思えない。俳諧で身を立てる前のこと、わたしは江戸で神田上水の工事に何年か関わっていた。川から水を引き、樋を通して町へ配る。その苦労を少しは知る身として、豊前中津の「御水道」の話には思わず杖を止めた。中津市歴史博物館で、この上水道を紹介する企画展「お水道の石樋」が開かれている。水道の石樋が中津市の指定文化財になって40年になるのを記念したものだ。 御水道の始まりは元和6年(1620)。家督を譲って中津城に隠居した細川忠興が、城の飲み水を確保するため、三口と呼ばれる取水口から城内まで水路を引いた。城下では地面の下に石の樋を埋めて水を通し、城まで届けたという。承応元年(1652)には城下の町にも水道が巡らされた。九州でも最初期の近世水道とされ、藩が維持と管理を担いながら、昭和の初めまで使われ続けた。敷設から300年あまり、町の暮らしを支えたことになる。 地中の石樋は、目には見えない。だが見えないものほど、手入れを怠ればすぐに詰まり、濁る。三百年という年月は、樋を据えた者たちの腕前と同じくらい、それを守り続けた人々の根気の証でもあるだろう。企画展では、御水道の歴史とあわせて、今の水道の仕事も紹介しているそうだ。昔の石樋と今の水道管が一つの部屋に並ぶさまは、なかなか味わい深い。 忠興は号を三斎といった。中津には、その名を冠した三斎池という溜池も伝わる。茶の湯を好んだ風流人が隠居の地で水の道を整えたと思えば、ただの土木の話にとどまらない趣がある。 中津の城下を歩けば、足もとのどこかを、かつて水が流れていたはずだ。石畳の下の水音に耳を澄ますつもりで、いつかゆっくり歩いてみたいものである。
石の樋に三百年、水は流れた——細川忠興が開いた中津の「御水道」、企画展で紹介
元和6年、隠居した細川忠興が中津城下に引いた上水道「御水道」。九州最初期の近世水道は、昭和の初めまで300年あまり使われた。神田上水の工事に関わった芭蕉が、その石樋をのぞく。
水の道と聞くと、他人事には思えない。俳諧で身を立てる前のこと、わたしは江戸で神田上水の工事に何年か関わっていた。川から水を引き、樋を通して町へ配る。その苦労を少しは知る身として、豊前中津の「御水道」の話には思わず杖を止めた。中津市歴史博物館で、この上水道を紹介する企画展「お水道の石樋」が開かれている。水道の石樋が中津市の指定文化財になって40年になるのを記念したものだ。 御水道の始まりは元和6年(1620)。家督を譲って中津城に隠居した細川忠興が、城の飲み水を確保するため、三口と呼ばれる取水口から城内まで水路を引いた。城下では地面の下に石の樋を埋めて水を通し、城まで届けたという。承応元年(1652)には城下の町にも水道が巡らされた。九州でも最初期の近世水道とされ、藩が維持と管理を担いながら、昭和の初めまで使われ続けた。敷設から300年あまり、町の暮らしを支えたことになる。 地中の石樋は、目には見えない。だが見えないものほど、手入れを怠ればすぐに詰まり、濁る。三百年という年月は、樋を据えた者たちの腕前と同じくらい、それを守り続けた人々の根気の証でもあるだろう。企画展では、御水道の歴史とあわせて、今の水道の仕事も紹介しているそうだ。昔の石樋と今の水道管が一つの部屋に並ぶさまは、なかなか味わい深い。 忠興は号を三斎といった。中津には、その名を冠した三斎池という溜池も伝わる。茶の湯を好んだ風流人が隠居の地で水の道を整えたと思えば、ただの土木の話にとどまらない趣がある。 中津の城下を歩けば、足もとのどこかを、かつて水が流れていたはずだ。石畳の下の水音に耳を澄ますつもりで、いつかゆっくり歩いてみたいものである。
リヒャルト・ハイゼ
白虎隊の墓のかたわらに眠ることを望んだ、明治のお雇いドイツ人教師
今号の「こんな人」はこの御仁、リヒャルト・ハイゼ(1869〜1940)。北ドイツ・キールの生まれで、明治三十五年(1902年)に日本政府の招きで来日、東京高等商業学校(現・一橋大学)でドイツ語を教えたお雇い外国人や。学習院や慶應でも教鞭を執り、教え子には後の駐独大使や、若き日の昭和天皇までおったというから只者やない。日本人女性と結婚してキリスト教から神道に改宗するほどの日本びいきぶりで知られたが、極めつけは会津・飯盛山への傾倒。白虎隊士たちの墓前にたたずみ、その最期に深く心打たれたハイゼは、自分もこの丘に葬ってほしいと望んだという。大正十三年(1924年)に日本を離れ中国で没したが、遺志どおり今も飯盛山に妻とともに墓が残っている。
リヒャルト・ハイゼ
白虎隊の墓のかたわらに眠ることを望んだ、明治のお雇いドイツ人教師
今号の「こんな人」はこの御仁、リヒャルト・ハイゼ(1869〜1940)。北ドイツ・キールの生まれで、明治三十五年(1902年)に日本政府の招きで来日、東京高等商業学校(現・一橋大学)でドイツ語を教えたお雇い外国人や。学習院や慶應でも教鞭を執り、教え子には後の駐独大使や、若き日の昭和天皇までおったというから只者やない。日本人女性と結婚してキリスト教から神道に改宗するほどの日本びいきぶりで知られたが、極めつけは会津・飯盛山への傾倒。白虎隊士たちの墓前にたたずみ、その最期に深く心打たれたハイゼは、自分もこの丘に葬ってほしいと望んだという。大正十三年(1924年)に日本を離れ中国で没したが、遺志どおり今も飯盛山に妻とともに墓が残っている。
2025年10月号をお届けします。ジャポニスムや浮世絵の影響を受けつつ、光と日常を描き抜いたフランスの巨匠ボナールの美の世界を取り上げました。絵画の奥に秘められた色彩のドラマをお楽しみください。芭蕉翁には中津の御水道の特集を、桜痴はんには、大逆事件で刑死した井原の森近運平の特集をお願いしました。温室で野菜を育てとった青年が、ある日を境に刑場へ送られる。明治の光と影の落差に、読み返すたび言葉を失います。かわら版では石田梅岩や家斉公の子だくさんぶりなど、硬軟とりまぜて並べとります。秋の夜長に、ゆっくりページをめくってもらえたら嬉しいです。
2025年10月号をお届けします。ジャポニスムや浮世絵の影響を受けつつ、光と日常を描き抜いたフランスの巨匠ボナールの美の世界を取り上げました。絵画の奥に秘められた色彩のドラマをお楽しみください。芭蕉翁には中津の御水道の特集を、桜痴はんには、大逆事件で刑死した井原の森近運平の特集をお願いしました。温室で野菜を育てとった青年が、ある日を境に刑場へ送られる。明治の光と影の落差に、読み返すたび言葉を失います。かわら版では石田梅岩や家斉公の子だくさんぶりなど、硬軟とりまぜて並べとります。秋の夜長に、ゆっくりページをめくってもらえたら嬉しいです。