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2025年11月号

バックナンバー
編集長: 木村蒹葭堂(大坂)

特集.txt - メモ帳
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【特集】会津松平家と貴重な掛け軸 ・ 初出: 2025年11月

会津藩絵師が描いた掛け軸、若松市へ寄贈——松平家14代当主・保久氏の想い

会津若松市役所の新庁舎完成を記念し、松平家十四代当主・保久氏から寄贈された会津藩絵師の掛け軸。城下に受け継がれる美の記憶を、松尾芭蕉が静かに辿る。

初冬の木枯らしが吹き、磐梯山の嶺にうっすらと雪が積もる頃、陸奥の会津若松から心温まる便りが届いた。会津若松市役所の新庁舎完成を記念し、会津松平家第十四代当主である松平保久氏より、江戸時代に会津藩のお抱え絵師が手掛けた貴重な掛け軸が市へ寄贈されたという。福島民報や47NEWSが報じたこの出来事は、激動の近世・近代を生き抜いた名門の誇りと、郷土への深い愛情を物語る美しい佳話として耳目を集めている。 会津藩といえば、初代藩主・保科正之以来、学問と武芸のみならず雅やかな文芸や美術の振興にも力を注いできた歴史を持つ。藩のお抱え絵師たちは、狩野派をはじめとする中央の洗練された画法を学びつつ、雄大な会津の山河や武家の気品を墨色豊かに描き出してきた。寄贈された軸に込められた実直な筆遣いには、単なる装飾を超えて、泰平の世を慈しみ、主君への忠義と美の探求に生涯を捧げた絵師たちの静かな呼吸が宿っている。 鶴ヶ城を仰ぎ見る城下の地を歩けば、戊辰の硝煙に包まれながらも、町衆や武家が命がけで守り継いできた文化の厚みに幾度となく胸を打たれる。新庁舎という現代の市民生活の結節点に、かつての殿様の家柄から託された一幅の絵。冷え切った冬の空気に杖を止め、その掛け軸の前に佇むとき、数百年の時を越えて結ばれた人と人、土地と記憶の絆の尊さに、旅の心もしみじみと温まるのを感じるのである。

#会津藩#会津松平家#掛け軸#会津若松#日本美術史
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【特集】川村孫兵衛生誕450年と石巻の発展 ・ 初出: 2025年11月

「数百の廻船入江につどひ」の源流へ——北上川を治めた川村孫兵衛、生誕450年シンポ

伊達政宗に仕え、北上川を改修して石巻の繁栄の礎を築いた川村孫兵衛重吉。生誕450年のシンポジウムを前に、かつて石巻の港に迷い込んだ芭蕉が、その足跡をたどる。

「数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立つゞけたり」。元禄2年(1689)、『おくのほそ道』の旅で道に迷い、思いがけず石巻の港に出たとき、わたしはそう書き留めた。入江を埋める船と、ひしめく家々。あの賑わいの土台を築いた人の名を、当時のわたしはどれほど意識していただろうか。その人、川村孫兵衛重吉の生誕450年を記念するシンポジウムが、11月30日に石巻専修大学で開かれる。 孫兵衛(1575〜1648)は長門の生まれで、はじめは毛利輝元に仕えた。関ヶ原の後、減封された毛利家を離れて浪人となり、伊達政宗に見いだされて仙台藩の家臣となる。そして元和2年(1616)から寛永3年(1626)まで、およそ10年をかけて北上川の改修に取り組んだ。暴れる川を治めて下流に新田を開き、仙台藩の石高を大きく押し上げただけでなく、川と海をつなぐ舟運の道も整えた。のちに貞山運河の一部となる木挽堀や、仙台の四ツ谷用水の掘削にも関わっている。 川が整えば、米が運ばれる。北上川を下った米は石巻に集まり、港から江戸へ積み出されていった。わたしが見た廻船の群れは、まさにその流れの先にあったわけだ。石巻の人々は今も、孫兵衛を町の恩人として慕い続けている。 シンポジウムの題は「地域創生の先駆者 川村孫兵衛と石巻の発展」。平川新さん(県慶長使節船ミュージアム館長)が「伊達政宗の国づくりと石巻」を語り、石巻の戦国時代の浜と船、孫兵衛その人、川と海のつながりについて、研究者の報告が続く。参加は無料で、申し込みもいらないそうだ。 四百年前に川の流れを変えた一人の技術者が、今の町の姿を形づくっている。旅の途中で迷い込んだ港町の賑わいを、今度は川の上流からたどり直してみたい。北上川の岸に杖を立てて、孫兵衛の見た水の流れを眺めてみたいものである。

#川村孫兵衛#北上川#石巻#伊達政宗#治水
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【特集】蘇我倉山田石川麻呂ゆかりの山田寺跡と菖蒲池古墳 ・ 初出: 2025年10月〜2025年11月

無実の右大臣が眠るのはどこか——蘇我倉山田石川麻呂と山田寺跡、菖蒲池古墳の謎

乙巳の変で中大兄皇子に味方し、のちに謀反の疑いで自害した蘇我倉山田石川麻呂。世界遺産候補の山田寺跡と、被葬者の定まらぬ菖蒲池古墳から、その生と死をたどる。

勅を奉じて国史を編んだ身として、この人の名を見ると筆が重くなる。蘇我倉山田石川麻呂。世界文化遺産の候補「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産を紹介する毎日新聞の連載が、桜井市でただ一つの構成資産として、石川麻呂が建てた山田寺跡を取り上げた。 石川麻呂は、乙巳の変で中大兄皇子の側に立ち、のちに右大臣となった人である。舒明天皇13年(641)に山田寺の造営を始めたが、大化5年(649)、異母弟の蘇我日向に謀反の志ありと告げられ、軍勢を差し向けられる。石川麻呂は一族とともに、山田寺の仏殿の前で自ら命を絶った。のちにその無実が知れた、と『日本書紀』は記している。 寺はそれで終わらなかった。天武天皇の代に塔が建ち、丈六の仏像が鋳られ、天武14年(685)、石川麻呂の命日にあたる3月25日に開眼された。その仏像の頭部が、のちに興福寺へ移され、火災を経て昭和12年(1937)に再び見いだされた、あの国宝の仏頭である。昭和57年(1982)には、土砂に埋もれた東回廊が倒れたままの姿で掘り出され、日本建築史の貴重な資料となった。 もう一つ、石川麻呂の名が挙がる古墳がある。橿原市の菖蒲池古墳は、7世紀中ごろの方墳で、内側にだけ漆を塗った家形石棺が2基、南北に並んで納められている。葬られたのは誰か。皇族とみる説、蘇我蝦夷・入鹿とみる説があり、石川麻呂ではないかという見方も紹介されている。 諸家の伝ふる所、必ずしも一ならず。書紀は石川麻呂の最期を詳しく伝えたが、その亡骸がどこに眠るかまでは記していない。定まらぬことは定まらぬと記すのが、国史を編む者の務めである。寺の跡と古墳という二つの場所が、今も一人の右大臣の生と死を問い続けている。

#蘇我倉山田石川麻呂#山田寺#菖蒲池古墳#飛鳥・藤原の宮都#日本書紀
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【特集】橘南谿の解剖図とシンポジウム ・ 初出: 2025年11月

医者が自ら刀を執った日——橘南谿の「平次郎解剖図」、写しの発見を機に津でシンポ

天明3年、伏見の刑場で自ら解剖を執刀した伊勢久居出身の医師・橘南谿。その解剖図の写しが見つかったのを機に、津市でシンポジウムが開かれる。「日本初」という触れ込みを、元町医者の考証デスクが確かめる。

わたしもかつて十年ほど、大坂で町医者の看板を掲げていた。だから同じ時代に京で名を上げた医者の話となると、つい身を乗り出してしまう。伊勢久居、いまの津市久居に生まれた橘南谿(1753〜1805)である。その偉業を学ぶシンポジウムが、11月29日に津市の久居総合福祉会館で開かれる。きっかけは、南谿が執刀した解剖の図の写しが、昨年、県内の医師の家から見つかったことだという。 南谿は本名を宮川春暉といい、久居藩士の家の五男に生まれた。京に上って医を学び、天明3年(1783)6月、31歳のとき、小石元俊の指導のもと、伏見の刑場で刑死した男の解剖を自ら執刀した。そのとき絵師の吉村蘭洲が臓器や関節を細かく描き写したのが「平次郎解剖図」、男の名を取った図である。写しは各地に広まり、今回見つかったのは14番目にあたるそうだ。心臓の裏表や断面まで、説明書きを添えて描いたものらしい。 さて、「医師自ら執刀した日本初の解剖」と紹介されることがあるが、これは本当だろうか。刑死者の体を開いて見る「腑分け」は、南谿より前にも京や江戸で行われ、杉田玄白らの『解体新書』もすでに世に出ていた。ただ、当時の腑分けは、刀を執るのは別の者で、医者は脇から眺めるのが常だったとされる。医者が自分の手で刀を入れ、それを克明な図に残した。南谿の仕事の値打ちは、「初めて」かどうかより、そこにあると見るのが穏当だろう。 南谿はのちに諸国を旅して『東遊記』『西遊記』を著し、紀行文の書き手としても名を残した。シンポジウムでは研究者の基調講演のほか、見つかった図を所有する医師と三重大学の解剖学の講師も登壇し、会場には「平次郎解剖図」の巻物、『解体新書』、その底本となった「ターヘル・アナトミア」も並ぶという。 郷土の偉人をたたえるのはよい。ただ、図の前に立つなら、その一枚が何を初めて見せたのかを、自分の目で確かめてほしいものである。

#橘南谿#平次郎解剖図#医学史#久居#解体新書
かわら版
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歴史かわら版 ・ 2025年11月

20世紀の発掘で壮麗な廃墟として蘇ったペルセポリス

ペルシア帝国の都ペルセポリスの古代文明の壮大さを紹介する論考。古代ギリシャ・ローマに比肩するオリエントの都の偉容が伝わる。

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歴史かわら版 ・ 2025年11月

うたごえ運動の流れ汲む長野市民合唱団の参加者募集

作曲家・信長貴富氏の指揮のもと歌う長野での合唱プロジェクト。戦後うたごえ運動の合唱精神が今も信州の地で息づいている。

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歴史かわら版 ・ 2025年11月

ある神社で目撃された「概念になりつつある狛犬」が450万表示

長年の風化によってもはや「概念」と化した狛犬の姿がネットで大反響。石像が語る年月の重みと風合いに、歴史の味わいを感じずにはいられない。

今月のこんな人.txt - メモ帳
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今月のこんな人、知っていますか?

所郁太郎

瀕死の井上馨の傷を裁縫針で縫い合わせ、九死に一生を得させた美濃の蘭方医

所郁太郎。
所郁太郎。

今号の「こんな人」は所郁太郎。美濃の生まれで、大坂の適塾で蘭方医学を修めたのち、長州藩の志士たちと行動を共にした人物である。この人の名を一躍知らしめたのが、元治元年(1864年)に井上馨(聞多)が同じ長州の保守派に襲われ瀕死の重傷を負った際の逸話。居合わせた郁太郎は、手元に外科道具がないまま、なんと裁縫用の針と木綿糸で傷口を縫い合わせたという。専門は内科であって外科の心得があったわけやないというから、その場の度胸と機転には驚くしかない。おかげで井上はその後、明治政府の重鎮として活躍する道が開けたわけで、歴史の陰にはこういう命がけの一針があったりするから面白い。郁太郎自身は、志士としての激動の日々の中、志半ばで若くして世を去ったと伝わる。

#所郁太郎#井上馨#適塾#蘭方医
編集後記.txt - メモ帳
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2025年11月号をお届けします。会津松平家から寄贈された江戸期の掛け軸の美しさや、オリエントの古代都市ペルセポリスの残光など、歴史遺産が現代に問いかける価値を感じられる号となりました。芭蕉翁には生誕450年を迎えた川村孫兵衛の特集を、舎人親王には飛鳥の山田寺跡と石川麻呂の特集を、秋成はんには橘南谿の解剖図の特集をお願いしました。北上川の流れを変えて石巻の港を育てた人の話を読むと、町の賑わいいうのは、誰かが何十年も先を見て汗を流した結果なんやなあと、しみじみ思います。かわら版では、狛犬の話題やうたごえ運動の合唱団の便りも拾うております。熱いお茶でも片手に、晩秋の夜長のお供にどうぞ。