大河『べらぼう』クランクアップ——井上芳雄が語る、舞台と映像で違う十返舎一九の演じ方
十返舎一九役で出演してきた井上芳雄が撮影を完走。「とても感謝しています」とコメント、舞台俳優ならではの演技論も披露。
師走の慌ただしい風が吹き抜ける中、大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』の撮影現場から、なんとも晴れがましい幕引きの報せが届いた。江戸後期のベストセラー戯作者・十返舎一九を演じてきた井上芳雄さんが、見事に全編の撮影を完走しクランクアップを迎えたという。「とても感謝しています」という清々しい笑顔の写真がオリコンニュースなどで報じられ、一年間伴走してきた視聴者としても感慨深いものがある。 日経クロストレンドのインタビューで井上さんが語った「舞台と映像における演技の組み立て方の違い」は、芸能や芝居を愛する西鶴の目から見ても膝を打つほど面白かった。劇場の最後列まで声と感情を届ける舞台の演技と、微細な眉の動きや息遣いまでカメラが抜き取る映像の演技。客席を沸かせる間合いと画面を引き締める間の違いに悩みながらも、ミュージカル界のプリンスが一九という稀代のヒットメーカーの泥臭さとユーモアを掴み取っていく過程は、まさにプロの役者同士の真剣勝負を見るようであった。 思えば一九の書いた『東海道中膝栗毛』も、弥次さん喜多さんの珍道中で大坂までやって来る大ヒット作。大坂の浮世草子作者たるわしから見ても、版元・蔦屋重三郎と渡り合いながら「読者に銭を払わせるおもしろさ」を追求した一九の執念には深い共感を覚える。版元と作家の丁々発止の出版ビジネス劇の中で、井上芳雄さんが見事に息を吹き込んだ十返舎一九。大河の画面を通じて、近世日本のエンタメの熱気が現代の茶の間へと鮮やかに蘇った一年であった。
大河『べらぼう』クランクアップ——井上芳雄が語る、舞台と映像で違う十返舎一九の演じ方
十返舎一九役で出演してきた井上芳雄が撮影を完走。「とても感謝しています」とコメント、舞台俳優ならではの演技論も披露。
師走の慌ただしい風が吹き抜ける中、大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』の撮影現場から、なんとも晴れがましい幕引きの報せが届いた。江戸後期のベストセラー戯作者・十返舎一九を演じてきた井上芳雄さんが、見事に全編の撮影を完走しクランクアップを迎えたという。「とても感謝しています」という清々しい笑顔の写真がオリコンニュースなどで報じられ、一年間伴走してきた視聴者としても感慨深いものがある。 日経クロストレンドのインタビューで井上さんが語った「舞台と映像における演技の組み立て方の違い」は、芸能や芝居を愛する西鶴の目から見ても膝を打つほど面白かった。劇場の最後列まで声と感情を届ける舞台の演技と、微細な眉の動きや息遣いまでカメラが抜き取る映像の演技。客席を沸かせる間合いと画面を引き締める間の違いに悩みながらも、ミュージカル界のプリンスが一九という稀代のヒットメーカーの泥臭さとユーモアを掴み取っていく過程は、まさにプロの役者同士の真剣勝負を見るようであった。 思えば一九の書いた『東海道中膝栗毛』も、弥次さん喜多さんの珍道中で大坂までやって来る大ヒット作。大坂の浮世草子作者たるわしから見ても、版元・蔦屋重三郎と渡り合いながら「読者に銭を払わせるおもしろさ」を追求した一九の執念には深い共感を覚える。版元と作家の丁々発止の出版ビジネス劇の中で、井上芳雄さんが見事に息を吹き込んだ十返舎一九。大河の画面を通じて、近世日本のエンタメの熱気が現代の茶の間へと鮮やかに蘇った一年であった。
聖武天皇の「幻の都」恭仁宮跡が特別史跡へ。京都府内では69年ぶり、遺跡の国宝に。垂仁天皇陵の発掘公開や草津の粘土槨も
国の文化審議会は、京都府木津川市の恭仁宮跡を特別史跡に指定するよう答申した。わずか数年で都が移った「幻の都」が、遺跡の国宝に格上げされる。奈良や滋賀からも古墳の便りが届いた。
二月にこの欄で、恭仁宮跡で見つかった食堂院の礎石の話を書いた。その同じ地が、師走に大きな知らせを受け取った。朝日新聞や読売新聞、京都新聞、産経新聞によれば、国の文化審議会は、京都府木津川市の恭仁宮跡を特別史跡に指定するよう答申した。特別史跡は史跡の中でも特に価値の高いもので、「遺跡の国宝」とも呼ばれる。京都府内では69年ぶり4件目、京都の古代遺跡では初めてで、宮跡としては3件目になるという。 恭仁宮は、奈良時代の740年に聖武天皇が都を移した宮である。だが都としての命は短く、数年で天皇は紫香楽、難波を経て平城京へ戻った。朝日新聞は「奈良時代の短命の宮都」、読売新聞は「遷都・転用示す」と見出しを立てている。都が去ったあと、大極殿は山城国分寺に譲られ、宮の跡は寺として生き続けた。京都新聞によれば、奈良時代の政治の舞台として「極めて重要」と評価された。産経新聞によれば、京都府の西脇知事は「歴史文化・観光拠点に」と期待を寄せたという。 奈良からも便りがある。朝日新聞によれば、宮内庁が垂仁天皇陵として管理する古墳の発掘が限定公開された。ただ、古墳時代の遺構は見えず、幕末以降に手が加えられた可能性があるという。江戸の終わりから明治にかけて、多くの陵墓が整えられ直した。目の前の姿が、そのまま古代の姿とは限らないのである。滋賀県草津市の矢倉古墳群では、古墳時代の埋葬施設「粘土槨」が見つかったと、朝日新聞が伝えている。 恭仁宮跡には、今も大極殿の礎石が田畑の中に残る。冬枯れの野に立って、山並みに囲まれたその地を眺めると、天平の人々がなぜここを選び、なぜまた去ったのか、問いばかりが浮かんでくる。答えの出ない問いを抱えて歩くのも、旅の楽しみの一つである。
聖武天皇の「幻の都」恭仁宮跡が特別史跡へ。京都府内では69年ぶり、遺跡の国宝に。垂仁天皇陵の発掘公開や草津の粘土槨も
国の文化審議会は、京都府木津川市の恭仁宮跡を特別史跡に指定するよう答申した。わずか数年で都が移った「幻の都」が、遺跡の国宝に格上げされる。奈良や滋賀からも古墳の便りが届いた。
二月にこの欄で、恭仁宮跡で見つかった食堂院の礎石の話を書いた。その同じ地が、師走に大きな知らせを受け取った。朝日新聞や読売新聞、京都新聞、産経新聞によれば、国の文化審議会は、京都府木津川市の恭仁宮跡を特別史跡に指定するよう答申した。特別史跡は史跡の中でも特に価値の高いもので、「遺跡の国宝」とも呼ばれる。京都府内では69年ぶり4件目、京都の古代遺跡では初めてで、宮跡としては3件目になるという。 恭仁宮は、奈良時代の740年に聖武天皇が都を移した宮である。だが都としての命は短く、数年で天皇は紫香楽、難波を経て平城京へ戻った。朝日新聞は「奈良時代の短命の宮都」、読売新聞は「遷都・転用示す」と見出しを立てている。都が去ったあと、大極殿は山城国分寺に譲られ、宮の跡は寺として生き続けた。京都新聞によれば、奈良時代の政治の舞台として「極めて重要」と評価された。産経新聞によれば、京都府の西脇知事は「歴史文化・観光拠点に」と期待を寄せたという。 奈良からも便りがある。朝日新聞によれば、宮内庁が垂仁天皇陵として管理する古墳の発掘が限定公開された。ただ、古墳時代の遺構は見えず、幕末以降に手が加えられた可能性があるという。江戸の終わりから明治にかけて、多くの陵墓が整えられ直した。目の前の姿が、そのまま古代の姿とは限らないのである。滋賀県草津市の矢倉古墳群では、古墳時代の埋葬施設「粘土槨」が見つかったと、朝日新聞が伝えている。 恭仁宮跡には、今も大極殿の礎石が田畑の中に残る。冬枯れの野に立って、山並みに囲まれたその地を眺めると、天平の人々がなぜここを選び、なぜまた去ったのか、問いばかりが浮かんでくる。答えの出ない問いを抱えて歩くのも、旅の楽しみの一つである。
興福寺伝来の四天王が28年ぶりにそろい踏み、三井記念美術館には国宝「熊野御幸記」。大乗寺では応挙が金箔を使い分けていたことが分かる
修理を終えた興福寺伝来の四天王像が、奈良国立博物館で28年ぶりに一堂に会した。東京では藤原定家の国宝の旅日記が公開され、兵庫の大乗寺では円山応挙の襖絵に2種類の金箔が使われていたと分かった。
年の瀬に、ええもんがそろうた。朝日新聞や産経新聞によれば、奈良・興福寺に伝わる四天王像が修理を終え、奈良国立博物館で28年ぶりにそろって公開されている。修理を終えた四体が、ようやく一堂に会したというわけや。四方をにらむ四天王は、四体そろうてこそ。一体欠けても、守りの陣が崩れてしまう。 東京では、美術展ナビによれば、三井記念美術館で「国宝 熊野御幸記と藤原定家の書」が来年2月1日まで開かれている。熊野御幸記は、定家が後鳥羽院の熊野詣でに付き従ったときの日記で、800年前の過酷な旅の様子が定家自身の筆で記されている。百人一首の撰者として雲の上の人のように思われがちな定家が、山道に音を上げ、体調を崩しながら歩いた。美術展ナビの見出しにあるとおり、「定家が一気に身近に」なる展覧会や。定家のあの独特の癖字、いわゆる定家様を一冊まるごと眺められるのも、書を愛する者にはたまらん。 そして神戸新聞によれば、兵庫県香美町の大乗寺で、円山応挙の襖絵に2種類の金箔が使われていたことが調査で分かった。銅の含み具合を変えた金箔を使い分けて、遠近感を出していた可能性があるという。大乗寺は応挙とその弟子たちの襖絵で埋め尽くされ、「応挙寺」とも呼ばれる寺や。金箔の色味まで計算して空間をつくっていたとしたら、写生の名手は、光の名手でもあったことになる。 仏像、書、障壁画と、どれも長い年月を越えて今に伝わったものばかり。修理する人、調べる人、守る人がいてこそ、わたしらはこうして眺めることができる。今年も一年、蔵の外のお宝にずいぶん楽しませてもろうた。ほんまにありがたいことや。
興福寺伝来の四天王が28年ぶりにそろい踏み、三井記念美術館には国宝「熊野御幸記」。大乗寺では応挙が金箔を使い分けていたことが分かる
修理を終えた興福寺伝来の四天王像が、奈良国立博物館で28年ぶりに一堂に会した。東京では藤原定家の国宝の旅日記が公開され、兵庫の大乗寺では円山応挙の襖絵に2種類の金箔が使われていたと分かった。
年の瀬に、ええもんがそろうた。朝日新聞や産経新聞によれば、奈良・興福寺に伝わる四天王像が修理を終え、奈良国立博物館で28年ぶりにそろって公開されている。修理を終えた四体が、ようやく一堂に会したというわけや。四方をにらむ四天王は、四体そろうてこそ。一体欠けても、守りの陣が崩れてしまう。 東京では、美術展ナビによれば、三井記念美術館で「国宝 熊野御幸記と藤原定家の書」が来年2月1日まで開かれている。熊野御幸記は、定家が後鳥羽院の熊野詣でに付き従ったときの日記で、800年前の過酷な旅の様子が定家自身の筆で記されている。百人一首の撰者として雲の上の人のように思われがちな定家が、山道に音を上げ、体調を崩しながら歩いた。美術展ナビの見出しにあるとおり、「定家が一気に身近に」なる展覧会や。定家のあの独特の癖字、いわゆる定家様を一冊まるごと眺められるのも、書を愛する者にはたまらん。 そして神戸新聞によれば、兵庫県香美町の大乗寺で、円山応挙の襖絵に2種類の金箔が使われていたことが調査で分かった。銅の含み具合を変えた金箔を使い分けて、遠近感を出していた可能性があるという。大乗寺は応挙とその弟子たちの襖絵で埋め尽くされ、「応挙寺」とも呼ばれる寺や。金箔の色味まで計算して空間をつくっていたとしたら、写生の名手は、光の名手でもあったことになる。 仏像、書、障壁画と、どれも長い年月を越えて今に伝わったものばかり。修理する人、調べる人、守る人がいてこそ、わたしらはこうして眺めることができる。今年も一年、蔵の外のお宝にずいぶん楽しませてもろうた。ほんまにありがたいことや。
蔦重、松坂で本居宣長に会う。『べらぼう』完結、48歳で世を去った版元の後継ぎと、栃木の歌麿展は開館以来初の1万人
大河『べらぼう』が最終回を迎え、蔦重の松坂への旅と本居宣長との出会いが描かれた。48歳で世を去った重三郎が誰に店を託したのか、各紙が一年の物語を締めくくる。
一年続いた芝居も、いよいよ打ち出しや。サライ.jpの満喫リポートによれば、『べらぼう』の最終回には、蔦重が伊勢の松坂へ旅をして本居宣長に会う場面が描かれた。記事は、宣長の登場が将来の大河ドラマ『古事記』の伏線ではないか、と冗談めかして書いている。版元として、江戸の戯作だけでなく、上方の学問の本にまで手を広げようとした蔦重らしい締めくくりや。売れ筋を追うだけやなく、次の売れ筋を探しに自分の足で出かける。商人の鑑やで。 PRESIDENT Onlineによれば、重三郎は48歳で世を去る直前に後継ぎを指名していたが、けっきょく誰も「1代目蔦屋」を超えられなかったという。初代が名を上げた店ほど、二代目は苦労する。のれんは継げても、目利きの勘までは継げんからな。歌麿、京伝、写楽と、一代でこれだけの才を世に出した版元は、そうそうおらん。 ドラマの経済効果も、ちゃんと数字に出とる。下野新聞によれば、栃木市立美術館の企画展「喜多川歌麿と栃木の狂歌」の来場者が1万人に達し、開館以来初めてのことだという。歌麿と栃木の縁は、ドラマの後半でも描かれた。大河で名前が出れば、地方の美術館にも人が足を運ぶ。こういう効き目は、ほんまに大したもんや。 JBpressは、紀州藩の足軽の家に生まれた田沼意次が老中にまで出世できた理由として、江戸幕府の権力の仕組みが意外に柔軟だったことを挙げている。物語の前半を引っ張った田沼と、後半の松平定信。賄賂の政治か、締め付けの政治か。どちらの世でも、蔦重はしぶとく商いを続けた。 わしは一年、銭の話ばかり書いてきた。けれど最後に思うのは、蔦重が残したのは銭やなく、本と絵と、それを生んだ人のつながりやった、ということや。帳簿の最後の一行には、そう書いておきたい。
蔦重、松坂で本居宣長に会う。『べらぼう』完結、48歳で世を去った版元の後継ぎと、栃木の歌麿展は開館以来初の1万人
大河『べらぼう』が最終回を迎え、蔦重の松坂への旅と本居宣長との出会いが描かれた。48歳で世を去った重三郎が誰に店を託したのか、各紙が一年の物語を締めくくる。
一年続いた芝居も、いよいよ打ち出しや。サライ.jpの満喫リポートによれば、『べらぼう』の最終回には、蔦重が伊勢の松坂へ旅をして本居宣長に会う場面が描かれた。記事は、宣長の登場が将来の大河ドラマ『古事記』の伏線ではないか、と冗談めかして書いている。版元として、江戸の戯作だけでなく、上方の学問の本にまで手を広げようとした蔦重らしい締めくくりや。売れ筋を追うだけやなく、次の売れ筋を探しに自分の足で出かける。商人の鑑やで。 PRESIDENT Onlineによれば、重三郎は48歳で世を去る直前に後継ぎを指名していたが、けっきょく誰も「1代目蔦屋」を超えられなかったという。初代が名を上げた店ほど、二代目は苦労する。のれんは継げても、目利きの勘までは継げんからな。歌麿、京伝、写楽と、一代でこれだけの才を世に出した版元は、そうそうおらん。 ドラマの経済効果も、ちゃんと数字に出とる。下野新聞によれば、栃木市立美術館の企画展「喜多川歌麿と栃木の狂歌」の来場者が1万人に達し、開館以来初めてのことだという。歌麿と栃木の縁は、ドラマの後半でも描かれた。大河で名前が出れば、地方の美術館にも人が足を運ぶ。こういう効き目は、ほんまに大したもんや。 JBpressは、紀州藩の足軽の家に生まれた田沼意次が老中にまで出世できた理由として、江戸幕府の権力の仕組みが意外に柔軟だったことを挙げている。物語の前半を引っ張った田沼と、後半の松平定信。賄賂の政治か、締め付けの政治か。どちらの世でも、蔦重はしぶとく商いを続けた。 わしは一年、銭の話ばかり書いてきた。けれど最後に思うのは、蔦重が残したのは銭やなく、本と絵と、それを生んだ人のつながりやった、ということや。帳簿の最後の一行には、そう書いておきたい。
梁川星巌・梁川紅蘭
安政の大獄をコレラで逃れた漢詩の巨匠と、旅に同行した女流詩人の妻

今号の「こんな人」は、美濃出身の漢詩人夫婦、梁川星巌(1789〜1858)と梁川紅蘭(1804〜1879)。星巌は若くして江戸に出て漢詩を学び、諸国を巡ったのち、江戸で私塾「玉池吟社」を主宰して幕末最大級ともいわれる詩社に育て上げた人物である。尊皇攘夷の志士たちとも深く交わり、当局から要注意人物と目されていたそうやが、安政の大獄が本格化する直前の安政五年、コレラにより急逝してしもうた。結果として弾圧の手を逃れる形になったというのは、なんとも皮肉な巡り合わせやなあ。妻の紅蘭も同じ美濃の生まれで、星巌のもとで漢詩を学び、夫の旅にも同行して各地の風物を詩に詠んだ、当時としては珍しい女性詩人である。星巌の没後も筆を絶やさず、自らの詩業を続けたという。
梁川星巌・梁川紅蘭
安政の大獄をコレラで逃れた漢詩の巨匠と、旅に同行した女流詩人の妻

今号の「こんな人」は、美濃出身の漢詩人夫婦、梁川星巌(1789〜1858)と梁川紅蘭(1804〜1879)。星巌は若くして江戸に出て漢詩を学び、諸国を巡ったのち、江戸で私塾「玉池吟社」を主宰して幕末最大級ともいわれる詩社に育て上げた人物である。尊皇攘夷の志士たちとも深く交わり、当局から要注意人物と目されていたそうやが、安政の大獄が本格化する直前の安政五年、コレラにより急逝してしもうた。結果として弾圧の手を逃れる形になったというのは、なんとも皮肉な巡り合わせやなあ。妻の紅蘭も同じ美濃の生まれで、星巌のもとで漢詩を学び、夫の旅にも同行して各地の風物を詩に詠んだ、当時としては珍しい女性詩人である。星巌の没後も筆を絶やさず、自らの詩業を続けたという。
2025年12月号をお届けします。大河『べらぼう』クランクアップの話題を中心に、閉館するライブハウスから幕末の漢詩人夫婦まで、今年最後にふさわしい雑多な顔ぶれになりました。後から特集を三本足しています。二月に食堂院の礎石の話を載せた恭仁宮跡が、師走に特別史跡になると決まって、芭蕉翁は一年越しの続きものを書けたと上機嫌でした。奈良では興福寺の四天王が二十八年ぶりにそろい、日本橋では定家卿の熊野詣での日記。わたしは年忘れの酒より先に、こっちで目の保養をさせてもらいます。べらぼうの完結編は西鶴はんにお願いしたら、一年じゅう銭の話をしとった人が、最後だけええ話で締めよって、ちょっと泣かされました。来年もまた地道にネタを拾っていきます。
2025年12月号をお届けします。大河『べらぼう』クランクアップの話題を中心に、閉館するライブハウスから幕末の漢詩人夫婦まで、今年最後にふさわしい雑多な顔ぶれになりました。後から特集を三本足しています。二月に食堂院の礎石の話を載せた恭仁宮跡が、師走に特別史跡になると決まって、芭蕉翁は一年越しの続きものを書けたと上機嫌でした。奈良では興福寺の四天王が二十八年ぶりにそろい、日本橋では定家卿の熊野詣での日記。わたしは年忘れの酒より先に、こっちで目の保養をさせてもらいます。べらぼうの完結編は西鶴はんにお願いしたら、一年じゅう銭の話をしとった人が、最後だけええ話で締めよって、ちょっと泣かされました。来年もまた地道にネタを拾っていきます。