在原業平生誕1200年、「伊勢物語」の歌仙を辿る展覧会
六歌仙にして稀代の色男、在原業平が生まれて1200年。東京の展覧会で、その和歌と伝説の全体像に迫る。
新春の清々しい空気が広がる一月、古典文学を愛する者にとって見逃せない記念の年が幕を開けた。平安初期の貴公子にして、六歌仙・三十六歌仙の筆頭に数えられる在原業平(825〜880)が生まれて、今年でちょうど千二百年の節目を迎えたのである。東京の美術館ではこれを記念した展覧会「歌仙 在原業平と伊勢物語」が開かれ、千年の時を超えて人々を魅了し続ける歌と物語の世界が一堂に会している。 平城天皇の孫という高貴な血筋に生まれながら、政争の煽りを受けて皇位継承の道から外れた業平。その波乱の生涯と情熱的な恋は、平安文学の不朽の傑作『伊勢物語』の主人公「昔男」のモデルとして結晶した。尾張の八橋で咲き誇る杜若を詠んだ「から衣 きつつなれにし つましあれば…」の東下りの段や、清和天皇の女御となる藤原高子(二条后)との身分違いの道ならぬ恋など、誰もが古典の授業で一度は親しんだ名場面の数々が、美しい奈良絵本や屏風絵とともに紹介されている。 大坂の古書画好きとしても、業平が河内国の高安に通った伝説や、難波津・住吉の浜を詠んだ数々の古歌には格別の親しみを覚えてきた。実在の貴族としての政治的挫折と、物語のなかで華麗にふくらんだ「情熱的な色好み」の偶像。その二つの像を見比べるとき、敗者の哀愁をみやびな美へと昇華させてきた日本人の豊かな物語受容の歴史がくっきりと浮かび上がってくる。千二百年もの歳月を生き抜いてなお色褪せない言の葉の力に、深く感じ入る新年の幕開けとなった。
在原業平生誕1200年、「伊勢物語」の歌仙を辿る展覧会
六歌仙にして稀代の色男、在原業平が生まれて1200年。東京の展覧会で、その和歌と伝説の全体像に迫る。
新春の清々しい空気が広がる一月、古典文学を愛する者にとって見逃せない記念の年が幕を開けた。平安初期の貴公子にして、六歌仙・三十六歌仙の筆頭に数えられる在原業平(825〜880)が生まれて、今年でちょうど千二百年の節目を迎えたのである。東京の美術館ではこれを記念した展覧会「歌仙 在原業平と伊勢物語」が開かれ、千年の時を超えて人々を魅了し続ける歌と物語の世界が一堂に会している。 平城天皇の孫という高貴な血筋に生まれながら、政争の煽りを受けて皇位継承の道から外れた業平。その波乱の生涯と情熱的な恋は、平安文学の不朽の傑作『伊勢物語』の主人公「昔男」のモデルとして結晶した。尾張の八橋で咲き誇る杜若を詠んだ「から衣 きつつなれにし つましあれば…」の東下りの段や、清和天皇の女御となる藤原高子(二条后)との身分違いの道ならぬ恋など、誰もが古典の授業で一度は親しんだ名場面の数々が、美しい奈良絵本や屏風絵とともに紹介されている。 大坂の古書画好きとしても、業平が河内国の高安に通った伝説や、難波津・住吉の浜を詠んだ数々の古歌には格別の親しみを覚えてきた。実在の貴族としての政治的挫折と、物語のなかで華麗にふくらんだ「情熱的な色好み」の偶像。その二つの像を見比べるとき、敗者の哀愁をみやびな美へと昇華させてきた日本人の豊かな物語受容の歴史がくっきりと浮かび上がってくる。千二百年もの歳月を生き抜いてなお色褪せない言の葉の力に、深く感じ入る新年の幕開けとなった。
大津事件、穏便に済んだのは皇太子の「日本びいき」ゆえか——明治国家を揺らしたひと太刀
明治24年、来日中のロシア皇太子ニコライが警備の巡査に斬りつけられた大津事件。天皇の謝罪から司法権の独立まで、国を揺らした一件を「日本びいき」説の吟味も交えて読み直す。
明治24年(1891年)5月11日、琵琶湖のほとりの大津。来日中のロシア皇太子ニコライ、のちの皇帝ニコライ2世の頭上に、警備に立っていた滋賀県の巡査・津田三蔵のサーベルが振り下ろされた。世に言う大津事件である。 皇太子の傷は命にかかわるものではなかったが、日本側の狼狽ぶりは尋常ではない。相手は大国ロシアの世継ぎ、しかも日本は不平等条約の改正交渉のさなかにあった。明治天皇はみずから京都へ急行して見舞い、帰国の途につく皇太子を神戸のロシア艦まで見送った。外務大臣の青木周蔵らは職を退き、京都府庁の前では畠山勇子という若い女性が、国の行く末を案じて自ら命を絶っている。「条約改正が吹き飛びかけた国家の危機」という見出しも、大げさではない。 ところで、事件が大事に至らず収まったのはニコライが日本びいきだったからだ、という話がある。長崎で龍の刺青を入れたという逸話もよく知られている。だが、それで片づけてよいものだろうか。ロシアが賠償も領土も求めなかった理由を、皇太子ひとりの好悪に帰すのはいささか都合がよすぎる。日本政府の過剰なまでの謝罪ぶりや、ロシア側の外交上の計算も、同じ秤に載せて量るべきだろう。 もうひとつ見落とせないのが裁判である。政府は皇族に対する罪を当てはめて津田を死刑にするよう求めたが、大審院長の児島惟謙はこれを退け、普通の謀殺未遂として無期徒刑の判決に落ち着いた。外国の皇族は日本の皇族ではない、という理屈を通したわけで、のちに「司法権の独立を守った」と称えられる。もっとも、担当の判事たちへ児島が働きかけたこと自体が裁判への介入ではないか、という批判も古くからある。美談は表だけでなく裏も読んでおきたい。 天皇の謝罪、一女性の死、法の理屈。一人の巡査のひと太刀が、明治国家のあちこちの継ぎ目を照らし出した事件だったと言えそうだ。
大津事件、穏便に済んだのは皇太子の「日本びいき」ゆえか——明治国家を揺らしたひと太刀
明治24年、来日中のロシア皇太子ニコライが警備の巡査に斬りつけられた大津事件。天皇の謝罪から司法権の独立まで、国を揺らした一件を「日本びいき」説の吟味も交えて読み直す。
明治24年(1891年)5月11日、琵琶湖のほとりの大津。来日中のロシア皇太子ニコライ、のちの皇帝ニコライ2世の頭上に、警備に立っていた滋賀県の巡査・津田三蔵のサーベルが振り下ろされた。世に言う大津事件である。 皇太子の傷は命にかかわるものではなかったが、日本側の狼狽ぶりは尋常ではない。相手は大国ロシアの世継ぎ、しかも日本は不平等条約の改正交渉のさなかにあった。明治天皇はみずから京都へ急行して見舞い、帰国の途につく皇太子を神戸のロシア艦まで見送った。外務大臣の青木周蔵らは職を退き、京都府庁の前では畠山勇子という若い女性が、国の行く末を案じて自ら命を絶っている。「条約改正が吹き飛びかけた国家の危機」という見出しも、大げさではない。 ところで、事件が大事に至らず収まったのはニコライが日本びいきだったからだ、という話がある。長崎で龍の刺青を入れたという逸話もよく知られている。だが、それで片づけてよいものだろうか。ロシアが賠償も領土も求めなかった理由を、皇太子ひとりの好悪に帰すのはいささか都合がよすぎる。日本政府の過剰なまでの謝罪ぶりや、ロシア側の外交上の計算も、同じ秤に載せて量るべきだろう。 もうひとつ見落とせないのが裁判である。政府は皇族に対する罪を当てはめて津田を死刑にするよう求めたが、大審院長の児島惟謙はこれを退け、普通の謀殺未遂として無期徒刑の判決に落ち着いた。外国の皇族は日本の皇族ではない、という理屈を通したわけで、のちに「司法権の独立を守った」と称えられる。もっとも、担当の判事たちへ児島が働きかけたこと自体が裁判への介入ではないか、という批判も古くからある。美談は表だけでなく裏も読んでおきたい。 天皇の謝罪、一女性の死、法の理屈。一人の巡査のひと太刀が、明治国家のあちこちの継ぎ目を照らし出した事件だったと言えそうだ。
曲直瀬道三
足利将軍から信長・元就まで診察した「戦国の医聖」。名医にして茶道・書画の達人
今号の「こんな人」は、戦国時代屈指のスーパー名医・曲直瀬道三(1507〜1594)を取り上げたい。明代の最新医学(李朱医学)を日本に導入・体系化し、それまでの神仏祈願頼みだった医療を臨床・合理主義へと大転換させた人物や。 足利義輝の主治医を務め、後には織田信長、毛利元就、豊臣秀吉ら錚々たる天下人を診察したというから凄い。信長に『啓迪集』を献上した際には名香「初音」を賜り、元就には「養生訓」を授けて健康長寿を支えた。単に薬を処方するだけでなく、茶道や書画のサロンにも顔を出す当代一流の文化人でもあった。戦国武将たちの天下取りを「裏側の健康管理」から支えた立役者として、もっと評価されてええ御仁やと思う。
曲直瀬道三
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今号の「こんな人」は、戦国時代屈指のスーパー名医・曲直瀬道三(1507〜1594)を取り上げたい。明代の最新医学(李朱医学)を日本に導入・体系化し、それまでの神仏祈願頼みだった医療を臨床・合理主義へと大転換させた人物や。 足利義輝の主治医を務め、後には織田信長、毛利元就、豊臣秀吉ら錚々たる天下人を診察したというから凄い。信長に『啓迪集』を献上した際には名香「初音」を賜り、元就には「養生訓」を授けて健康長寿を支えた。単に薬を処方するだけでなく、茶道や書画のサロンにも顔を出す当代一流の文化人でもあった。戦国武将たちの天下取りを「裏側の健康管理」から支えた立役者として、もっと評価されてええ御仁やと思う。
鋳物の街が生んだ勇姿 ― 前田利長騎馬像を訪ねて
全国「午年」ミュージアムアワードで堂々の1位に輝いた鋳物の騎馬像、その勇姿を一目見ようと高岡まで足を延ばしてみた次第である。

富山県高岡市、高岡市立博物館まで足を延ばし、話題の《鋳銅前田利長騎馬像》に対面してきた。慶長十四年(1609年)、利長がこの地に高岡城を築いて入城した晴れの日を象ったという像は、なるほど胸を張った勇壮な佇まいで、全国「午年」ミュージアムアワード1位も頷ける出来栄えである。 この像、ただの記念碑やない。利長は築城と同時に金屋町へ鋳物師たちを呼び寄せ、高岡銅器の礎を築いた張本人でもある。つまりこの騎馬像そのものは、利長自身が興した技によって利長の勇姿を鋳出したという、二重の意味で「利長がつくった像」なのだ。毎年六月の御印祭では、この地の子らが弥栄節を奉納して利長の遺徳を偲ぶというから、三百年余りを経てなお慕われ続けているのがよう分かる。 もっとも、晴れやかなこの像の裏には、母を十四年もの人質に差し出し、己の死にすら毒杯の疑いがつきまとうという、重い生涯が横たわっている。胸を張るその横顔をしばし見上げながら、加賀百万石の礎を守り抜いた男の孤独に、杖を止めてしばし思いを馳せた次第である。
鋳物の街が生んだ勇姿 ― 前田利長騎馬像を訪ねて
全国「午年」ミュージアムアワードで堂々の1位に輝いた鋳物の騎馬像、その勇姿を一目見ようと高岡まで足を延ばしてみた次第である。

富山県高岡市、高岡市立博物館まで足を延ばし、話題の《鋳銅前田利長騎馬像》に対面してきた。慶長十四年(1609年)、利長がこの地に高岡城を築いて入城した晴れの日を象ったという像は、なるほど胸を張った勇壮な佇まいで、全国「午年」ミュージアムアワード1位も頷ける出来栄えである。 この像、ただの記念碑やない。利長は築城と同時に金屋町へ鋳物師たちを呼び寄せ、高岡銅器の礎を築いた張本人でもある。つまりこの騎馬像そのものは、利長自身が興した技によって利長の勇姿を鋳出したという、二重の意味で「利長がつくった像」なのだ。毎年六月の御印祭では、この地の子らが弥栄節を奉納して利長の遺徳を偲ぶというから、三百年余りを経てなお慕われ続けているのがよう分かる。 もっとも、晴れやかなこの像の裏には、母を十四年もの人質に差し出し、己の死にすら毒杯の疑いがつきまとうという、重い生涯が横たわっている。胸を張るその横顔をしばし見上げながら、加賀百万石の礎を守り抜いた男の孤独に、杖を止めてしばし思いを馳せた次第である。
千年の 恋のお手本 業平も 今の世ならば 炎上案件
─ ちはやぶる娘 ─
千年の 恋のお手本 業平も 今の世ならば 炎上案件
─ ちはやぶる娘 ─
新春のお慶びを申し上げます。睦月の寒さのなか、2026年の歴ファン.netも晴れやかに開幕いたしました。今号は千二百年の節目を迎えた在原業平と『伊勢物語』の雅びな世界をはじめ、いよいよ大河ドラマの口火を切った豊臣秀長と大坂商人の経済力、高岡に響く前田利長の遺徳、さらには名医・曲直瀬道三の医道まで、平安のいにしえから戦国・近世に至る多彩な知の彩りをお届けいたしました。一枚の絵巻や古文書の端々から、かつて生きた人々の息遣いが鮮やかに甦る歓びは、何物にも代えがたいものでございます。本年も好奇心の赴くまま、古今の史跡と物語を追い求めてまいりますので、どうぞよろしくお付き合いのほどお願い申し上げます。(木村蒹葭堂)
新春のお慶びを申し上げます。睦月の寒さのなか、2026年の歴ファン.netも晴れやかに開幕いたしました。今号は千二百年の節目を迎えた在原業平と『伊勢物語』の雅びな世界をはじめ、いよいよ大河ドラマの口火を切った豊臣秀長と大坂商人の経済力、高岡に響く前田利長の遺徳、さらには名医・曲直瀬道三の医道まで、平安のいにしえから戦国・近世に至る多彩な知の彩りをお届けいたしました。一枚の絵巻や古文書の端々から、かつて生きた人々の息遣いが鮮やかに甦る歓びは、何物にも代えがたいものでございます。本年も好奇心の赴くまま、古今の史跡と物語を追い求めてまいりますので、どうぞよろしくお付き合いのほどお願い申し上げます。(木村蒹葭堂)