松本潤が“幕末のカリスマ”会津藩主・松平容保役に決定!『ちるらん 新撰組鎮魂歌』
山田裕貴主演の実写作品で新撰組の絶対的君主を熱演。大河『どうする家康』を経て幕末の重要人物へ挑む注目キャスト決定劇。
如月の寒風が吹きすさぶ中、芝居町ならぬ歴史エンタメ界隈から飛び込んできた配役の報せに、思わず膝を打って相好を崩した。漫画『ちるらん 新撰組鎮魂歌』の実写映像化において、山田裕貴さん演じる主人公・土方歳三らの頭上に君臨する会津藩主・松平容保(かたもり)役に、あの松本潤さんが起用されることが決まったというのだ。NHK大河ドラマ『どうする家康』で徳川幕府の開祖たる神君・家康公を演じ切った看板役者が、今度はその幕府の最期に殉じた「悲劇のプリンス」を演じるという。興行の仕掛け人たるプロデューサーも、なんとも粋で贅沢なそろばんを弾いたものである。 大坂町人の目から見ても、松平容保という殿様は実に魅力と哀愁に満ちた人物だ。文久二年、京の治安維持を担う京都守護職に任ぜられたとき、家臣たちの猛反対を押し切って「会津藩の家訓は徳川宗家への忠節。ここで逃げては殿先祖に顔向けがならぬ」と火中の栗を拾った。壬生浪士組と呼ばれた血気盛んな荒くれ者たちを「新撰組」として抱え込み、彼らが父のように仰いだのが、当時二十代後半の若き容保であった。孝明天皇から絶大な信頼を寄せられ、御製(和歌)を賜りながらも、時代の奔流に翻弄されて鳥羽・伏見の敗軍となり、最後は逆賊の汚名を着せられて鶴ヶ城籠城戦へと追い詰められていく。 華やかな天下人の栄光を背負った役者が、今度は気品高く義を貫きながらも悲運に散っていく君主の孤独をどう演じるのか。単なる立ち回りの痛快劇にとどまらず、乱世に散った男たちの義理と人情、そして権力と時代の残酷さを描き出す重厚な人間ドラマになることは間違いない。金看板の役者が挑む幕末の義将の姿、観客としても今から木戸銭を握りしめて待つ甲斐があるというものだ。
松本潤が“幕末のカリスマ”会津藩主・松平容保役に決定!『ちるらん 新撰組鎮魂歌』
山田裕貴主演の実写作品で新撰組の絶対的君主を熱演。大河『どうする家康』を経て幕末の重要人物へ挑む注目キャスト決定劇。
如月の寒風が吹きすさぶ中、芝居町ならぬ歴史エンタメ界隈から飛び込んできた配役の報せに、思わず膝を打って相好を崩した。漫画『ちるらん 新撰組鎮魂歌』の実写映像化において、山田裕貴さん演じる主人公・土方歳三らの頭上に君臨する会津藩主・松平容保(かたもり)役に、あの松本潤さんが起用されることが決まったというのだ。NHK大河ドラマ『どうする家康』で徳川幕府の開祖たる神君・家康公を演じ切った看板役者が、今度はその幕府の最期に殉じた「悲劇のプリンス」を演じるという。興行の仕掛け人たるプロデューサーも、なんとも粋で贅沢なそろばんを弾いたものである。 大坂町人の目から見ても、松平容保という殿様は実に魅力と哀愁に満ちた人物だ。文久二年、京の治安維持を担う京都守護職に任ぜられたとき、家臣たちの猛反対を押し切って「会津藩の家訓は徳川宗家への忠節。ここで逃げては殿先祖に顔向けがならぬ」と火中の栗を拾った。壬生浪士組と呼ばれた血気盛んな荒くれ者たちを「新撰組」として抱え込み、彼らが父のように仰いだのが、当時二十代後半の若き容保であった。孝明天皇から絶大な信頼を寄せられ、御製(和歌)を賜りながらも、時代の奔流に翻弄されて鳥羽・伏見の敗軍となり、最後は逆賊の汚名を着せられて鶴ヶ城籠城戦へと追い詰められていく。 華やかな天下人の栄光を背負った役者が、今度は気品高く義を貫きながらも悲運に散っていく君主の孤独をどう演じるのか。単なる立ち回りの痛快劇にとどまらず、乱世に散った男たちの義理と人情、そして権力と時代の残酷さを描き出す重厚な人間ドラマになることは間違いない。金看板の役者が挑む幕末の義将の姿、観客としても今から木戸銭を握りしめて待つ甲斐があるというものだ。
「アラブの春」から15年——エジプト・チュニジアに見る現代史の苦難と変容
2011年に中東を揺るがした民主化運動「アラブの春」から十五年。西日本新聞が現地取材で迫る独裁の再来と国家混迷の冷徹な検証を、木村蒹葭堂が世界史の視座から辿る。
遠く地中海の対岸から届く歴史の足音に耳を澄ませておりますと、人間の社会がいかに劇的な変革を望み、そしていかに過酷な現実の壁に突き当たるものか、深く考えさせられることがございます。2011年、北アフリカのチュニジアで一本の露天商の焼身自殺から燃え広がり、エジプト、リビア、シリアへと瞬く間に連鎖した民主化の民衆蜂起「アラブの春」。あれから早くも十五年の歳月が流れた今月、西日本新聞meをはじめとする各社が、現地ルポに基づく重厚な検証記事を相次いで報じました。 当時、ソーシャルメディアを通じて若者たちが広場を埋め尽くし、長年君臨した独裁政権を次々と倒した熱狂は、世界中に「歴史の新しい夜明け」を信じさせました。しかし、十五年を経た現地の姿はあまりにも苦渋に満ちています。唯一の「民主化の優等生」と称えられたチュニジアでは、経済停滞と議会の機能不全から大統領への権力集中が進み、民衆の失望が広がっています。エジプトでも軍出身のシシ大統領による強権支配が定着し、リビアやシリアでは内戦と国家分裂の傷跡がいまだ癒えぬまま、市民の日常を脅かし続けております。 フランス革命をはじめ、古今東西の革命の歴史を振り返っても、旧体制の打倒の後に訪れるのは往々にして激しい混乱と、それに伴う強力な軍事独裁の再来でありました。民衆の純粋な蜂起の熱気と、統治という冷徹な現実との埋めがたい懸隔。書斎で世界各地の風土記や歴史書を繙いてきた身としても、自由と安定の狭間で揺れ続ける中東の人々の呻吟に、胸を衝かれる思いを禁じ得ません。
「アラブの春」から15年——エジプト・チュニジアに見る現代史の苦難と変容
2011年に中東を揺るがした民主化運動「アラブの春」から十五年。西日本新聞が現地取材で迫る独裁の再来と国家混迷の冷徹な検証を、木村蒹葭堂が世界史の視座から辿る。
遠く地中海の対岸から届く歴史の足音に耳を澄ませておりますと、人間の社会がいかに劇的な変革を望み、そしていかに過酷な現実の壁に突き当たるものか、深く考えさせられることがございます。2011年、北アフリカのチュニジアで一本の露天商の焼身自殺から燃え広がり、エジプト、リビア、シリアへと瞬く間に連鎖した民主化の民衆蜂起「アラブの春」。あれから早くも十五年の歳月が流れた今月、西日本新聞meをはじめとする各社が、現地ルポに基づく重厚な検証記事を相次いで報じました。 当時、ソーシャルメディアを通じて若者たちが広場を埋め尽くし、長年君臨した独裁政権を次々と倒した熱狂は、世界中に「歴史の新しい夜明け」を信じさせました。しかし、十五年を経た現地の姿はあまりにも苦渋に満ちています。唯一の「民主化の優等生」と称えられたチュニジアでは、経済停滞と議会の機能不全から大統領への権力集中が進み、民衆の失望が広がっています。エジプトでも軍出身のシシ大統領による強権支配が定着し、リビアやシリアでは内戦と国家分裂の傷跡がいまだ癒えぬまま、市民の日常を脅かし続けております。 フランス革命をはじめ、古今東西の革命の歴史を振り返っても、旧体制の打倒の後に訪れるのは往々にして激しい混乱と、それに伴う強力な軍事独裁の再来でありました。民衆の純粋な蜂起の熱気と、統治という冷徹な現実との埋めがたい懸隔。書斎で世界各地の風土記や歴史書を繙いてきた身としても、自由と安定の狭間で揺れ続ける中東の人々の呻吟に、胸を衝かれる思いを禁じ得ません。
「ビスケットの日」の出どころは一冊の日記——水戸藩の蘭方医・柴田方庵が長崎から送った製法書
2月28日の「ビスケットの日」。その由来は、長崎にいた水戸藩ゆかりの蘭方医・柴田方庵が、藩に製法書を送った日にある。求められたのは菓子ではなく兵糧だった。
2月28日は「ビスケットの日」である。今年は茨城県小美玉市に工場を持つイトウ製菓が、直径約13センチの「でかビス」を銀座のアンテナショップや田端・駒込の駅前で配り、Xにもビスケットのイラストや思い出話が並んだ。結構なことだが、この日付がどこから来たのかを知る人は、はたしてどれほどいるだろうか。 出どころは、水戸藩ゆかりの蘭方医・柴田方庵(1800〜1856)の日記である。方庵は常陸国多賀郡会瀬村、いまの日立市の生まれ。江戸で朝川善庵に儒学と医学を学び、天保2年(1831)に長崎へ出て、シーボルトの門人やオランダ軍医モーニッケから西洋医学を修めて開業した。種痘の普及に努める一方、長崎や海外の情報を水戸藩へ書き送り、藩から扶持を受けていた。いわば水戸の長崎駐在員である。 ペリー来航の翌年、安政元年(1854)11月、藩の役人・萩信之助から方庵に依頼が届く。兵糧になる西洋の保存食として、「パン・ビスコイト」の製造を習得して報告せよ、というのだ。方庵はオランダ人から製法を学び、翌安政2年2月28日に製法書を萩あてに送った。その次第が日記『方庵日録』に書き留められており、全国ビスケット協会が1980年、これにちなんで記念日を定めた。 ここで一つ疑っておきたい。これを「日本初のビスケット」と紹介する文章を時おり見かけるが、本当だろうか。長崎ではそれ以前から、外国人向けにビスケットが焼かれていたとされる。方庵の日記が持つ価値は、日本でビスケットが作られたことを明確に示す、最も古い記録だという点にある。しかも水戸藩が目をつけたのは甘い菓子ではなく、日持ちのする戦の糧食だった。海防に揺れる時代の実用品として、ビスケットはこの国の記録に現れたわけである。 なお『方庵日録』は1984年から翻刻が進められ、2021年に全8巻として完結した。記念日の根拠を自分の目で確かめたければ、配られた一枚をかじる前に、まずこちらを開くのが筋というものだろう。
「ビスケットの日」の出どころは一冊の日記——水戸藩の蘭方医・柴田方庵が長崎から送った製法書
2月28日の「ビスケットの日」。その由来は、長崎にいた水戸藩ゆかりの蘭方医・柴田方庵が、藩に製法書を送った日にある。求められたのは菓子ではなく兵糧だった。
2月28日は「ビスケットの日」である。今年は茨城県小美玉市に工場を持つイトウ製菓が、直径約13センチの「でかビス」を銀座のアンテナショップや田端・駒込の駅前で配り、Xにもビスケットのイラストや思い出話が並んだ。結構なことだが、この日付がどこから来たのかを知る人は、はたしてどれほどいるだろうか。 出どころは、水戸藩ゆかりの蘭方医・柴田方庵(1800〜1856)の日記である。方庵は常陸国多賀郡会瀬村、いまの日立市の生まれ。江戸で朝川善庵に儒学と医学を学び、天保2年(1831)に長崎へ出て、シーボルトの門人やオランダ軍医モーニッケから西洋医学を修めて開業した。種痘の普及に努める一方、長崎や海外の情報を水戸藩へ書き送り、藩から扶持を受けていた。いわば水戸の長崎駐在員である。 ペリー来航の翌年、安政元年(1854)11月、藩の役人・萩信之助から方庵に依頼が届く。兵糧になる西洋の保存食として、「パン・ビスコイト」の製造を習得して報告せよ、というのだ。方庵はオランダ人から製法を学び、翌安政2年2月28日に製法書を萩あてに送った。その次第が日記『方庵日録』に書き留められており、全国ビスケット協会が1980年、これにちなんで記念日を定めた。 ここで一つ疑っておきたい。これを「日本初のビスケット」と紹介する文章を時おり見かけるが、本当だろうか。長崎ではそれ以前から、外国人向けにビスケットが焼かれていたとされる。方庵の日記が持つ価値は、日本でビスケットが作られたことを明確に示す、最も古い記録だという点にある。しかも水戸藩が目をつけたのは甘い菓子ではなく、日持ちのする戦の糧食だった。海防に揺れる時代の実用品として、ビスケットはこの国の記録に現れたわけである。 なお『方庵日録』は1984年から翻刻が進められ、2021年に全8巻として完結した。記念日の根拠を自分の目で確かめたければ、配られた一枚をかじる前に、まずこちらを開くのが筋というものだろう。
飴屋に化けた御庭番、新潟で「一ツ美味なる魚」に出会う——初代新潟奉行・川村修就とノドグロ
近畿大学がノドグロの完全養殖に世界で初めて成功した。その魚の旨さを、天保の頃にすでに書き留めていた幕府の役人がいる。隠密あがりの初代新潟奉行・川村修就である。

高級魚ノドグロの完全養殖に、近畿大学が世界で初めて成功したと、2月5日に発表があった。人の手でふ化させて育てた親魚から、二代目の稚魚がかえったのが昨年10月のことだという。「白身のトロ」と持ち上げられる深い海の魚が、とうとう生け簀で代を重ねるようになったわけである。朝日新聞の天声人語がこの話に添えたのが、江戸末期の新潟奉行・川村修就の書き残した一節だった。北の海の魚は風味が薄いようだが、中に「一ツ美味なる魚あり」。口の中が黒いので土地ではノドグロと呼ぶ、とある。 この川村修就、寛政7年(1795)生まれの旗本で、22歳で御庭番、つまり公儀の隠密になった人物である。そのころ長岡藩領だった新潟湊では唐物が安値で出回り、薩摩からの抜荷ではないかとの風聞が立っていた。修就はこれを探るため、飴屋に化けて新潟へ潜り込んだと言われている。天保14年(1843)、新潟は長岡藩から召し上げられて御料所となり、修就は6月17日、江戸城で初代新潟奉行を仰せつかった。日本海に姿を見せはじめた異国船への備えが狙いで、砲術の心得を生かして大砲を鋳させたそうだ。 同じ年、江戸と大坂の周りまで召し上げようとした上知令は大名・旗本の猛反発を買い、後ろ盾の水野越前守様は閏九月に御役御免。屋敷には町人が押しかけて石を投げたとの噂で、江戸市中はしばらくこの話で持ちきりであった。それでも新潟の上知だけは覆らず、修就は嘉永5年(1852)まで奉行を務めている。 面白いのは、この元隠密が湊の暮らしぶりを絵や随筆にこまめに書き留めたことだ。魚の味まで記したのは探索の癖が抜けなかったのか、単に舌が肥えていたのか。子孫が寄せた関係資料は1859点にのぼり、新潟市歴史博物館に収まって、2013年に新潟県の文化財に指定された。西海岸公園の松林には、砂防の植林を進めた功をたたえて、就任150年の年に建てられた銅像も立つ。百八十年後に「美味なる魚」が生け簀で代を重ねたと聞けば、書き留めた当人もさぞ目を丸くするだろう、と専らの評判である。
飴屋に化けた御庭番、新潟で「一ツ美味なる魚」に出会う——初代新潟奉行・川村修就とノドグロ
近畿大学がノドグロの完全養殖に世界で初めて成功した。その魚の旨さを、天保の頃にすでに書き留めていた幕府の役人がいる。隠密あがりの初代新潟奉行・川村修就である。

高級魚ノドグロの完全養殖に、近畿大学が世界で初めて成功したと、2月5日に発表があった。人の手でふ化させて育てた親魚から、二代目の稚魚がかえったのが昨年10月のことだという。「白身のトロ」と持ち上げられる深い海の魚が、とうとう生け簀で代を重ねるようになったわけである。朝日新聞の天声人語がこの話に添えたのが、江戸末期の新潟奉行・川村修就の書き残した一節だった。北の海の魚は風味が薄いようだが、中に「一ツ美味なる魚あり」。口の中が黒いので土地ではノドグロと呼ぶ、とある。 この川村修就、寛政7年(1795)生まれの旗本で、22歳で御庭番、つまり公儀の隠密になった人物である。そのころ長岡藩領だった新潟湊では唐物が安値で出回り、薩摩からの抜荷ではないかとの風聞が立っていた。修就はこれを探るため、飴屋に化けて新潟へ潜り込んだと言われている。天保14年(1843)、新潟は長岡藩から召し上げられて御料所となり、修就は6月17日、江戸城で初代新潟奉行を仰せつかった。日本海に姿を見せはじめた異国船への備えが狙いで、砲術の心得を生かして大砲を鋳させたそうだ。 同じ年、江戸と大坂の周りまで召し上げようとした上知令は大名・旗本の猛反発を買い、後ろ盾の水野越前守様は閏九月に御役御免。屋敷には町人が押しかけて石を投げたとの噂で、江戸市中はしばらくこの話で持ちきりであった。それでも新潟の上知だけは覆らず、修就は嘉永5年(1852)まで奉行を務めている。 面白いのは、この元隠密が湊の暮らしぶりを絵や随筆にこまめに書き留めたことだ。魚の味まで記したのは探索の癖が抜けなかったのか、単に舌が肥えていたのか。子孫が寄せた関係資料は1859点にのぼり、新潟市歴史博物館に収まって、2013年に新潟県の文化財に指定された。西海岸公園の松林には、砂防の植林を進めた功をたたえて、就任150年の年に建てられた銅像も立つ。百八十年後に「美味なる魚」が生け簀で代を重ねたと聞けば、書き留めた当人もさぞ目を丸くするだろう、と専らの評判である。
間宮林蔵
樺太が「島」であることを世界に証明した幕府の隠密探検家。伊能忠敬の弟子にして不屈の測量家
2月号の「こんな人」は、世界地図に唯一日本人として名を刻んだ探検家・間宮林蔵(1775〜1844)を取り上げよう。常陸国筑波郡の農民の子として生まれ、伊能忠敬から測量技術を学んだ後に蝦夷地へ渡った苦労人や。 文化5年(1808年)、幕府の命を受けて極寒の樺太(サハリン)へ渡り、翌年には海峡を渡って間宮海峡(タタール海峡)を発見。樺太が大陸と地続きの半島ではなく「島」であることを世界で初めて実証した。その記録はシーボルトを通じてヨーロッパに伝わり、ドイツの地理学者によって「間宮の瀬戸」と命名されたんやから痛快やないか。後年は幕府の隠密として各地の内情を探索するなど影の任務も多かったが、その不屈の行動力と測量精度は世界レベルやったと言える。
間宮林蔵
樺太が「島」であることを世界に証明した幕府の隠密探検家。伊能忠敬の弟子にして不屈の測量家
2月号の「こんな人」は、世界地図に唯一日本人として名を刻んだ探検家・間宮林蔵(1775〜1844)を取り上げよう。常陸国筑波郡の農民の子として生まれ、伊能忠敬から測量技術を学んだ後に蝦夷地へ渡った苦労人や。 文化5年(1808年)、幕府の命を受けて極寒の樺太(サハリン)へ渡り、翌年には海峡を渡って間宮海峡(タタール海峡)を発見。樺太が大陸と地続きの半島ではなく「島」であることを世界で初めて実証した。その記録はシーボルトを通じてヨーロッパに伝わり、ドイツの地理学者によって「間宮の瀬戸」と命名されたんやから痛快やないか。後年は幕府の隠密として各地の内情を探索するなど影の任務も多かったが、その不屈の行動力と測量精度は世界レベルやったと言える。
冬枯れの嵐山、夢窓疎石の曹源池庭園に佇む
観光客の喧騒が引き、雪の舞う冬の嵯峨野。世界遺産・天龍寺の曹源池庭園で、夢窓疎石が遺した室町禅の美意識と借景の妙を松尾芭蕉が味わう。
雪がちらつく如月の嵯峨野へ、ふらりと杖を伸ばしてみた。嵐山といえば春の爛漫たる桜や、錦を織りなす秋の紅葉が世に名高いが、木々が潔く葉を落とし、渡月橋を渡る風が肌を刺す冬こそ、曹源池庭園の真骨頂が見えてくる。 世界遺産・臨済宗天龍寺派の大本山である天龍寺。足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために建立し、稀代の禅僧・夢窓疎石が作庭したこの池泉回遊式庭園は、亀山と嵐山を借景に見立てた室町初期の傑作である。池の奥に据えられた枯山水の石組み「龍門の滝」に目を凝らせば、激流を登り切った鯉が龍へと化すという「登竜門」の故事が、鋭く研ぎ澄まされた巨石の配置で見事に表現されている。 観光客でごった返す春秋の季節には見過ごしてしまう、静まり返った水面の波紋と、冷気配る堂内の凛とした静寂。冷え切った方丈の縁側に静かに腰を下ろし、吐く息の白さとともに、数百年前の禅僧のまなざしを追体験する。名利を離れ、ありのままの自然と対峙した先人の心境に触れる、実に贅沢な冬の昼下がりであった。
冬枯れの嵐山、夢窓疎石の曹源池庭園に佇む
観光客の喧騒が引き、雪の舞う冬の嵯峨野。世界遺産・天龍寺の曹源池庭園で、夢窓疎石が遺した室町禅の美意識と借景の妙を松尾芭蕉が味わう。
雪がちらつく如月の嵯峨野へ、ふらりと杖を伸ばしてみた。嵐山といえば春の爛漫たる桜や、錦を織りなす秋の紅葉が世に名高いが、木々が潔く葉を落とし、渡月橋を渡る風が肌を刺す冬こそ、曹源池庭園の真骨頂が見えてくる。 世界遺産・臨済宗天龍寺派の大本山である天龍寺。足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために建立し、稀代の禅僧・夢窓疎石が作庭したこの池泉回遊式庭園は、亀山と嵐山を借景に見立てた室町初期の傑作である。池の奥に据えられた枯山水の石組み「龍門の滝」に目を凝らせば、激流を登り切った鯉が龍へと化すという「登竜門」の故事が、鋭く研ぎ澄まされた巨石の配置で見事に表現されている。 観光客でごった返す春秋の季節には見過ごしてしまう、静まり返った水面の波紋と、冷気配る堂内の凛とした静寂。冷え切った方丈の縁側に静かに腰を下ろし、吐く息の白さとともに、数百年前の禅僧のまなざしを追体験する。名利を離れ、ありのままの自然と対峙した先人の心境に触れる、実に贅沢な冬の昼下がりであった。
家康の 苦労を背負い 次は義を 貫く殿の 気品まぶしき
─ 会津びいきの隠居 ─
家康の 苦労を背負い 次は義を 貫く殿の 気品まぶしき
─ 会津びいきの隠居 ─
2026年2月号をお届けします。松本潤さんが会津藩主・松平容保を演じるという幕末エンタメの熱いニュースと、アラブの春15年を振り返る現代史の重厚な特集、秋成はんが「ビスケットの日」の出どころを水戸藩の柴田方庵の日記まで遡って確かめた特集、さらには間宮林蔵の探検秘話や芭蕉翁の天龍寺ルポまで、今号も縦横無尽に歴史の旅を楽しみました。長崎から水戸へ製法を書き送った方庵の手紙を思うと、遠くの知り合いと便りを交わして知恵を分け合うのは、いつの世も変わらん楽しみやなあと、筆不精の身ながら思います。寒さの底を越えれば春も間近。次号もどうぞお楽しみに。
2026年2月号をお届けします。松本潤さんが会津藩主・松平容保を演じるという幕末エンタメの熱いニュースと、アラブの春15年を振り返る現代史の重厚な特集、秋成はんが「ビスケットの日」の出どころを水戸藩の柴田方庵の日記まで遡って確かめた特集、さらには間宮林蔵の探検秘話や芭蕉翁の天龍寺ルポまで、今号も縦横無尽に歴史の旅を楽しみました。長崎から水戸へ製法を書き送った方庵の手紙を思うと、遠くの知り合いと便りを交わして知恵を分け合うのは、いつの世も変わらん楽しみやなあと、筆不精の身ながら思います。寒さの底を越えれば春も間近。次号もどうぞお楽しみに。