萱野権兵衛ら会津藩士を弔う——松平家墓所での「お花まつり」と奈与竹の碑前祭
幕末の悲劇を越えて受け継がれる会津の祈り。家老・萱野権兵衛の慰霊、松平家墓所のお花まつり、女性たちを偲ぶ「奈与竹の碑前祭」まで。
初夏の若葉が青空に映える五月、陸奥の山河に抱かれた会津若松へと足を運んだ。古戦場の面影を留める城下の街並みには、いまなお幕末維新の激動と、そこに散った人々への篤い祈りが色濃く漂っている。福島民報の報道によれば、戊辰戦争の敗戦責任を一身に背負い、主君の助命と藩の存続を願って切腹した会津藩家老・萱野権兵衛らを偲ぶ法要が、天寧寺の静寂に包まれた境内でしめやかに営まれたという。藩主・松平容保を守り、会津の誇りを次代に繋ぐために自ら刃を立てた権兵衛の義挙は、百六十年近い歳月を経た令和の今日も、郷土の誉れとして深く語り継がれている。 また、緑陰深き会津松平家の墓所では恒例の「お花まつり」が執り行われ、歴代藩主の神霊に香華が手向けられた。さらに鶴ヶ城攻防戦のさなかに命を散らした婦女子たちを祀る「奈与竹の碑」の前でも碑前祭が営まれ、手向けられた花々が初夏の風に揺れていた。会津武家屋敷では未公開資料を含む収蔵品展も開催され、刀槍や書状の数々が、動乱を生き抜いた人々の熱い息遣いを伝えている。 木立を抜ける涼風に杖を止め、苔むした墓石の前に佇むとき、かつて「夏草や兵どもが夢の跡」と詠んだ日の感慨が胸をよぎる。勝ち敗けの世俗を超え、誠を尽くした先人を慈しみ、その魂を町衆総出で抱きとめ続ける会津の情理。新緑の城下に満ちる祈りの静けさに、旅の心も深く洗われる思いがした。
萱野権兵衛ら会津藩士を弔う——松平家墓所での「お花まつり」と奈与竹の碑前祭
幕末の悲劇を越えて受け継がれる会津の祈り。家老・萱野権兵衛の慰霊、松平家墓所のお花まつり、女性たちを偲ぶ「奈与竹の碑前祭」まで。
初夏の若葉が青空に映える五月、陸奥の山河に抱かれた会津若松へと足を運んだ。古戦場の面影を留める城下の街並みには、いまなお幕末維新の激動と、そこに散った人々への篤い祈りが色濃く漂っている。福島民報の報道によれば、戊辰戦争の敗戦責任を一身に背負い、主君の助命と藩の存続を願って切腹した会津藩家老・萱野権兵衛らを偲ぶ法要が、天寧寺の静寂に包まれた境内でしめやかに営まれたという。藩主・松平容保を守り、会津の誇りを次代に繋ぐために自ら刃を立てた権兵衛の義挙は、百六十年近い歳月を経た令和の今日も、郷土の誉れとして深く語り継がれている。 また、緑陰深き会津松平家の墓所では恒例の「お花まつり」が執り行われ、歴代藩主の神霊に香華が手向けられた。さらに鶴ヶ城攻防戦のさなかに命を散らした婦女子たちを祀る「奈与竹の碑」の前でも碑前祭が営まれ、手向けられた花々が初夏の風に揺れていた。会津武家屋敷では未公開資料を含む収蔵品展も開催され、刀槍や書状の数々が、動乱を生き抜いた人々の熱い息遣いを伝えている。 木立を抜ける涼風に杖を止め、苔むした墓石の前に佇むとき、かつて「夏草や兵どもが夢の跡」と詠んだ日の感慨が胸をよぎる。勝ち敗けの世俗を超え、誠を尽くした先人を慈しみ、その魂を町衆総出で抱きとめ続ける会津の情理。新緑の城下に満ちる祈りの静けさに、旅の心も深く洗われる思いがした。
「日本初のクイズ番組」の裏にGHQの影——民主化政策と昭和ラジオ文化の誕生
プレジデントオンラインが切り込むGHQの言論・放送指導。戦後日本のラジオ放送が果した役割と「斬新すぎる設問」の真相。
敗戦の混乱と虚脱がいまだ濃く立ち込めていた昭和二十年代初頭、焦土と化した街に鳴り響いたラジオの声は、人々に何を吹き込んだのか。PRESIDENT Onlineが伝えた「日本初のクイズ番組」に関する論考を読みながら、占領統治という異質な時代の複雑さに改めて考えを巡らせることとなった。終戦直後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の民間情報教育局(CIE)が日本の放送事業の民主化・思想善導を目的に強力に指導し、誕生したのが『話の泉』や『二十の扉』といったクイズ番組であったという。 当時の番組で出題されたのは、単なる博識や雑学を競うような遊興ではない。現代の目から見れば驚くほど直接的かつ斬新な設問が投げかけられ、封建的な忠君愛国の残滓を払拭し、市民一人ひとりに客観的かつ合理的な思考を促す狙いが厳密に組み込まれていた。一見すると市民生活を潤す明るい新時代の娯楽に見えながら、その内実は周到に計算された「民主化の教科書」であったわけだ。 甘い郷愁や美談に惑わされず史料を読み解くならば、GHQによるプレスコードや厳しい検閲体制と、この「開かれたクイズ番組」は表裏一体の統治政策であったことが浮き彫りとなる。思想を統制する一方で、自発的な思考を装わせる巧妙なメディア戦略。だが同時に、その枠組みのなかで人々が知的な愉悦を見出し、戦後昭和のラジオ文化を開花させていったことも紛れもない事実である。統治の意図と受容の実態。その二面性を冷徹に見つめてこそ、戦後日本の精神史が真に見えてくる。
「日本初のクイズ番組」の裏にGHQの影——民主化政策と昭和ラジオ文化の誕生
プレジデントオンラインが切り込むGHQの言論・放送指導。戦後日本のラジオ放送が果した役割と「斬新すぎる設問」の真相。
敗戦の混乱と虚脱がいまだ濃く立ち込めていた昭和二十年代初頭、焦土と化した街に鳴り響いたラジオの声は、人々に何を吹き込んだのか。PRESIDENT Onlineが伝えた「日本初のクイズ番組」に関する論考を読みながら、占領統治という異質な時代の複雑さに改めて考えを巡らせることとなった。終戦直後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の民間情報教育局(CIE)が日本の放送事業の民主化・思想善導を目的に強力に指導し、誕生したのが『話の泉』や『二十の扉』といったクイズ番組であったという。 当時の番組で出題されたのは、単なる博識や雑学を競うような遊興ではない。現代の目から見れば驚くほど直接的かつ斬新な設問が投げかけられ、封建的な忠君愛国の残滓を払拭し、市民一人ひとりに客観的かつ合理的な思考を促す狙いが厳密に組み込まれていた。一見すると市民生活を潤す明るい新時代の娯楽に見えながら、その内実は周到に計算された「民主化の教科書」であったわけだ。 甘い郷愁や美談に惑わされず史料を読み解くならば、GHQによるプレスコードや厳しい検閲体制と、この「開かれたクイズ番組」は表裏一体の統治政策であったことが浮き彫りとなる。思想を統制する一方で、自発的な思考を装わせる巧妙なメディア戦略。だが同時に、その枠組みのなかで人々が知的な愉悦を見出し、戦後昭和のラジオ文化を開花させていったことも紛れもない事実である。統治の意図と受容の実態。その二面性を冷徹に見つめてこそ、戦後日本の精神史が真に見えてくる。
食べない膳に込めた「御馳走一番」——呉・松濤園で所蔵品展「朝鮮通信使 はじまりの物語」
江戸時代に12回来日した朝鮮通信使。寄港地の安芸・下蒲刈で広島藩が用意した儀式の膳は、豪華なのにほとんど食べられなかったという。もてなしの勘定を、西鶴がそろばん片手にのぞく。
伊勢エビに鯛、色とりどりの細工物。ずらりと並んだ膳を前にして、客はほとんど箸をつけない。もったいない話やけど、それが礼儀だったというから面白い。広島県呉市下蒲刈町の松濤園で、所蔵品展「朝鮮通信使 はじまりの物語」が開かれている。園内の朝鮮通信使資料館「御馳走一番館」に、絵巻や料理の模型など約40点が並ぶという。 朝鮮通信使は、豊臣秀吉の朝鮮出兵で途絶えた国交を立て直すため、江戸時代の1607年に始まった朝鮮王朝の使節団だ。1811年まで12回来日し、多いときは500人を超える一行が、瀬戸内を船で上って江戸を目指した。その途中で寄港したのが安芸の下蒲刈で、ここで接待を受け持った広島藩のもてなしは、「安芸蒲刈御馳走一番」と呼ばれるほど豪勢だったらしい。 展示の目玉は、一行を迎えた儀式用の膳「七五三の膳」の模型。伊勢エビなど豪華な食材を使いながら、儀式のための膳なので、ほとんど食べられることはなかったそうだ。実際に三使(正使・副使・従事官)の腹を満たしたのは、汁物3品に料理15品の「三汁十五菜」という別の献立だったというから、二段構えのもてなしである。 さて、わしが気になるのはやっぱり勘定のほう。見せるための膳と食べるための膳を両方こしらえて、500人からの一行を迎える。通信使が2年続けて来たら藩の財政が傾く、とまで言われたのも無理はない。わしが大坂で筆を執っていた天和の頃にも一行がやって来て、町じゅうが見物に沸いた。あれだけの見物人が出れば、茶店も宿も大儲けやったろう。 もっとも、ここまで元手をかけたのは、戦のあとの隣国との付き合いを、もてなしの形で確かめ合うためだった。食べられなかった豪華な膳は、平和の値段の、目に見える勘定書きだったのかもしれない。
食べない膳に込めた「御馳走一番」——呉・松濤園で所蔵品展「朝鮮通信使 はじまりの物語」
江戸時代に12回来日した朝鮮通信使。寄港地の安芸・下蒲刈で広島藩が用意した儀式の膳は、豪華なのにほとんど食べられなかったという。もてなしの勘定を、西鶴がそろばん片手にのぞく。
伊勢エビに鯛、色とりどりの細工物。ずらりと並んだ膳を前にして、客はほとんど箸をつけない。もったいない話やけど、それが礼儀だったというから面白い。広島県呉市下蒲刈町の松濤園で、所蔵品展「朝鮮通信使 はじまりの物語」が開かれている。園内の朝鮮通信使資料館「御馳走一番館」に、絵巻や料理の模型など約40点が並ぶという。 朝鮮通信使は、豊臣秀吉の朝鮮出兵で途絶えた国交を立て直すため、江戸時代の1607年に始まった朝鮮王朝の使節団だ。1811年まで12回来日し、多いときは500人を超える一行が、瀬戸内を船で上って江戸を目指した。その途中で寄港したのが安芸の下蒲刈で、ここで接待を受け持った広島藩のもてなしは、「安芸蒲刈御馳走一番」と呼ばれるほど豪勢だったらしい。 展示の目玉は、一行を迎えた儀式用の膳「七五三の膳」の模型。伊勢エビなど豪華な食材を使いながら、儀式のための膳なので、ほとんど食べられることはなかったそうだ。実際に三使(正使・副使・従事官)の腹を満たしたのは、汁物3品に料理15品の「三汁十五菜」という別の献立だったというから、二段構えのもてなしである。 さて、わしが気になるのはやっぱり勘定のほう。見せるための膳と食べるための膳を両方こしらえて、500人からの一行を迎える。通信使が2年続けて来たら藩の財政が傾く、とまで言われたのも無理はない。わしが大坂で筆を執っていた天和の頃にも一行がやって来て、町じゅうが見物に沸いた。あれだけの見物人が出れば、茶店も宿も大儲けやったろう。 もっとも、ここまで元手をかけたのは、戦のあとの隣国との付き合いを、もてなしの形で確かめ合うためだった。食べられなかった豪華な膳は、平和の値段の、目に見える勘定書きだったのかもしれない。
母は捨松、父は巌、息子は縄文を掘った——「知られざる考古学者」大山柏に光
朝ドラ『風、薫る』で大山捨松が脚光を浴びる春、その息子で戦前の考古学者・大山柏が掘った縄文土器の「再発見」が報じられた。空襲で研究所ごと焼けた男の仕事を、編集長がたどる。
この春は、あちこちで大山捨松の名前を見かけた。朝ドラ『風、薫る』では多部未華子さんが捨松を演じ、その日本語が前作『ばけばけ』を思い出させると話題になった。捨松を主人公にした西脇隆『捨松、大山巌の妻』の案内も出ている。けれど、わしがいちばん目を留めたのは、毎日新聞のこんな見出しだった。「母は捨松 知られざる戦前の考古学者が発掘 縄文土器『再発見』」。 その考古学者が、捨松と大山巌の息子・大山柏(1889〜1969)である。陸軍士官学校を出た軍人で、1923年に近代戦史研究を名目にヨーロッパへ留学し、ベルリン大学で旧石器時代を中心に考古学を学んだ。翌年に帰国すると、東京・穏田の自邸に史前研究室を開き、のちに軍を退いて史前學会を興し、『史前学雑誌』を出した。1926年から31年にかけては甲野勇らと関東の貝塚を次々に掘り、縄文土器の編年づくりに大きな足跡を残している。 研究所には、遺跡の調査と雑誌の刊行に加えて、出土品の展示室と約1万冊の蔵書があったという。これはもう、わしの蒹葭堂と張り合える宝の蔵やなあ。ところが1945年5月25日の空襲で、大山邸も研究所も、文献や資料もろとも焼けてしまった。「知られざる」と呼ばれるのは、仕事の跡がまとまって残らなかったことも大きいのだろう。だからこそ、柏の掘った土器が改めて見いだされたという知らせには、焼け残った手紙が一通出てきたような嬉しさがある。 もう一つ、柏には忘れがたい仕事がある。戦後の1968年に出した『戊辰役戦史』で、今も戊辰戦争研究の基本資料とされる。父は会津を攻めた薩摩の砲兵、母は会津の家老の娘として鶴ヶ城に籠城した人。その二人の子が、あの戦を記録としてまとめたわけで、考えるほどに因縁の深い話である。 ドラマで母が脚光を浴びた年に、息子の仕事にも光が当たる。捨松の物語を楽しんだ方は、ぜひ柏の名前も覚えて帰ってほしい。
母は捨松、父は巌、息子は縄文を掘った——「知られざる考古学者」大山柏に光
朝ドラ『風、薫る』で大山捨松が脚光を浴びる春、その息子で戦前の考古学者・大山柏が掘った縄文土器の「再発見」が報じられた。空襲で研究所ごと焼けた男の仕事を、編集長がたどる。
この春は、あちこちで大山捨松の名前を見かけた。朝ドラ『風、薫る』では多部未華子さんが捨松を演じ、その日本語が前作『ばけばけ』を思い出させると話題になった。捨松を主人公にした西脇隆『捨松、大山巌の妻』の案内も出ている。けれど、わしがいちばん目を留めたのは、毎日新聞のこんな見出しだった。「母は捨松 知られざる戦前の考古学者が発掘 縄文土器『再発見』」。 その考古学者が、捨松と大山巌の息子・大山柏(1889〜1969)である。陸軍士官学校を出た軍人で、1923年に近代戦史研究を名目にヨーロッパへ留学し、ベルリン大学で旧石器時代を中心に考古学を学んだ。翌年に帰国すると、東京・穏田の自邸に史前研究室を開き、のちに軍を退いて史前學会を興し、『史前学雑誌』を出した。1926年から31年にかけては甲野勇らと関東の貝塚を次々に掘り、縄文土器の編年づくりに大きな足跡を残している。 研究所には、遺跡の調査と雑誌の刊行に加えて、出土品の展示室と約1万冊の蔵書があったという。これはもう、わしの蒹葭堂と張り合える宝の蔵やなあ。ところが1945年5月25日の空襲で、大山邸も研究所も、文献や資料もろとも焼けてしまった。「知られざる」と呼ばれるのは、仕事の跡がまとまって残らなかったことも大きいのだろう。だからこそ、柏の掘った土器が改めて見いだされたという知らせには、焼け残った手紙が一通出てきたような嬉しさがある。 もう一つ、柏には忘れがたい仕事がある。戦後の1968年に出した『戊辰役戦史』で、今も戊辰戦争研究の基本資料とされる。父は会津を攻めた薩摩の砲兵、母は会津の家老の娘として鶴ヶ城に籠城した人。その二人の子が、あの戦を記録としてまとめたわけで、考えるほどに因縁の深い話である。 ドラマで母が脚光を浴びた年に、息子の仕事にも光が当たる。捨松の物語を楽しんだ方は、ぜひ柏の名前も覚えて帰ってほしい。
楠本イネ
シーボルトの娘にして日本最初の女性産科医。幕末・明治の荒波を蘭方医として切り拓いた先駆者
5月号の「こんな人」は、日本初の女性産科医として近代医学史に燦然と輝く楠本イネ(1827〜1903)。出島オランダ商館の医師シーボルトと日本人妻お滝のあいだに生まれた「おイネさん」や。 父が国外追放された後、父の高弟たち(石井宗謙、二宮敬作、村田蔵六ら)から蘭方医学・産科学を学んだ。当時、女性が学問を修めることすら異例だった時代に、混血への偏見や幾多の苦難を跳ね返して宇和島や長崎で開業。明治維新後には宮内省御用掛として明治天皇の御子(稚瑞照彦尊)の出産にも立ち会った。自らの手で運命を切り拓き、多くの母子の命を救い続けたイネの意志の強さは、現代を生きる我々にも深い勇気を与えてくれる。
楠本イネ
シーボルトの娘にして日本最初の女性産科医。幕末・明治の荒波を蘭方医として切り拓いた先駆者
5月号の「こんな人」は、日本初の女性産科医として近代医学史に燦然と輝く楠本イネ(1827〜1903)。出島オランダ商館の医師シーボルトと日本人妻お滝のあいだに生まれた「おイネさん」や。 父が国外追放された後、父の高弟たち(石井宗謙、二宮敬作、村田蔵六ら)から蘭方医学・産科学を学んだ。当時、女性が学問を修めることすら異例だった時代に、混血への偏見や幾多の苦難を跳ね返して宇和島や長崎で開業。明治維新後には宮内省御用掛として明治天皇の御子(稚瑞照彦尊)の出産にも立ち会った。自らの手で運命を切り拓き、多くの母子の命を救い続けたイネの意志の強さは、現代を生きる我々にも深い勇気を与えてくれる。
新緑の飯盛山と「さざえ堂」の二重螺旋を歩く
初夏の陽光に包まれた会津若松。白虎隊自刃の地・飯盛山から、世界的にも奇異な木造建築「さざエ堂」の構造美に息を呑む。
会津藩士の慰霊の報を聞き、新緑が眩しい飯盛山へ足を運んだ。参道を登りきると、白虎隊士が鶴ヶ城の炎上を誤認して自刃した斜面が眼下に広がる。初夏の若葉が萌える城下を眺めつつ、手を合わせずにはいられない。 その中腹にひっそりと佇むのが、寛政8年(1796年)建立の「円通三匝堂」、通称さざえ堂だ。木造六角三層のお堂に足を踏み入れると、上りと下りの参拝者が一度もすれ違わない二重螺旋のスロープが続く。レオナルド・ダ・ヴィンチのシャンボール城の二重階段を彷彿とさせる幾何学的な構造を、江戸時代の仏僧(郁堂和尚)が独力で木造建築として具現化したのだから恐れ入る。キシキシと軋む床板を踏みしめながら、会津人の深い信仰と卓越した大工技術の粋を肌で感じた。
新緑の飯盛山と「さざえ堂」の二重螺旋を歩く
初夏の陽光に包まれた会津若松。白虎隊自刃の地・飯盛山から、世界的にも奇異な木造建築「さざエ堂」の構造美に息を呑む。
会津藩士の慰霊の報を聞き、新緑が眩しい飯盛山へ足を運んだ。参道を登りきると、白虎隊士が鶴ヶ城の炎上を誤認して自刃した斜面が眼下に広がる。初夏の若葉が萌える城下を眺めつつ、手を合わせずにはいられない。 その中腹にひっそりと佇むのが、寛政8年(1796年)建立の「円通三匝堂」、通称さざえ堂だ。木造六角三層のお堂に足を踏み入れると、上りと下りの参拝者が一度もすれ違わない二重螺旋のスロープが続く。レオナルド・ダ・ヴィンチのシャンボール城の二重階段を彷彿とさせる幾何学的な構造を、江戸時代の仏僧(郁堂和尚)が独力で木造建築として具現化したのだから恐れ入る。キシキシと軋む床板を踏みしめながら、会津人の深い信仰と卓越した大工技術の粋を肌で感じた。
義のために 散りし命の 御霊へと 若葉の風が 手向ける花よ
─ 白虎の風 ─
義のために 散りし命の 御霊へと 若葉の風が 手向ける花よ
─ 白虎の風 ─
2026年5月号をお届けいたしました。今月は会津の地で受け継がれる戊辰戦争の義と慰霊の志、そして戦後GHQのラジオ番組指導というメディア史の小ネタを掘り下げてみました。捨松の息子で縄文を掘った大山柏の特集、西鶴はんが下蒲刈の「食べない御馳走」の勘定をはじいた朝鮮通信使の特集、芭蕉翁のさざえ堂巡訪記や、女医の先駆け・楠本イネの生涯など、初夏の薫風に乗せて読み応えたっぷりでお届けできたと思います。歴史は大きな政治の動きだけでなく、市井のラジオ番組や民衆の食事風景(カラッチの絵画)にも息づいていることを感じます。次号もお楽しみに。
2026年5月号をお届けいたしました。今月は会津の地で受け継がれる戊辰戦争の義と慰霊の志、そして戦後GHQのラジオ番組指導というメディア史の小ネタを掘り下げてみました。捨松の息子で縄文を掘った大山柏の特集、西鶴はんが下蒲刈の「食べない御馳走」の勘定をはじいた朝鮮通信使の特集、芭蕉翁のさざえ堂巡訪記や、女医の先駆け・楠本イネの生涯など、初夏の薫風に乗せて読み応えたっぷりでお届けできたと思います。歴史は大きな政治の動きだけでなく、市井のラジオ番組や民衆の食事風景(カラッチの絵画)にも息づいていることを感じます。次号もお楽しみに。